第三話 転落と拒絶

一学期の期末テストが終わってから数日後。

季節は梅雨に入り、連日の雨が学校全体の空気を重く湿らせていた。

窓ガラスを叩く雨粒の音が、教室の静寂をより一層強調している。

放課後の進路指導室。そこは、多くの生徒にとっては未来への希望を語る場所だが、今の吉岡玲奈にとっては、処刑台以外の何物でもなかった。


「……単刀直入に言おう。吉岡、お前のK大学への指定校推薦枠は取り消しだ」


進路指導担当の教師が、事務的な口調で告げた。

予想していたこととはいえ、実際にその言葉を聞いた瞬間、玲奈の頭の中が真っ白になった。

目の前のデスクに置かれた成績表。そこには、目を覆いたくなるような惨憺たる数字が並んでいる。

赤点、赤点、ギリギリの可、そして赤点。

中間テストでの失敗を取り戻すどころか、期末テストではさらに点数を落としていた。


「そ、そんな……先生、待ってください。私、部活も頑張ってたし、一年の頃からずっと評定平均は良かったじゃないですか! 今回ちょっと調子が悪かっただけで……」


玲奈は必死に食い下がった。声が震え、手のひらに嫌な汗が滲む。

推薦がなくなれば、一般入試で受験するしかない。しかし、今の玲奈の実力では、K大はおろか、名前も聞いたことのないFランク大学にすら受かるかどうか怪しいのだ。

「K大推薦合格確実」というブランドがあるからこそ、友人たちにもマウントが取れていたし、親も小遣いを弾んでくれていた。それが全て消える。


教師は眼鏡の位置を直し、冷ややかな視線を玲奈に向けた。


「『一年の頃から』と言うがな、吉岡。指定校推薦というのは、三年間継続して学力を維持し、生活態度も模範的である生徒に与えられるものだ。最近のお前の態度はなんだ? 授業中は居眠り、提出物は未提出、そしてこの成績の急降下だ」

「それは……」

「それに、お前の成績が良かった時期と、相沢が勉強を見ていた時期が完全に一致していることは、教員の間でも周知の事実だ。彼が手を引いた途端にこのザマでは、大学側にお前を『優秀な生徒』として送り出すわけにはいかん。高校の信用に関わるからな」


