第二話 補助輪のない自転車
あの最悪の夜から、二週間が経過した。
教室の空気は、微妙に変化していた。
俺と吉岡玲奈が別れたことは、瞬く間にクラス中に知れ渡っていた。玲奈自身が、自分の友人グループやSNSで「やっとフリーになった」「束縛から解放された」と吹聴して回っていたからだ。
当然、俺に対する視線も様々だった。「振られた哀れな男」と同情する者、「美人の彼女がいなくなってざまあみろ」と陰口を叩く者。
だが、俺にとってそれらの雑音は、驚くほどどうでもよかった。
「相沢、ここの問題だが……」
「はい。その微分方程式は、こちらの公式で置換してから解くのが最短かと」
「なるほど、よく予習しているな。完璧だ」
数学教師が感嘆の声を上げ、黒板に俺の回答を書き写していく。
俺は淡々とノートを取る。
玲奈と別れてから、俺の生活は劇的に変わっていた。
放課後の補習指導、毎晩のプリント作成、彼女の機嫌取りのためのLINEの即レス、週末のデートプラン作成。それら全てに費やしていた膨大な時間が、ぽっかりと空いたのだ。
その空いたリソースを、俺はすべて自分自身の学習と、趣味の読書に注ぎ込んだ。
結果として、俺の集中力は以前よりも増し、模試の判定もA判定で安定するようになっていた。
まるで、重たい足枷を外して走っているような感覚だ。
一方で、俺の斜め前の席に座る玲奈は、机に突っ伏して爆睡していた。
金髪の遊び人・翔との夜遊びがたたっているのか、最近の彼女は授業中ほとんど寝ているか、スマホを隠れていじっているかのどちらかだ。
「おい、吉岡。起きろ」
教師の鋭い声が飛ぶ。
ビクッと肩を震わせて、玲奈が顔を上げた。頬にはノートの跡がついている。
「あ、はい……何ですか?」
「『何ですか』じゃない。さっき相沢が答えた箇所の続きだ。ここからどう展開する?」
「えっ……と……」
玲奈が黒板を見る。そこには数Ⅲの複雑な数式が並んでいる。
彼女の視線が、無意識に俺の方へと泳いだ。
付き合っていた頃なら、俺は教師にバレないように小さな紙切れにヒントを書いて渡したり、口の動きで答えを教えたりしていただろう。彼女もそれを期待しているのが分かった。
俺は無表情のまま、彼女から視線を外し、自分の教科書へと目を落とした。
助ける義理など、微塵もない。
「……分かりません」
「はぁ。吉岡、お前な、指定校の校内選考に残ってるからって浮かれすぎだぞ。このままだと痛い目見るぞ」
「すみません……」
クラス中からクスクスという失笑が漏れる。
玲奈は顔を真っ赤にして俯き、俺の方を睨みつけた。その目には「なんで助けてくれないのよ」という理不尽な怒りが宿っていたが、俺は無視を決め込んだ。
彼女はまだ気づいていないのだ。自分が乗っていた自転車には、俺という補助輪がついていたことに。そして今、その補助輪が外され、自力でバランスを取らなければならないことに。
***
放課後。
玲奈はチャイムが鳴ると同時に、派手なメイク直しを始め、逃げるように教室を出て行った。おそらく校門で翔が待っているのだろう。
俺は一人、静寂を求めて図書室へと足を運んだ。
進学校の図書室は、放課後になると受験生たちの熱気で埋まる場所だが、一番奥にある理数系専門書のコーナーだけは、いつも人が少なく静かだ。
そこが俺の新しい聖域だった。
いつもの席に座り、赤本(過去問題集)を広げる。
難関大学の物理の問題。手応えのある難問に没頭している時間は、余計なことを考えずに済む至福の時だ。
「……ここ、運動量保存則の適用範囲を間違えてる」
不意に、涼やかな声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
腰まで届く艶やかな黒髪、理知的な光を宿した瞳、整った顔立ちにかかった銀縁の眼鏡。
一ノ瀬雫(いちのせ しずく)。
