非時香菓〈ときじくのかぐのこのみ〉
弌黑流人(いちま るに)
其ノ壱 紫陽花の乙女 ―序―
空は低く垂れ込め、鼠色の雲が千住の宿場町を重く、どこまでも執拗に包み込んでおりました。
六月の雨は細く、糸を引くように地面へと降り注ぎ、肌に纏わりつく湿り気はまるで逃げ場のない檻のようでございます。
荒川の放水路工事が進むこの界隈では、雨が降れば土は瞬く間に泥を呼び、湿った風が川辺の葦を揺らしては、水を含んだ重い音を立てておりました。
道端に咲き誇る紫陽花の大きな葉は、絶え間なく降りかかる雨粒の重みに耐えかねては、時折、堪えきれなくなったかのように雫を地面へと振り落としております。
下駄を鳴らして歩く者も疎らな、しめやかで物寂しい午後のことでございました。
家々の軒先からは、雨を凌ぐための暗い影が伸び、水溜まりには濁った空が映り込んでおります。
そんな中、紫陽花の青が、薄暗い景色の中でそこだけ浮き上がるように発光している小道の隅に、一人の幼い女の子が蹲っておりました。
小夜という名のその子は、小さな肩を震わせ、自分の首筋から胸元にかけて広がる、大人には見えぬ黒い裂け目を見つめておりました。
その裂け目は、まるで古い瀬戸物が修復しようもなく割れた跡のように鋭利で、時折、底知れぬ闇が内側から溢れ出そうと不気味に脈打っております。
それは目に見える傷ではございません。
けれど、小夜にとっては、何よりも重く、息苦しい実体を持ってそこに存在しておりました。
小夜は、その裂け目が痛むたびに、奥の部屋で亡き父を想って泣く母の背中を思い出しておりました。
父が病でこの世を去ってから、母の笑顔は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去ってしまいました。
母はいつも、父の遺した古びた羽織を抱きしめ、暗い部屋で針仕事をしております。
小夜が「お腹が空いた」と言えば、母は慌てて涙を拭い、無理に口角を上げて笑おうとしますが、その瞳は少しも笑っておりません。
その無理な笑顔を見るたびに、小夜の胸にある亀裂は、音を立てて広がってゆくのでした。
自分がもっと利口な子であれば、あるいは自分がこの世にいなければ、母様はもっと楽に笑わなくても済むのではないか。
そんな、幼い胸にはあまりに過酷な自己否定の疑念が、目に見えぬ亀裂を深め、彼女の魂を少しずつ、けれど確実に蝕んでいるのでございます。
小夜がその冷たい地面に指を立て、泥を弄りながら自分を消してしまいたいと願ったその時、雨の音に混じって、僅かな衣擦れの音がいたしました。
足音はございません。
まるで最初からそこに影として落ちていたかのように、傘も差さずに一人の男が立っておりました。
男は使い込まれた茶の外套を纏い、腰には年季の入った革の袋を下げております。
その姿は、雨に濡めるのも構わぬ様子で、じっと自分の足元を確認するように俯いておりましたが、やがてゆっくりと顔を上げました。
男は、自分が今、本当にこの泥の上に立っているのかを確かめるように、爪先で地面を軽く叩きました。
その瞳には、誰の姿も映っていないような、果てしない虚無が漂っております。
彼は、この大正という時代の喧騒からも、雨の冷たさからも、等しく切り離された場所にいるかのような、奇妙な静謐を纏っておりました。
「……お嬢さん。その亀裂、少しだけ見せていただけますか」
男の声は、雨粒が水たまりに落ちる音よりも静かに、けれど小夜の魂の奥深くまで染み渡るように届きました。
それは恐怖を呼び起こすような響きではなく、むしろ、自分と同じ暗闇を、あるいはそれ以上の深淵を知る者が掛ける、静かな手向けのような響きを帯びておりました。
小夜は、不意に掛けられた声に驚き、濡れた睫毛を震わせて顔を上げました。
目の前に立つ男の姿は、雨の幕に溶けてしまいそうなほど輪郭が淡く、存在感が希薄でございます。
それでいて、その手が握る古びた真鍮の如雨露だけは、鈍い光を放ち、確かな重みを持ってそこに存在しておりました。