ぐうの音も出なかった。

先生たちは全てお見通しだったのだ。玲奈の実力ではなく、湊という「松葉杖」によって支えられていたハリボテの成績だったことを。


「一般入試への切り替えを勧める。今のままだと、どこの大学も厳しいぞ。浪人も覚悟しておけ」

「……はい」


蚊の鳴くような声で返事をするしかなかった。

進路指導室を出ると、廊下は薄暗く、雨の音が不気味に響いていた。

足元が崩れ落ちていくような感覚。

「浪人」という単語が、呪いのように頭の中を回る。


「ど、どうしよう……」


玲奈は震える手でスマートフォンを取り出した。

この恐怖と不安を、誰かに埋めてほしかった。

真っ先に思い浮かんだのは、今の彼氏である桐生翔の顔だった。

彼は「勉強なんて意味ねーよ」「大学行かなくても俺らが楽しく生きる道はある」といつも言っていた。

きっと、彼なら笑い飛ばしてくれる。「推薦なんて気にするなよ、俺がいるだろ」と言って抱きしめてくれるはずだ。

その言葉だけが、今の玲奈にとって唯一の救いだった。


「もしもし、翔くん? 今から会える?」


***


待ち合わせ場所に指定されたのは、駅前のファストフード店だった。

雨の中、傘をさして待っていた玲奈の前に、翔はいつも通り気怠げな様子で現れた。


「なんだよ玲奈。こんな雨の日に呼び出して。俺、パチンコ行ってたのに」


翔は濡れた傘を雑に畳みながら、向かいの席にドカッと座った。

玲奈はその態度に一瞬怯んだが、すがるような思いで口を開いた。


「ごめんね……。あのね、翔くん。聞いてほしいことがあるの」

「あー、何? 金なら貸さねーぞ」

「違うよ。……私、推薦取り消しになっちゃった」


玲奈は俯きながら、震える声で告白した。

翔の反応を待つ数秒が、永遠のように感じられた。

優しく頭を撫でてくれるだろうか。「大丈夫だ」と言ってくれるだろうか。


「……は?」


返ってきたのは、低く冷たい声だった。

玲奈がおずおずと顔を上げると、翔は心底軽蔑したような目でこちらを見ていた。


「推薦、なくなった? マジで?」

「う、うん。成績落ちちゃって……。だから、私、もうK大生にはなれないかも……」

「……なんだそれ。ダッサ」


翔は鼻で笑った。

その嘲笑は、玲奈の心臓を鋭くえぐった。


「え……?」

「いやさー、お前、顔はそこそこ可愛いけど、中身空っぽじゃん? それでも『進学校の推薦持ち』で『将来有望なK大生』だから付き合ってやってたのにさ。ただのバカな女になったら、何の価値もなくね?」


耳を疑った。

翔はいつも「玲奈はそのままでいい」「勉強なんてしなくていい」と言ってくれていたはずだ。

あれは嘘だったのか。


「ど、どういうこと……? 翔くん、私のこと好きって……世界を広げてくれるって……」

「好き? まあ、アクセサリーとしてはな。連れて歩くのに、進学校の制服着たお利口そうな女ってのはポイント高かったんだよ。友達にも自慢できたし。でもさ、推薦落ちこぼれたバカ女じゃ、俺の隣に置く意味ないわ」


