其ノ壱 紫陽花の乙女 ―結―

​ 翌朝、千住の宿場町を包んでいた執拗な雨は、嘘のように上がり、雲の切れ間からは洗いたての水晶のような初夏の陽光が差し込んでおりました。

 濡れた瓦は鏡のように光を反射し、軒先から滴り落ちる雫が、昨夜の嵐が確かに存在したことを伝えております。

 路地の泥はまだ柔らかく、街の喧騒はどこか遠く、幕を引いたばかりの芝居小屋のような、しんとした静寂を湛えておりました。

​ 小夜が目を覚ましたのは、自分の部屋の使い慣れた布団の上でございました。

 開け放たれた窓からは、雨上がりの湿った土の匂いと、朝の清々しい風が流れ込んでおります。

 彼女は、自分がなぜ昨夜、あの暗い路地にいたのか、そしてあの不思議な庭師と何を話したのか、その詳細を思い出すことができませんでした。

 ただ、夢の中で、この世のものとは思えぬほどに美しい青い花を眺めていたような、そして誰かに優しく頭を撫でられたような、柔らかな余韻だけが胸の奥に残っておりました。

​ 小夜はふと、自分の胸元に手を当てました。

 あんなに苦しく、自分を内側から引き裂こうとしていたあの「裂け目」が、跡形もなく消えていることに気づいたのでございます。

 指先で触れてみても、そこにはただ、少女らしい滑らかな肌の感触があるばかり。

 ただ一つ、鎖骨のすぐ下に、紫陽花の花びらのような形をした淡い小さな痣だけが、昨夜の出来事の名残として刻まれておりました。

 けれどそれは、もはや彼女を苛む呪いではなく、守り神から授かった印のように、小夜の心に不思議な勇気を与えるのでした。

​「小夜、起きているのかい」

​ 障子越しに、母・志乃の声が聞こえました。

 その声を聞いた瞬間、小夜の心に小さな緊張が走りましたが、すぐに彼女は目を見開きました。

 母の声から、あの刺々しい絶望の色が、きれいに拭い去られていたからでございます。

 部屋に入ってきた志乃は、昨日までの、亡き夫の影を追って彷徨っていた悲劇の未亡人ではございませんでした。

 彼女の瞳には、しっかりと今を生きる光が宿り、その頬には微かな赤みが差しております。


​「……母様、おはよう」


​ 小夜が恐る恐る口にすると、志乃は穏やかな微笑みを浮かべ、娘の傍らに座りました。

 志乃もまた、昨夜のことは朧げにしか覚えておりません。

 けれど、娘を抱きしめた時の、あの「恍惚」とした魂の共鳴だけは、肉体の細胞一つ一つに刻み込まれておりました。

 自分がどれほど娘を愛していたか。そして、夫の死を娘のせいにするという、自らの心の綻びがどれほど娘を傷つけていたか。

 言葉にせずとも、それらすべての罪悪感が、一輪の花の開花とともに浄化され、今や彼女の心は凪いだ海のように静かでございました。


​「さあ、朝餉にしましょう。今日は、お父さんの好きだったお味噌汁を作ったからね」


​ 志乃のその言葉には、もはや過去への執着ではなく、大切な記憶と共に生きていくという、静かな覚悟が宿っておりました。

 母娘が互いに抱いていた「悲しみの連鎖」は、橘という庭師の手によって、一晩のうちに、美しい日常へと剪定されたのでございます。

​ 同じ頃、母娘が倒れていたあの行き止まりの路地では、近所の人々が不思議な光景に足を止めておりました。

 そこには昨夜までなかったはずの、瑞々しくも巨大な紫陽花の一叢が、不自然なほど鮮やかに咲き誇っていたのでございます。

 その青は、この世のどんな絵具でも表現できぬほど深く、それでいて光を放っているかのように見え、道行く人々は皆、その花の前に立つと、自分でも気づかなかった心の疲れが、ふっと軽くなるような不思議な感覚を覚えるのでした。

 それが、橘がその地に残した、ただ一つの足跡でございました。

​ その頃、橘はすでに、千住の宿場町を遠く離れた街道を、一人歩いておりました。

 大正の初夏の陽光は、彼の古びた外套に容赦なく降り注ぎますが、彼は傘を差すことも、汗を拭うこともいたしません。

 彼の歩みには、生きている人間が持つべき「生活」という重みが微塵も感じられず、まるで風に流される影のように、淡々と北へと向かっておりました。

​ 橘は、ふと立ち止まり、腰の革袋に手を添えました。

 その中には、昨夜収穫したばかりの「小夜の紫陽花」が収められております。

 通常の植物であれば、根を断たれれば瞬く間に萎れてしまうものでございますが、この庭師の袋の中では、花は永遠にその美しさを保ち、生命の絶頂を維持し続けるのでした。

 橘が袋の隙間から中を覗き込むと、青い花びらが微かに光を放ち、彼の空虚な心に、ほんの一滴の潤いを与えました。


​「……これもまた、違いましたか」


​ 橘は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟きました。

 彼が数百年もの時をかけ、不変の姿で旅を続けているのは、ただ人々を救うためではございません。

 彼が探し求めているのは、かつて自らが犯した過ちの果てに失った、一人の女性の「最後の記憶」でございました。

 人々の心の綻びに種を植え、絶望を花に変えて収穫し、その中に、あの日失われた記憶の欠片が混じっていないかを確かめる。

 それこそが、橘という男に課せられた、終わりのない巡礼の正体なのでございます。

​ 橘という名は、非時香菓〈ときじくのかぐのこのみ〉の名が示す通り、永遠に枯れぬ実を結ぶ木を意味します。

 けれど、不変であるということは、新たな命を生み出すことも、そして老いて死にゆくことも許されぬ、残酷な呪いでもありました。

 彼は何百回、何千回と、人々が救われる瞬間を見守り、その「恍惚」を収穫してきました。

 けれど、その度に彼は、自らがその幸福の輪に加わることができぬ孤独を、再確認せねばならないのです。

​ 橘は再び歩き始めました。

 彼の足元には、相変わらず足音はございません。

 けれど、彼が通り過ぎた後には、決まって仄かな、どこか懐かしい橘の花の香りが漂います。

 その香りは、人々の心の奥底に眠る、忘れかけていた大切な記憶を呼び覚まし、ほんの僅かな間だけ、この世の苦しみを忘れさせるのでした。

​ 千住の町は、次第に遠ざかっていきます。

 小夜と志乃は、これから二人で、新しい月日を刻んでいくことでしょう。

 いつか小夜が大人になり、恋を知り、親となった時、彼女の胸の痣は消えてしまうかもしれません。

 けれど、彼女が昨夜味わった、あの圧倒的な「救い」の感覚だけは、非時香菓の香りのように、彼女の人生を永遠に支え続けるに違いありません。

​ 橘の背中は、やがて陽炎の中に溶けるようにして、次の宿場町へと消えていきました。

 彼の旅は、これからも続きます。

 人々の心の綻びがある限り。

 そして、彼が自らの「終わり」を見つけるその日まで。

​ 風が吹き抜け、紫陽花の青が揺れました。

 大正の空はどこまでも高く、澄み渡っております。

 それは、一時の救済を享受した人々を祝うかのような、あまりに無慈悲で、そして美しい青色でございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月24日 10:00
2026年1月24日 14:00
2026年1月25日 10:00

非時香菓〈ときじくのかぐのこのみ〉 弌黑流人(いちま るに) @ichima_runi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