その表面には、数えきれないほどの年月を経て刻まれた傷や凹みがあり、それがまた、この男が歩んできた果てしない旅路を物語っているようでした。
男は、自らの名を名乗ることはいたしませんでした。
かつて橘と呼ばれていたその名は、彼にとって、もはや遠い過去の残骸に過ぎないからでございます。
彼は今、名を持たぬ、ただの巡礼者でありました。
「……私のことは、ただの庭師とお呼びください。お嬢さん、あなたは、自分のせいでお母様が悲しんでいると思っているのですね」
その問いかけに、小夜は言葉を失いました。
自分の心の中にだけ隠していたはずの、泥のように重い秘密を言い当てられた衝撃。
けれど、庭師の眼差しがあまりに穏やかであったため、小夜の目からは、堪えていた大粒の涙が零れ落ちました。
涙は泥にまみれた地面に落ち、小さな波紋を作ります。
男は、小夜の隣にゆっくりと膝を突き、視線を合わせました。
そして、革の袋から鈍い光を放つ剪定バサミを、壊れものを扱うような丁寧な手つきで取り出しました。
そのハサミが動くたびに、ちり、ちり、という不思議な金属音が雨の中に響きます。
長年使い込まれ、研ぎ澄まされたその刃は、降り注ぐ雨を二つに裂くかのように鋭く、それでいて、不思議と冷たさは感じられません。
「怖がることはありません。このハサミは、何かを切り捨てるためのものではない。あなたの心の痛みを、誰にも踏みつけられない美しいものに変えるための、切り口を作るものでございます」
橘は、空いた手で如雨露を傾けました。
その如雨露の首は長く、その先からは糸のような細さで水が流れ落ちます。
中に入っているのは、ただの水ではございません。
それは、彼がこれまで歩んできた長い年月の中で、出会ってきた人々の涙と、そして彼自身の終わらぬ後悔から滴り落ちた、記憶の雫でございました。
その雫が如雨露の口から零れるたびに、周囲の空気が微かに震え、古い香油のような、どこか懐かしくも切ない香りが辺りに漂い始めます。
如雨露から注がれた雫が、小夜の胸元にある裂け目に触れた瞬間、辺りに漂う雨の匂いが、一変して濃密な土の香りに変わりました。
それは生命の源を感じさせる、力強くも優しい香りでございました。
橘は、腰の袋から一粒の小さな、けれど真珠のような輝きを放つ種を取り出しました。
その種は、彼自身の存在と同じく、実体があるのかさえ疑わしいほどに儚い光を放っております。
彼はその種を、まるで愛しい者の髪に触れるかのように優しく指先で転がしました。
「これを、お預けします。あなたの願いを、この種に託してください」
橘の手によって、その光る種が小夜の闇の奥底へと静かに落とし込まれました。
種が闇に触れた瞬間、パチリ、と静かな音が鳴り響きました。
それは、閉ざされていた心の扉が開くような、あるいは、凍てついた氷が解けるような、清らかな響きでございました。
小夜は、自分の内側に温かな火が灯ったような、不思議な充足感を覚えました。
「これで、準備は整いました」
橘の言葉とともに、小夜の体から伝わっていた微かな震えが、嘘のように止まりました。
代わりに、裂け目の奥で、何かが確かに鼓動を始めたのでございます。
ドクン、ドクンと、力強く脈打つその響きは、小夜の失われかけていた生命の灯火を再び燃え上がらせるかのようでした。
降り続く雨は、今や彼女を凍えさせる足枷ではなく、その内なる命を育むための、何物にも代えがたい恵みへと、その意味を変えてゆくのでした。
橘は、濡れた地面に座り込んだまま、じっと小夜を見守っております。
雨脚は強まり、彼の外套を黒く染め上げてゆきますが、彼は微動だにいたしません。
彼の目には、かつて自分が救えなかった、あの人の面影が重なっていたのかもしれません。
けれど彼は、その追憶に耽ることを自分に許さず、ただ目の前の幼き苗床のために、自らの時間を、命の欠片を差し出すのでした。
やがて、小夜の胸の亀裂から、一筋の瑞々しい緑の芽が、顔を覗かせました。
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