翔はストローでジュースをズズッと啜り、面倒くさそうに吐き捨てた。


「てかさ、お前が勉強しなくていいって言ったのは、推薦決まってるからだろ? それ落とすとか、どんだけ頭悪いんだよ。引くわー」

「……っ」


あまりの言い草に、涙が溢れてきた。

湊は違った。湊は、玲奈が勉強できなくても、決して馬鹿にしなかった。根気強く教えてくれた。玲奈の将来を一番に考えてくれていた。

比較するまでもない。目の前の男は、玲奈のことなど最初からこれっぽっちも愛していなかったのだ。ただのブランド品として消費していただけだった。


「もういいや。お前といてもメリットねーし」


翔はスマホを取り出し、誰かにメッセージを打ち始めた。

画面には『今日ヒマ? 今から遊ぼーぜ』という文字と、知らない女の名前が見えた。


「別れようぜ、玲奈。俺、バカな女って嫌いなんだよね。話通じないし」

「待って! 翔くん、待ってよ! 私、翔くんのために湊を振ったんだよ!? なのに……」


玲奈はテーブル越しに翔の袖を掴んだ。

プライドも何もなかった。今ここで彼を失ったら、本当に一人ぼっちになってしまう。


「離せよ、うぜえな!」


翔は乱暴に手を振り払った。

玲奈の爪が剥がれそうになる痛みと共に、彼女の心も粉々に砕け散った。


「お前が勝手に振ったんだろ? 俺のせいにすんなよ。……じゃあな、負け犬ちゃん」


翔は飲みかけのジュースを放置したまま、席を立った。

店を出ていく彼の背中を、玲奈は追うことすらできなかった。

周囲の客からの好奇の視線が突き刺さる。

玲奈は両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いた。


推薦を失った。

彼氏も失った。

残ったのは、絶望的な成績と、空っぽの自分だけ。


「……湊」


無意識のうちに、その名前を呼んでいた。

もし湊がいたら。

彼なら、きっとこんな時でも助けてくれる。

「大丈夫だ、まだ一般入試まで時間がある」「俺がスケジュールを組み直すよ」。そう言って、あの優しい笑顔で手を差し伸べてくれるはずだ。

そうだ、湊なら。彼はずっと私に尽くしてくれていたのだから。

まだ間に合うかもしれない。

私が謝れば。泣いてすがれば。彼は優しいから、きっと許してくれる。


玲奈は涙を拭い、店を飛び出した。

雨の中、傘もささずに学校へと引き返す。

湊はまだ図書室にいるはずだ。


「戻らなきゃ……湊のところに……」


それは愛などではなかった。

沈没する船から逃げ出し、別の船にしがみつこうとする、浅ましい生存本能だった。


***


図書室は静寂に包まれていた。

雨音が遠く聞こえるだけの、知性の聖域。

その一角にある理数系コーナーの大きな机で、俺、相沢湊は参考書を広げていた。

隣には一ノ瀬雫がいる。

二人で同じ物理の難問に取り組み、無言のうちにペンを走らせる。

紙の上をペン先が滑る音だけが心地よく響く、充実した時間。


「……できた」

「私も」


ほぼ同時に顔を上げ、互いのノートを見せ合う。

解法のアプローチは違っていたが、導き出された答えは同じだった。


「なるほど、相沢君は運動エネルギーの変化に注目したのね。エレガントだわ」

「一ノ瀬さんの、相対速度を使った解法も速いな。計算量が少なくて済む」


互いの思考プロセスを称え合う。

この瞬間がたまらなく好きだった。

玲奈といた時の、一方的に知識を流し込むだけの作業とは違う。対等な人間同士が高め合う、本物のコミュニケーション。


「雨、強くなってきたわね」


一ノ瀬がふと窓の外を見た。

俺も釣られて視線を向ける。外は薄暗く、激しい雨が景色を煙らせている。


「そろそろ帰ろうか。駅まで送るよ」

「ええ、ありがとう」


片付けを始めようとしたその時だった。

図書室の入り口が乱暴に開け放たれ、静寂が破られた。


「湊ッ!!」


悲鳴のような声。

図書委員や他の生徒たちが驚いて顔を上げる。

入り口に立っていたのは、全身ずぶ濡れになり、髪を振り乱した吉岡玲奈だった。

雨水が制服から滴り落ち、床に水溜まりを作っている。メイクは流れ落ち、目は赤く腫れ上がっていた。

かつての華やかな美貌は見る影もない、幽鬼のような姿だった。


「……吉岡?」


俺は眉をひそめた。

彼女は俺の姿を見つけると、なりふり構わず駆け寄ってきた。

そして、俺の足元に崩れ落ちるようにして、膝をついた。


「湊、助けて……! お願い、私を助けて!」

「おい、静かにしろ。ここは図書室だぞ」

「そんなの関係ない! 私、もうダメなの……推薦取り消されちゃったの!」


玲奈は大声で泣き叫んだ。

周囲の視線が一斉に集まるが、彼女は気にする様子もない。


「翔くんに捨てられたの……あいつ、最低だった。私がバカになったら用済みだって……酷いよ、あんなの」


玲奈は俺のズボンの裾を掴み、涙と雨で濡れた顔を見上げた。


「やっぱり湊じゃなきゃダメなの! 湊が正しかったの! 私、間違ってた……反省してるから、ねえ!」

「……で?」


俺の声は冷え切っていた。

同情など湧かなかった。

彼女の口から出るのは、自分の不幸に対する嘆きと、他者への依存心だけだ。俺への謝罪の言葉すら、自分のための道具を取り戻すための芝居に見える。


「『で』って……! 復縁してよ! また勉強教えてよ! 湊のノートがあれば、まだ一般入試でK大狙えるでしょ!? お願い、ノート貸して! また毎日一緒に勉強しようよ!」