同じクラスであり、俺と学年トップの座を常に争っている才女だ。図書委員を務めており、普段はあまり他人と群れることのないクールな性格で知られている。
「一ノ瀬さん?」
「隣、いいかしら」
「あ、ああ。どうぞ」
彼女は許可を得ると、静かに椅子を引き、俺の隣に座った。
そして、俺が解いていたノートの一点を指差した。
「この衝突の問題、非弾性衝突としてのエネルギー損失を考慮してない。だから計算が合わないのよ」
「え?」
指摘されて見直してみる。確かに、彼女の言う通りだ。摩擦係数の記述を見落としていた。
「……本当だ。うわ、基本的なミスだな。ありがとう、助かった」
「相沢君にしては珍しいわね。ケアレスミスなんて」
一ノ瀬は手元の洋書を開きながら、淡々と言った。
俺と彼女は、クラスメイトではあるが、これまでまともに会話をしたことはなかった。成績上位者として名前が並ぶことはあっても、接点がなかったからだ。
「少し、気が緩んでたのかな」
「そう? むしろ、憑き物が落ちたような顔をしてるけど」
ページを捲る手を止めず、彼女は視線だけで俺を射抜いた。
その「憑き物」が何を指しているのか、言わなくても分かった。
「……見てたのか」
「見てたわけじゃないけど、気づくわよ。今まで相沢君は、自分の勉強時間の半分以上を、あの金魚のフンみたいにまとわりつく彼女のためにドブに捨ててたじゃない」
辛辣な表現に、俺は思わず苦笑した。
「金魚のフン」か。玲奈のことをそんな風に言う人間は初めて見た。
「ドブに捨ててた、か。……まあ、否定はできないな」
「あの子、あなたのおかげで指定校の枠に入ったって自覚、全くないみたいだしね。見てて滑稽だったわ」
「一ノ瀬さんは、吉岡のこと嫌いなの?」
「嫌いというか、理解できないだけ。自分の能力不足を他人のリソースで埋めようとする浅ましさがね」
一ノ瀬はそこで言葉を切り、少しだけ表情を和らげた。
「でも、やっと本来の相沢君に戻ったみたいで安心した。あのノート、凄かったもの」
「ノート?」
「そう。一年の時、あなたが吉岡さんのために作ってた数学の解説ノート。一度、彼女が忘れていったのを図書委員として拾ったことがあるの。……あれは、完璧な教材だった。要点のまとめ方、思考のプロセスへの誘導、どれをとってもプロの参考書以上だったわ」
意外だった。
あんなもの、玲奈以外の人間に見られているとは思わなかったし、ましてや学年トップの一ノ瀬に評価されていたなんて。
「あんなの、ただの暇つぶしだよ」
「いいえ。あれを作れるのは、基礎理解が完璧で、かつ他者の思考レベルに合わせて情報を噛み砕ける知性がある証拠よ。……私、ずっと勿体ないと思ってたの。あなたが、あんなことのために才能を浪費しているのが」
一ノ瀬は本を閉じ、真っ直ぐに俺を見た。
その瞳には、憐憫ではなく、純粋な敬意のようなものが宿っていた。
裏切られてからというもの、自尊心がボロボロになっていた俺の心に、彼女の言葉は乾いた砂に水が染み込むように響いた。
「買いかぶりすぎだよ。……でも、ありがとう。そう言ってもらえると、少し救われる」
「事実は事実よ。……ねえ、相沢君」
「ん?」
「もし迷惑じゃなければ、これからここで一緒に勉強しない? 私も志望校はK大じゃなくて、旧帝大の理系なの。周りにレベルの合う人がいなくて、少し退屈してたのよ」
それは、思いがけない提案だった。
孤高の才女だと思っていた一ノ瀬からの、不器用なアプローチ。
俺は少し驚いたが、すぐに自然と笑みがこぼれた。
「喜んで。俺も、議論できる相手が欲しかったところだ」
それから、俺たちの放課後は変わった。
玲奈の時は、一方的に教え、理解させることに労力を費やす「介護」のような時間だった。
だが、一ノ瀬との時間は全く違う。
互いに難問を持ち寄り、解法について議論し、別解を見つけ合う。知識と知識がぶつかり合い、火花を散らすような知的興奮。
