白界

なりもとまひろ

第1話 開票所

 2025年、7月20日。日曜日。

 開票所の時計の針が午後10時を跨いだ瞬間、体育館の空気は一段と重さを増した。

 湿度計の針は見ていない。けれど、肌にまとわりつく空気の質量でわかる。80パーセントを超えている。もはや気体ではなく、粘り気のある液体のようだった。市民体育館の巨大な空間は千人近い人間の熱気と、数万枚の投票用紙が擦れる乾燥した音、そして空調設備の唸り声で、巨大な圧力釜のようになっていた。

 参議院選挙の開票作業。

 市の職員にとって、それは逃れられない徴兵のようなものだ。パイプ椅子に整列した数百人の背中が、機械的な手つきで票を仕分け、束ね、運んでいる。私、白石ユキもその中の1つの部品として、ただ「有効」か「無効」かを判別する作業を繰り返していた。

 視界の端が、白く明滅し始めていた。

 ――来た。

 手元の票の文字が、意味を持たない黒い染みに分解されていく。周囲の喧騒――立会人の怒号、計数機の電子音――が、水中に沈んだように遠のいていく。

 ホワイトアウト。

 雪山で視界を失う現象と同じだ。情報量が多すぎるのか、あるいは私の脳の処理能力が限界を迎えたのか。世界が輪郭を失い、自分の身体の境界線すら曖昧になる。このまま椅子から崩れ落ちて、溶けてしまえればどんなに楽だろう。


 休憩の合図と共に、私は体育館の壁際、搬入口の方へと身を寄せた。

 外に出ることは許されていない。けれど、シャッターの隙間から、夜の湿った空気だけが流れ込んでくる。その金属の隙間に、網戸がはめられていた。そこに、一匹の蝉が止まっている。じじ、と短く鳴く。脂ぎった羽が、白い蛍光灯の光を鈍く反射していた。逃げ場をなくした場所で、無理に鳴いているその姿が、今の私と重なって見えた。

 私はスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。画面の中で、蝉がぶれている。指が震えて、焦点が合わない。送信先に「まほん」――係長の表示名――を選び、そこで、止まった。

 文字を打つ気力がない。それでも、何かを送らなければ、この場にいられなくなる気がした。

 そのとき、背後で足音が止まった。

 「白石さん」

 心臓が跳ねた。ゆっくりと顔を上げると、係長が立っていた。本部席を離れたばかりなのだろう。ネクタイが、わずかに緩んでいる。普段は飄々としているその顔に、疲労の色が薄く滲んでいた。

 私は、スマートフォンを持ったまま、動けなかった。怒られる、と思った。サボっていると思われる。

 「蝉、鳴いてるな」

 係長の視線は、私ではなく、網戸の向こうに向けられていた。

 搬入口の方から、じじ、という音が聞こえる。

 私は小さく頷いた。喉が張り付いて、声が出ない。

 「……鳴いてます」

 「そっか」

 それだけだった。

 「大丈夫か」とも、「戻れ」とも言わない。ただ、そこに蝉がいるという事実だけを共有して、彼はポケットに手を突っ込んだ。

 少しの沈黙。

 体育館のざわめきが、遠い波音みたいに耳の奥で揺れている。けれど、隣に立つ人の体温のようなものが、霧散しそうだった私の輪郭を少しずつ縫い合わせていく感覚があった。

 「長丁場だな」

 「……はい」

 それは励ましでも命令でもなく、ただ、今の状況を確認しただけの、温度の低い声だった。けれど、その低さが心地よかった。

 「一息ついたら、戻ろう」

 判断だけを置いて、係長は先に歩き出した。背中が遠ざかる。

 私は、手の中のスマートフォンを見下ろした。

 画面は暗く、何も送られていない。

 それでも、不思議なことに、さっきまで白く霞んでいた視界に、輪郭が戻ってきていた。

 ――送らなくてよかった。

 

 もし送っていたら、それはただの情報のやり取りで終わっていただろう。でも、いま、確かに彼はここにいた。

 たったそれだけの実感が、私の背骨に杭を打ち込み、崩れかけの精神を、かろうじて支えていた。

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