其ノ壱 紫陽花の乙女 ―急―
降りしきる雨の音さえも、もはや遠い世界のざわめきのように思えました。
大正の夜を湿らせる大粒の雨滴は、地面を叩くたびに泥を跳ね上げ、千住の宿場町を深い水の底へと沈めていくかのようでございます。
ガス灯の低い、橙色の光に照らされた路地の突き当たり、志乃は泥の中に膝を突き、その光景をただ呆然と見つめておりました。
愛娘である小夜の胸元から、不気味なほど瑞々しい植物が伸び、その先には灰色の、今にも爆ぜんばかりの蕾が脈動している。その光景は、正気を失った者の見る悪夢よりもなお、残酷なまでに鮮明でございました。
志乃の視界は、恐怖と混乱、そして降り注ぐ雨によって歪み、目の前の現実を拒絶しようともがいております。
「小夜……ああ、小夜……!」
志乃が、形にならない悲鳴を上げて娘に駆け寄ろうとしたその時、彼女の前に、壁のように冷徹な静寂が立ちはだかりました。
傘も差さずに佇む男、橘が、音もなく一歩前へ出たのでございます。
彼の外套は雨を含んで重く垂れ下がり、足元の泥さえも彼をこの世に繋ぎ止めることはできていないかのような、異質な気配を放っておりました。
彼は言葉を交わすよりも先に、その右手を志乃に向けて静かに翳しました。
その動作は決して乱暴なものではありませんでしたが、志乃はまるで目に見えぬ氷の檻に閉じ込められたかのように、全身を硬直させ、声を失いました。
指先一つ動かすことができず、喉の奥から絞り出そうとした叫びも、冷たい空気の中に凍りついて消えてしまいます。
「……そこまでです。今はまだ、彼女の魂の剪定の最中。不用意に触れれば、あなたも、そして彼女の命も、その裂け目の闇に呑み込まれることでしょう」
橘の声は、雨粒が水面に落ちる音よりもなお静かに、けれど志乃の意識の深層を直接支配するように響きました。
彼の瞳には、志乃に対する同情も、あるいは彼女の至らなさを咎める非難の光も宿ってはおりません。
あるのはただ、長い年月を経て研ぎ澄まされた、完成を待つ作品を見守る芸術家のような、あるいは神聖な生贄を捧げる祭司のような、透き通った、そして慈悲深い無関心だけでございました。
彼はこの場にありながら、この世の誰とも結びついていない。その孤独こそが、圧倒的な威圧感となって志乃を射すくめているのでした。
橘は、動けなくなった志乃から視線を外し、再び小夜の胸元へとその注意を注ぎました。
小夜の苦悶に満ちた呻きは、今や熱を孕んだ恍惚とした溜息へと変わりつつあります。
彼女の意識は、もはや肉体の痛みを通り越し、自分と世界の境界が失われていくような、未知の快楽の淵に立っていたのでございます。
小夜の瞳は虚空を見つめ、その口元には、この世の苦しみから解き放たれた者だけが浮かべる、危ういほどの微笑が宿っておりました。
橘は、腰の袋から古びた真鍮の如雨露を高く掲げました。
それは、もはや単なる水を注ぐための道具ではございません。
長年の旅路で、数えきれないほどの救済と喪失を見守ってきた、神秘の器そのものでした。
「すべてを出し切りなさい。あなたの悲しみも、お母様への切ない想いも。そのすべてが、この一輪を咲かせるための肥料となるのです」
橘が如雨露を傾けると、その注ぎ口から、糸のように細く、けれど眩いばかりの銀色の光を湛えた雫が流れ落ちました。
その雫は、降りしきる雨の中でも決して散ることなく、重力に逆らうような優雅さで蕾へと吸い込まれてゆきます。
雫が灰色の蕾に触れた瞬間、辺りの空気が劇的に変貌いたしました。
雨の湿り気は、どこか遠い記憶の迷宮にある、亡き父の羽織が放つ懐かしい日向の匂いへと変わり、暗い路地の隅々は、かつて家族三人で歩いた野道の、眩しいばかりの春の色彩を帯び始めました。
小夜の脳裏には、走馬灯のように過去が流れます。
病床で、死を目前にした父が最後に自分に見せた、すべてを許すような穏やかな微笑み。
「お前が笑っていれば、お母さんも救われるんだよ」という、風のような囁き。
そして志乃の脳裏にもまた、小夜を初めて腕に抱いた時の、あの生命の重みと、愛しさで指先まで震えた心の震動が、雷鳴のように轟きました。
母娘が互いに、自分のせいで相手を不幸にしていると信じ込み、心の奥底に鉛のように封じ込めていた「愛ゆえの絶望」が、如雨露の雫によって、濁りない純粋な祈りへと磨き上げられていくのでございます。
路地を吹き抜ける風が、一瞬だけ止まり、時が止まったかのような錯覚が辺りを支配しました。
そして、その時は訪れました。
パキ、と。