「あ、この積分の発想は面白いね」「でしょ? でも計算量が多すぎるのが欠点なの」
そんな会話が自然と飛び交う。
俺は初めて、「勉強が楽しい」と心から思えた。
そして同時に、一ノ瀬雫という少女の、クールな見た目の裏にある知的好奇心の強さと、時折見せる年相応の無邪気な笑顔に、少しずつ惹かれ始めていた。
***
一方、その頃。
駅前のカラオケボックスの一室で、玲奈は苛立ちを募らせていた。
「ねーえ、翔くん。ちょっと聞いてる?」
大音量で流れる曲に負けないよう、玲奈は声を張り上げた。
ソファに寝そべり、タバコの煙をふかしている翔は、けだるそうに片目を開けた。
「あ? なんだよ玲奈。歌わねーの?」
「だからさっきから言ってるじゃん。来週、中間テストなんだってば。今回ヤバいんだよ、推薦かかってるし」
玲奈はテーブルの上に教科書とノートを広げていたが、進捗はゼロに等しかった。
授業中、全く理解できなかった箇所を復習しようとしたが、教科書の解説文そのものが難解で頭に入ってこないのだ。
今までは、湊が作った「超・要約プリント」があったから、教科書なんて読む必要がなかった。
「ここはテストに出る」「ここは捨てていい」という取捨選択も、全て湊がやってくれていた。
それがなくなった今、玲奈の目の前にあるのは、どこから手をつけていいか分からない情報の山だった。
「テスト勉強? だりーなー。お前、指定校推薦もらったんだろ? だったら勝ち確じゃん」
「そうなんだけど……でも、評定落としたら取り消される可能性もあるって先生が」
「脅しだよ脅し。進学校の先生なんてそんなもん。大丈夫だって、玲奈ちゃん賢いし」
翔は適当なことを言いながら、玲奈の腰に手を回し、自分のほうへ引き寄せた。
「それよりさ、勉強なんかやめてこっち来いよ。この前教えてやった新しい店、今日行こうぜ」
「え、でも……」
「なんだよ、俺より勉強が大事なわけ? つまんねー女だな」
翔が不機嫌そうに手を離す。
その態度に、玲奈の心臓がキュッと縮こまった。
湊なら、勉強を優先しても怒るどころか喜んでくれた。でも、翔は違う。彼を楽しませなければ、捨てられるかもしれない。
「世界を広げてくれる」はずの彼は、玲奈の将来のことなどこれっぽっちも考えていない。薄々それに気づき始めていたが、玲奈はその不安を必死に押し殺した。
今さら「やっぱり勉強する」なんて言ったら、湊のところに戻るみたいでプライドが許さない。それに、翔に見捨てられたら、湊を振ってまで選んだ自分の選択が間違いだったと認めることになる。
「……ううん、行く。勉強なんて、テスト前日に徹夜すればなんとかなるしね」
玲奈は教科書を乱暴に閉じ、鞄に押し込んだ。
「なんとかなる」。それは根拠のない自信だった。
湊がいなければ、自分がどれほど無力か。その現実から目を背けるように、玲奈は翔の腕にしがみついた。
***
そして、運命の中間テストが返却される日がやってきた。
「じゃあ、名前を呼ぶから取りに来い」
担任教師の声が事務的に響く。
俺は一ノ瀬と視線を交わし、軽く頷き合った。手応えは十分だった。
名前を呼ばれ、答案用紙を受け取る。
数学、物理、英語。主要科目はすべて満点か、それに近い点数だ。学年一位も狙えるだろう。
「相沢、今回もよくやったな。特に数学の記述は模範解答にしたいくらいだ」
「ありがとうございます」
席に戻ると、一ノ瀬が小さく拍手をしてくれた。彼女の手元を見ると、やはり高得点が並んでいるのが見えた。
「次は、吉岡」
担任の声色が、明らかに低くなった。
玲奈がだるそうに立ち上がり、教卓へと向かう。
「……吉岡。放課後、進路指導室に来なさい」
「え?」
「答案を見れば分かるだろう。なんだこの点数は」
教室がざわつく。
