其ノ壱 紫陽花の乙女 ―破―
橘が小夜の胸に種を植えてから、すでに数刻の時が過ぎ去っておりました。
空の鼠色は一段と深まり、千住の街を包む雨は、もはや細い糸ではなく、視界を白く遮る帳のようにその勢いを増しております。
雨粒が軒先の瓦を叩く音、泥水が側溝へと流れ込む濁った音、そして遠くの隅田川が水嵩を増していく不穏な唸り。それらすべての騒音を吸い込むように、橘はただ静かに、濡れた地面に腰を下ろしておりました。
彼は泥にまみれた外套の裾が重くなるのも厭わず、小夜の胸元から覗いた瑞々しい緑の芽を、深淵を覗き込むような、あるいは自らの過去を重ね合わせるような眼差しで見つめております。
大正の湿った風が、彼の頬を叩き、外套を容赦なく濡らしてゆきますが、彼は瞬き一つせず、ただ一人の苗床の変容を凝視しておりました。
小夜の呼吸は、次第に荒く、熱を帯びたものへと変わってまいりました。
種が彼女の血を吸い、その純粋すぎる悲しみを糧にして、人智を超えた成長を始めた証拠でございます。
小夜の肌は、高熱に浮かされたように赤らみ、首筋の血管は青白く浮き上がっております。
亀裂からは、芽吹いたばかりの茎が生き物のように這い出し、細い蔦が彼女の白い首筋を、愛惜を込めて絞めつけるように這い回っております。
それは肉体的な侵食であると同時に、小夜の記憶の底をかき乱し、封印していた感情を無理やり引きずり出す、容赦のない回想の始まりでもありました。
目を閉じれば、激しい雨の音に混じって、楽しかった頃の記憶が、耐え難いほどの鮮明さで蘇ります。
父の大きな手が自分の頭を撫でてくれた時の、あの陽だまりのような温もり。
母が台所で楽しそうに鼻歌を歌いながら、夕餉の支度をしていた時の、香ばしい醤油の匂いと竈門の爆ぜる音。
それらすべての暖かな色彩が、父の死という無情な一点を境に、墨をこぼしたように黒く、冷たく塗り潰されていきました。
父の葬儀の日、骨を拾う母の指先が、まるで冬の枯れ葉のように震えていたこと。
それ以来、大好きだった母の背中が、見る間に小さく、頼りなくなってしまったこと。
蔦が彼女の肌を這い、節を伸ばすたびに、小夜はそれらの断片を鋭利な刃物で突きつけられ、心臓を直接握りつぶされるような痛みに悶えておりました。
「おじさん、苦しい……胸の中が、熱くて、痛いの。母様が、母様が泣いているのが見えるの……。私が、私が母様を壊しちゃったの……」
小夜が苦しげに喘ぎ、橘の外套の袖をぎゅっと掴みました。
その小さな、震える指の爪が茶の布地に深く食い込みます。
橘は、その小さな手を、自分の大きな掌でそっと包み込みました。
彼の指先は、降りしきる雨よりもなお冷たく、まるで命の灯火が消えかかっているかのようでしたが、その掌は不思議と、小夜の荒れ狂う内面の熱を、静かに吸い取っていくような平穏を持っておりました。
「堪えてください、お嬢さん。それは、あなたがこれまで一人で抱えてきた、誰にも届かなかった悲しみが、光を求めて外へ出ようともがいている産声なのです。大地が芽吹くとき、その痛みは大地そのものが引き受けるもの。今はただ、その痛みを、あなたの中に宿った命の力を信じてください」
橘の声は、どこまでも穏やかでございました。
彼は、湿った革袋の中から、煤けた銀の細工が施された、手のひらに収まるほどの小さな薬瓶を取り出しました。
長い年月を経て黒ずんだその瓶の蓋を開ければ、中には月の光を粉々に砕いて閉じ込めたような、淡く、けれど気高い輝きを放つ銀色の粉末が入っております。
