少女が目を覚ますとそこは病院だった。

　真っ白いベッドに寝かされた頭には包帯が巻かれ、体を包む薄水色の病衣の隙間からは色々なケーブルが延びベッドの隣のモニターに繋がっていた。そのモニターには複数の数字や規則正しい形を繰り返すＱＲＳ波が静かに映し出されている。

　少女はむくりと体を起こすと右手の手の甲に繋がっている細いチューブに首を傾けていたが、不意に大きなあくびが一つ漏れ視界が溢れてきた涙で少し滲む。その涙を左手で拭うと、きょろきょろとベッドの上からあたりを見回した。何かを忘れているが、それが何かは分からない。

　部屋は白色で統一されておりとても清潔感にあふれている。他のベッドは見当たらず少女が眠っていた一台だけだ。そのベッドの左側には廊下が見えている。白いカーテンが掛かる窓の向こうは夜のようで、街の明かりが白いカーテンの繊維の間から薄く漏れていた。

　少女はベッドから降りようとして体を動かすが、両手足や胸の辺りに貼り付けられたチューブやケーブルが邪魔をした。ベッドから体を動かすたびにベッドの隣のモニターが引っ張られたケーブルのせいでかたかたと音を出して揺れる。また、無理矢理動いたせいなのか、右手の甲に刺さっていたチューブの根元に張られた白いテープの間からは赤い血がじんわりと染み出していた。

　少女は思わず声を上げようとして、びくりと体を震わせた。

　胸の辺りが燃えるように熱くなったかと思うと、どこかで聞いたことのある声が脳裏に響く。

――あれは夢ではないよ。君は私と契約を交わした。君は少しだけ時を遡り生き返る代わりにその＜口＞を私に捧げた。そして私は君に＜良い口＞を与えた。魂に刻まれた契約を忘れてはいけないよ。

　その声が聞こえなくなると胸の熱さは嘘の様に収まった。

――夢じゃなかった。

　少女は右手の甲から滲んでいる血の事も忘れて暫し呆然と部屋の壁を見つめていた。いや、正しくはその目には何も映っては居ない。ただ、その瞳が向く方向にたまたま壁があったというだけだった。

――なら。

　少女の瞳が再び意志を浮かべたとき、その脳裏に一つの言葉が浮かび上がった。

「とれて」

　酷く掠れて聞き取りにくい声でそうつぶやくと、右手の甲のチューブは踏まれて暴れる蚯蚓の様にグニャグニャと動き始め、独りでに固定用のサージカルテープを剥がし、その先に繋がっている翼付針が抜け落ちた。

　同時に血管を傷つけたのか、真っ赤な血液が真っ白なシーツの上に零れ落ちる。

　その痛みに思わず悲鳴を上げそうになった少女は何とかその口を閉じることに成功したが、心臓が早鐘を打つように騒ぎ出す。

　それを当然の職務とばかりに感知した心電図モニターは、測定された心拍数を正確に表示する。それと同時に不気味なアラームが鳴り響いた。

　突然鳴り始めたアラームにパニック状態に陥った少女が思わずベッドから飛び降りると、両手足や胸に取り付けられた電極パッチから伸びるケーブルを巻き込む形となり、心電図モニターは傾きその後酷い音を立てて床に激突をした。同時に少女の胸へと伸びていたケーブルは不自然にも全て外れて床に落ちる。

　静かな病室に響き渡る酷く大きな音は、そのほぼ正面にあるナースステーションの看護師を呼び出すには十分すぎるほどであった。

　ばたばたと言うナースシューズがリノリウムの床を蹴りつける音が聞こえたかと思うと、病室の入り口から一人の看護師が病室に飛び込んできた。

　そしてその看護師は一瞬で病室内の状況を理解したのだろう、その表情は一瞬凍りついたように硬直したが、すぐさま看護師としての職務を思い出し硬い表情のままで少女の下に駆け寄った。

「大丈夫！？直ぐに先生呼ぶからね」

　看護師は床に膝をつけると少女の肩に右手を置き、安心させるように優しい声で話しかける。が、少女はびくりと体を震わせると一歩後ずさった。

「どうしたの？大丈夫。大丈夫だからちょっとだけそのままで――」

　肩に置かれた右手に僅かに力が入ったことを感じて少女は体を硬直させる。それに気付かず看護師は左手を首に下げた医療用ＰＨＳへと伸ばし、ワンタッチボタンに設定されている電話番号を親指で押した。静かになった病室でプ、プ、プと何度か電子音が鳴った後、直ぐに連続したコール音が聞こえてくる。

「やめて！」

　少女が酷く掠れた声で叫ぶと看護師の右手が何かに弾かれたように跳ね上がる。左手に持ったＰＨＳは、焦げ臭い匂いをたてながらその役割を果たす前に細い煙を上げて沈黙した。

