第3話 給湯室

 七月二十九日、火曜日。

 私は出勤していた。薬が効いたのかは分からない。理由はどうあれ、身体は動いた。ただ、その代わりに神経が薄く剥き出しになっている感覚があった。

 午前中、私は小さく息を吸った。

 「それ、今日なんですか?」

 机の上に置かれたメモ。人流データ導入検討の打ち合わせ。日程自体は、先週から分かっていたものだ。

 「今日の午後です」

 隣の課――観光推進課の広瀬が、いつもと変わらない調子で言った。悪びれる様子もない。

 私は一瞬、言葉を探した。頭の中で、何かが切れる音がした。

 「……事前に分かってたなら、昨日までに共有してもらえたら、準備できたんですけど」

 「伝えるの遅くなってごめん。業者から話聞くだけだし、まあ、いけるでしょ。」

 その一言で、胸の奥がざらついた。

 “いける”の内訳は誰が引き受けるのか。間に合わせるために、誰の時間が削られるのか。答えは、もう分かっている。私だ。私のような、断れない人間だ。

 「事前に連絡することって、社会人として常識だと思います。」

 声が出た瞬間、空気が一段、冷えた。

 広瀬が視線を逸らす。執務室の音が、急に遠のいた気がした。周囲の視線が痛い。「また白石さんがキレてる」。そんな声が聞こえた気がした。

 夕方、頭を冷やそうと駆け込んだ給湯室で、係長とすれ違った。責められると思って、少し身構えた。

 「さっきの件な」

 静かな声だった。怒ってはいない。

 「広瀬も、今かなり立て込んでる」

 それだけ言った。擁護でも、否定でもない。

 「白石さんが困る気持ちも分かる。報連相は大事だよな。」

 続けて、同じ調子で言う。一拍、間があった。

 「ただ、相手が“してくれない”ところばかり見てると、怒りって増えるんだよ。無限にな」

 図星だった。私はいつも、誰かの欠点を探しては、自分の正しさを確認しようとしている。そうしないと、自分の存在が保てないからだ。

 私は俯いた。

 「……すみません。感情のコントロールが、まだうまくできなくて」

 「いいよ。溜め込むよりマシだ」

 係長は、コーヒーを一口飲んだ。

 「俺もさ、前の前の部署――都市建設部にいた時は、結構ひどかったんだ。周りに自分の正しさを押し付けてた。」

 意外だった。また、新しい傷を見せられた気がした。

 「今は気をつけてるけどさ、人の地ってなかなか変わらないよな。」

 「もし、また俺が、強権的になりそうだったら」

 係長は私を見た。優しさの中に、深い憂いを帯びた目だった。それは、かつて彼が立ち止まってしまった時の、癒えきらない傷跡を見せられたようでもあった。

 「その時は、白石さんが止めてくれよな。」

 え、と声が出そうになった。

 止める? 私が? この壊れかけの私が、係長を?

 「……私が、ですか」

 「ああ。白石さんなら、気付けるだろ。」

 心臓が、とくんと鳴った。

 役割を与えられた。守られるだけの「弱者」ではなく、対等な「監視者」としての役割を。

 「了解です」

 私は軽く笑って、頷いた。それだけのやり取りだった。けれど、その約束は、マフラーを巻かれたみたいに私を温めた。

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2026年1月2日 19:00
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白界 なりもとまひろ @narimoto-mahiro

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