玲奈は必死にまくし立てた。

その言葉の端々から、「湊なら何とかしてくれる」「湊はまだ私のことが好きなはず」という甘えた思考が透けて見えた。

俺は深いため息をつき、彼女の手を自分の足から引き剥がした。


「無理だ」

「え……?」

「俺はお前の道具じゃない。それに、復縁? 笑わせるな」


俺は立ち上がり、彼女を見下ろした。


「お前、俺に何て言ったか覚えてるか? 『湊といると世界が狭くなる』『つまらない』『邪魔』。そう言って俺を捨てて、あの男を選んだのはお前自身だ」

「そ、それは……あの時はどうかしてたの! 今は目が覚めたから!」

「目が覚めたんじゃない。行き場がなくなっただけだろ」


図星を突かれたのか、玲奈が言葉を詰まらせる。

俺は一ノ瀬の方を見た。彼女は静かに本を閉じ、俺の判断を待ってくれている。

俺は一ノ瀬の隣に立ち、玲奈に告げた。


「俺は今、忙しいんだ。自分の受験勉強もあるし、一ノ瀬さんとの勉強会も大切にしたい」

「一ノ瀬さん……?」


玲奈が呆然と一ノ瀬を見る。

一ノ瀬は冷ややかな瞳で玲奈を見据え、静かに口を開いた。


「吉岡さん。あなたの言う『ノート』なら、相沢君はもう捨てたわよ」

「え……?」

「あなたが『いらない』って投げ捨てたあの夜に、彼も捨てたの。もう存在しないわ」

「嘘……嘘でしょ? だってあれ、湊が何ヶ月もかけて……」


玲奈が俺を見る。

俺は無表情に頷いた。


「ああ、捨てたよ。お前がゴミだと言ったから、ゴミ箱に入れた。当然だろ」

「そ、そんな……じゃあ、もう一度作ってよ! 湊ならすぐ作れるでしょ!?」


どこまでも浅ましい。

この期に及んで、まだ俺に労力を払わせようとするのか。

俺の中の最後の情けが、完全に消え失せた。


「断る」


短く、明確な拒絶。


「俺は、俺の価値を理解してくれる人のために時間を使いたい。お前みたいな、他人の努力を搾取することしか考えない人間に割く時間は一秒もない」

「み、湊……」

「それに、お前がバカにしていた『狭い世界』で、俺は今、最高に充実してるんだ。一ノ瀬さんという、最高のパートナーも見つけたしな」


俺は一ノ瀬の肩を抱き寄せた。

一ノ瀬は驚いたように少し目を見開いたが、すぐに頬を染めて、俺の体に身を寄せた。

その光景は、玲奈にとって決定的な敗北を意味していた。


「嫌……嫌だ、そんなの……! 私は!? 私はどうなるの!?」

「知ったことか」


俺は冷たく言い放つ。


「自分で選んだ道だろ。野垂れ死ぬなり、浪人するなり、好きにすればいい。ただ、二度と俺たちの前に現れるな。迷惑だ」


「行こう、一ノ瀬さん」

「ええ、相沢君」


俺たちは玲奈に背を向け、出口へと歩き出した。

背後で、「湊! 待って! 見捨てないで!」という悲痛な叫び声が響いたが、俺は振り返らなかった。

図書室の重い扉が閉まり、彼女の叫び声を遮断する。


廊下に出ると、雨音だけが響いていた。

一ノ瀬が、少し心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「……大丈夫?」

「ああ。むしろ、せいせいしたよ」


強がりではなかった。

胸のつかえが取れ、呼吸が楽になっていた。

過去の亡霊を完全に振り払った感覚。


「ありがとう、一ノ瀬さん。君がいてくれて良かった」

「ふふ、どういたしまして。……でも、肩を抱くのはちょっと大胆すぎじゃない?」


一ノ瀬が少し悪戯っぽく笑う。

俺は慌てて手を離した。


「ご、ごめん! 勢いでつい……」

「……嫌じゃなかったわよ」


彼女は小さく呟き、耳まで赤くして早足で歩き出した。

俺はその背中を追いかけながら、自然と笑みがこぼれた。

未来は明るい。

後ろで泣き崩れているであろう元カノのことなど、もう記憶の片隅にも残っていなかった。


図書室の中では、玲奈が一人、床に突っ伏して慟哭していた。

誰も彼女に声をかける者はいなかった。

自ら手放した幸福の大きさと、自分に向けられた冷酷な現実の重さに押し潰されながら、彼女はただ泣き続けるしかなかった。

だが、どれだけ涙を流しても、失った時間も、信頼も、そして指定校推薦も、二度と戻ってくることはないのだ。

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