玲奈が受け取った答案用紙。裏返しにする前に、赤い数字が俺の目にもチラリと見えた。
『12点』。
数学だけではない。英語も、世界史も、目も当てられないような点数が並んでいるようだった。
玲奈の顔から、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
「ウソ……なんで……」
彼女は呆然と呟き、ふらつく足取りで席に戻った。
教科書を読んでも分からなかった。一夜漬けをしようにも、何を覚えればいいのか分からなかった。ヤマを張っても、すべて外れた。
当然の結果だ。
湊というナビゲーターがいなければ、彼女は地図も持たずに樹海を彷徨っているようなものなのだから。
休み時間になると、玲奈の周りにいつもの派手な友人たちが集まってきたが、その空気はよそよそしかった。
「ねえ玲奈、点数やばくない?」
「推薦取り消しとかマジである系?」
「えー、ウケる。てか笑えないんだけど」
友人たちの言葉は、心配しているようでいて、その実、転落していく彼女を楽しんでいるような響きがあった。
玲奈は引きつった笑みを浮かべて、「だ、大丈夫だって。次は本気出すし」と強がっていたが、その手は小刻みに震えていた。
俺はその様子を横目で見ながら、次の授業の準備を始めた。
胸の内に湧き上がるのは、ざまあみろという暗い快感ではなく、ただ冷徹な事実確認だけだった。
『ああ、やっぱり落ちたな』
それだけだ。
すると、玲奈が突然席を立ち、俺の机の前までやってきた。
教室内が一瞬静まり返る。
「……ねえ、湊」
甘えるような、それでいてどこか非難がましい猫なで声。
かつて俺が好きだった声色だが、今は寒気しかしない。
「何?」
「あのさ、この数学の問題なんだけど。先生の採点ミスだと思うんだよね。湊、ちょっと見てくれない?」
彼女は20点にも満たない答案用紙を俺の机に押し付けた。
プライドが高い彼女なりの、精一杯のSOSなのだろう。「採点ミスの確認」という名目で、俺との会話の糸口を掴み、あわよくばまた勉強を見てもらおうという魂胆が見え透いていた。
俺は答案用紙に視線を落とした。
記述式の解答欄には、的外れな公式が羅列され、計算も途中で放棄されている。採点ミスなどあるはずがない。完全な実力不足だ。
「ミスじゃないよ。根本的に理解できてないだけだ」
「はあ? ちょっと見もしないで……」
「見なくても分かる。公式の適用条件すら分かってない記述だ」
俺は冷たく突き放し、視線を一ノ瀬の方へ向けた。
「行こうか、一ノ瀬さん。次の移動教室、理科室だから」
「ええ、そうね。早めに行って実験器具の準備を手伝いましょう」
一ノ瀬もまた、玲奈を一瞥もしなかった。
俺たちが立ち上がると、玲奈は信じられないという顔で俺の袖を掴もうとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私、困ってるんだよ? 推薦なくなるかもしれないんだよ!?」
「それがどうした」
俺は立ち止まり、玲奈の目を見据えた。
「『湊といると世界が狭くなる』。そう言ったのはお前だろ?」
「っ……」
「俺はもう、お前の世界にはいない人間だ。自分の力で広げた世界で、勝手に生きてくれ」
俺は彼女の手を振り払うことなく、ただ静かに一歩退いた。
玲奈の手が空を切り、行き場を失って震える。
「……翔くんは……翔くんは助けてくれないの……」
彼女の口から漏れた小さな呟きは、誰に届くこともなく消えた。
俺は一ノ瀬と並んで教室を出た。
背後で、玲奈が椅子に崩れ落ちる音が聞こえた気がしたが、俺が振り返ることは二度となかった。
補助輪を失った自転車が転倒するのは、物理法則として当然の帰結だ。
そして、その痛みを知るには、まだ序の口でしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。