凍てついた池の氷が、春の訪れを告げて割れるような、あるいは至高の職人が織り上げた高貴な絹織物が裂けるような、澄んだ音が夜の静寂を打ち破りました。
灰色の蕾の表面に、縦一文字の光の筋が走り、そこから内側の輝きが溢れ出しました。
一拍置いて、蕾は弾けるように、あるいは歌い出すように開きました。
そこから現れたのは、この世のものとは思えぬほどに深く、それでいて吸い込まれるような透明感を湛えた、命の青の紫陽花でございました。
その花びらの一片一片は、小夜と志乃がこれまで流してきた無数の、けれど誰にも見せられなかった涙が、時間をかけて結晶化したかのように美しく、中心からは淡い金色の粉が、螢のようにふわりと舞い上がりました。
花が開くたびに、周囲を支配していた重苦しい雨の感触が、抗いようのない脱力感と幸福な恍惚へと姿を変えてゆきます。
小夜の顔には、もはや一欠片の苦しみの色もなく、ただ聖母の慈愛に触れた稚児のような、無垢な安らぎが広がっておりました。
志乃もまた、自分が今どこにいるのか、なぜ泥にまみれて泣いていたのかさえ忘れ、ただその花の美しさに魂を丸ごと奪われ、夢遊病者のように震える手を差し伸べました。
雨は降り続いておりますが、二人の周りだけは、まるで時間の流れから切り離された常世の庭のようでございました。
母と娘の涙は、もはや悲しみの印ではなく、その大輪の花びらを潤す、至高の露へと変わっております。
互いの魂が、もはや言葉という不確かなものを介さずに溶け合い、許し合い、一つの完成された美しさの中で共鳴し合っている。
「ごめんなさい」も「愛している」も、その花の色彩の中に溶け込んで、一つの救済となっておりました。
それこそが、橘の施す「魂の庭仕事」の極致、絶望を糧にして咲かせる、この世ならぬ美学でございました。
橘は、最も花が輝きを増し、恍惚が絶頂に達した瞬間を見逃しませんでした。
彼は懐から、あの鋭利な剪定バサミを音もなく取り出しました。
その刃先が、ガス灯の光を反射して、冷徹な死と、そして絶対的な救済の合図を送ります。
彼は、花が枯れるのを待つことはいたしません。美しさがピークに達したその一瞬を、永遠に固定するために。
「収穫の時間です」
橘が、無慈悲なほど正確な、淀みのない所作で、ハサミの刃を茎の根元に添えました。
パチン。
乾いた、心地よい音が響くと同時に、小夜の胸元に咲き誇っていた紫陽花の大輪が、自重を感じさせない軽やかさでふわりと宙に浮きました。
その瞬間、小夜の体から立ち上っていた高熱のような熱気は、霧散し、彼女の胸にあったあの禍々しい黒い裂け目は、まるで魔法にかけられたかのように、最初から存在しなかったかのような滑らかな肌へと塞がってゆきました。
そこにはもう、彼女を苛んでいた自己否定の傷跡は、塵一つ残ってはおらぬのでした。
橘は、切り離された花を、壊れものを扱うような、それでいて熟練の庭師としての慣れた手つきで、空中で優しく受け止めました。
彼の掌の上で、花は未だに命の鼓動のように脈打ち、主を失った後もなお、美しい恍惚の余韻を四方に放ち続けております。
花を収穫された小夜は、張り詰めていた糸が切れたように、深い、深い眠りへと落ちるようにして、志乃の腕の中へと倒れ込みました。
志乃もまた、金縛りのような呪縛から解き放たれ、娘を、その温かな生命をしっかりと抱きしめ、泥だらけの地面に伏したまま、静かに意識を失いました。
二人の顔には、長い、あまりに長い冬を越えた後の、春の陽だまりのような、平穏な微笑みが残されておりました。
雨に打たれながら眠るその姿は、一幅の宗教画のように神聖でございました。
橘は、手元にある一輪の紫陽花を、じっと見つめました。
雨に濡れる彼の指先が、青い花びらに触れます。
この花には、彼が数百年探し求めている「あの記憶」の欠片は、やはり含まれてはいないようでした。
けれど、彼は落胆することなく、その花を丁寧に革袋の中へと収めました。
彼にとって、この美しい収穫は、終わらぬ巡礼の旅を続けるための、唯一の証左であり、かつて自分が救えなかった誰かへの、遅すぎた手向けなのでございます。
雨は、相変わらず千住の街を濡らし続けております。
家々の屋根を、紫陽花の茂みを、そして眠る母娘を、すべて等しく包み込んでゆきます。
しかし、その雨音は、もはや執拗な檻の響きではなく、どこか清々しい調べを帯びて、夜の闇の奥へと消えていくのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます