第2話 寝室
限界は、数日後に訪れた。
水曜日の朝、私は重力に敗北した。身体が鉛のように重い。重力そのものが増したみたいに、四肢が布団に縫い付けられている。頭の中に霧がかかっている。考えようとすると、思考が途中で途切れる。みんなが動いている時間に、私だけが止まっている。その事実が、胸の奥で鈍く広がっていく。役に立たない。また、こうなる。
過去の記憶が、腐ったヘドロのように肺に逆流してくる。子ども未来部での日々。休んだ八ヶ月間。腫れ物に触るみたいな視線。誰も口にはしないのに、視線の裏側に同じ字幕が浮かぶ。言い返す先もないまま、息が苦しくなる。その苦しさだけが、喉の奥に引っかかったまま残った。
今の部署は違う。そう思いたかった。でも、身体がこうして動かなくなると、考えは勝手に、同じ場所へ戻っていく。震える指で、係長のトークルームを開いた。
『お疲れ様です。昨日から体調が落ちてしまって、今日は休みます。』
送信してから、後悔した。書き方が正しかったのか分からない。返信は、思ったより早く来た。三秒もしないうちに、既読がつく。
『了解』
それだけだった。責める言葉も、理由を問う言葉もない。その簡潔さが、胸に残った。
『試験就労を乗り越えてすぐ観光部にきたので、やる気があっても身体がついていかないのが悔しいです。』
打ち込む指先が滲む。こんな重い話をするべきじゃない。でも、止まらなかった。
通知音が鳴った。画面を見るまでに、少し時間がかかった。
『無理はしないで欲しい』
ありきたりな言葉。そう思った。
けれど、その下に、もう一行あった。
『俺も前に、少し止まったことがある。前の部署で心身ともに疲弊して一ヶ月くらい休んだ』
時が止まった。
あの係長が?どんなトラブルも涼しい顔で捌くあの人が?
詳しい話はなかった。それでも、その一文だけで十分だった。完璧に見える人にも、立ち止まった時間があった。壊れた時間があった。
その事実が、今の私を、ほんの少しだけ現実に引き戻す。
「私だけじゃない」。その安堵感が、罪悪感を薄めていく。
スマートフォンの画面は暗くなった。それでも、さっきより呼吸が深くなっている。私はそのまま、泥のように眠った。
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