彼はそれを指先で丁寧に、慈しむように摘まみ、雨に打たれながらも懸命に天を仰ぐ青い茎へと、古の神事に祈りを捧げるような厳かな所作で振りかけました。
その粉が茎に触れた瞬間、パチリ、パチリと、闇を裂くような小さな火花が散る音が響きました。
粉末は雨粒と混ざり合い、幻想的な光の輪を描きながら、小夜の胸元で扇を広げるように無数の葉を展開させてゆきます。
その隙間から、紫陽花の蕾が、まだ固く、けれど確かな質量を持って、ごつごつとその姿を現しました。
しかし、その蕾の色は、小夜の抱える「自分は不必要な存在である」という暗い自責の念を、泥のように映し出し、濁った灰色のままでございました。
小夜の呼吸に合わせて蕾は脈打ち、まるで彼女の心臓が外側に飛び出してきたかのようでございます。
同じ頃、千住の入り組んだ路地を、一人の女性がなりふり構わず、水たまりを蹴立てて走っておりました。
小夜の母、志乃でございます。
彼女は、家から突然姿を消した愛娘の名を狂ったように叫びながら、泥を撥ね、髪を振り乱して、冷たい雨の中を彷徨っておりました。
志乃の心もまた、小夜と同じく深い綻びを抱えていたのでございます。
夫を突然奪い去った病魔への憎しみ、そして残された者としての絶望は、彼女から前を向く力を根こそぎ奪い去りました。
一人娘を守らねばならないという、重い義務感が、皮肉にも彼女を極限まで追い詰め、小夜のあどけない顔を見るたびに、そこに亡き夫の面影を見出しては、狂おしいほどの悲しみと後悔に囚われていたのです。
「小夜、どこにいるの、小夜……返事をしておくれ! あんなひどいことを言って、ごめんよ、小夜!」
志乃の声は、容赦なく降り注ぐ雨の壁に阻まれ、虚しく夜の闇に吸い込まれてゆきます。
彼女は、自分がどれほど娘を愛しながら、同時にその存在を自分の自由を奪う鎖のように感じていたかという、自分自身の恐ろしい本音と向き合わされ、雨の中で膝を折りそうになっておりました。
泥だらけになった手で顔を覆い、慟哭しようとしたその時、遠くの路地の角から、この世のものとは思えぬ、甘く、けれどどこか懐かしい花の香りが漂ってきたのです。
それは雨の湿り気を含んだ土の匂いと、そして、あらゆる悲しみを洗い流し、記憶の奥底に触れる、不思議な雫の香りでございました。
志乃は、その香りに導かれるように、吸い寄せられるように、ふらふらと足を進めました。
路地を曲がった先、ガス灯のぼんやりとした明かりの下に、信じられない光景が広がっておりました。
雨に濡れる地面に横たわる愛娘と、その傍らで、幽霊のように静かに佇む一人の男。
そして、娘の胸元から、不気味なほどに瑞々しい植物が伸びているのを、彼女は目撃したのです。
橘は、志乃が近づいてくる気配を察し、ゆっくりと、音もなく顔を上げました。
彼の瞳には、相変わらず感情の光も、志乃への警戒も宿ってはおりませんが、その立ち居振る舞いには、来るべき開花の瞬間を待つ、至高の庭師としての、圧倒的なまでの静謐さが宿っております。
彼は言葉を発することなく、ただ視線で志乃に「そこまで」と制止を促しました。
小夜の胸元では、灰色の蕾が今にも弾けんばかりに大きく膨らみ、内側からの圧力に耐えかねて震えております。
母と娘、二人が長い間抱え続け、互いを傷つけ合ってきた「悲しみの連鎖」。
それが今、この雨に濡れた名もなき小道で、一粒の種を通じて、一つの結末を迎えようとしております。
橘は、じっとその瞬間を待っております。
たとえその代償が、彼自身の影をさらに薄くし、永遠の孤独を深めることになろうとも。
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