「え？」

　看護師は自分の右手に起こったこと、左手のＰＨＳに起こった出来事を理解することが出来ず、呆然とした顔で少女の顔を見つめることしか出来なかった。

　少女はその隙に看護師を両手で押しのけその横を通り抜けようとする。だがその体に染み付いた経験からか、看護師の腕が伸びそれを止めようと伸びる。

「ひっ！！」

　だが、看護師は短い悲鳴を上げると伸ばした手を引っ込めると、その腕で自分の体をきつく抱きしめた。その視線の先を見れば、廊下から見えるナースステーションの壁に、恐ろしい悪魔の影が浮かび上がっている。

　平面なはずのその影の腕がゆっくりと持ち上がり、見えない筈の人差し指が向けられると、堪えることの出来ない恐怖が体の底から滾々と湧き上がり、看護師はその場に尻もちをついた。その影の横を少女は小走りで通り過ぎていく。

　リノリウム張りの廊下に赤い血を落としながら、少女は何も分からず駆けていく。何故か誰も居ないナースステーションを過ぎると、エレベーターがその視界に入った。その前に立ち、降りるのボタンを押した後少女はぼんやりとしていたが、右手の甲からの痛みがそれを妨げ始めた。目をやれば、小さい右手の甲から中指を伝って床へと血が流れ続けている。

「なおれ」

　少女が呟くと右手の甲の傷は手品の様に消えてしまう。まだ乾燥していない血の筋だけがそこに傷があったことを示していた。それをみて少女は満足そうに一つ頷くとドアが開いた、誰も居ないエレベーターの中へと入っていく。

　普通の物より少し広い寝台用エレベーターの中で少女は一階のボタンを押すとふぅ、と一つ溜息をつく。足元を見れば裸足のまま、着ている物は病衣一枚。外に出てしまえば目立つこと位は少女にも分かっていた。どうしようか考えているうちに、一階へとエレベーターは降りて行きドアが開いた。

　開いたドアの向こうには入院患者の家族だろうか、私服を着た４０代ほどの女性が疲れた顔で立っていた。その横をドキドキしながら少女は通り過ぎると、女性は入れ違うようにしてエレベーターの中へと入って行く。ホッと息を吐いた少女の目の前に病院の出入り口が見えてくる。

　だが、出入り口の前には「夜間出入り口へお回り下さい」と書かれたパネルと細いロープが張られた金属製のポールが二本置かれていた。その出入り口が使えないことは少女にも理解が出来た。

　冷える足元にやや爪先立ちになりながらも、少女はパネルに書かれている矢印の方向へと駆け足で進んでいく。少し離れた通路の先に「夜間出入り口」と書かれたパネルが掛かっているのが見えた。

　その文字を少女は読むことが出来なかったが、それがこの病院から出ることが出来る場所だと何となく感じていた。その場所へと近づくたびに足元に感じる冷え込んだ風を強く感じるようになったからだ。

　そこで少女はふと、後ろを振り返ってみた。

　すると、何故かエレベーターの扉はまだ開いたままで、先程の女性が少女の事をじっと見つめていた。

　少女の背筋を悪寒が走ると同時に、女性はエレベーターの中から出るとこちらを目指して速足で歩きだした。

　肺の中の空気を吐き出して少女は慌てて夜間出入り口目指して走り出した。それを見た女性も走り始める。

「誰か居ないの！」

　女性が大きな声を上げるがそれに反応する人間はどうやら居ないようだった。これ幸いと少女はその声を背中で聞きながら、夜間出入り口のドアノブに手をかけ重いドアを必死に押し開けた。

　その時、少女が気付かなかった夜間出入り口の隣に配置されている警備員室の中から、年配の男性警備員が小さい窓から顔を覗かせた。

「警備員さん！その子捕まえて！！」

　女性の大きな声が警備員室まで届いたのだろう。制服の男性が慌てて窓の外を覗いて少女の姿を確認する。

「何やってるのよ！その子出ちゃうわよ！」

「わ、分かりました！」

　再度の女性の声に慌てた警備員が警備員室のドアを開けようとするが鍵が掛かっていたのだろう、ガチャガチャと言う音がしただけだった。

「何やってるのよ！！」

　怒号に近い女性の声が病院の中に響く。少女はその僅かな隙にドアの隙間を潜り抜けて外に飛び出す。

　病院の外に出ると足の裏を砂利やゴミが容赦なく刺し、少女は思わず足を止めてしまう。喉まで出かかった言葉を歯を食いしばり辛うじて飲み込むと、もう一度走り出そうとその足に力を込めたその時。

「待ちなさい！」

　その肩に手が掛けられた。

　どうやら警備員は直ぐにドアを開け少女を追ってきたらしい。

「病室に戻りなさい！」

　顔に刻まれた深い皺をより一層歪めながら警備員は大きな声でそう言うと、身長差のため屈みながらもう片方の手も反対の肩に掛け、ぐるりと力ずくで少女の体を自分の方へと向かせた。

　強制的に向けられた視界の先にあるドアの前には、いつの間にか先程の女性が腕を組み仁王立ちで立っていた。見下ろすような形で膝をついたままの警備員と少女の二人を見下ろしている。

「ダメよお姉ちゃん。何があったかは分からないけど、おとなしくベッドに戻って眠りなさい。おばさん看護婦さんには内緒にしてあげるから」

　警備員に捕まえられ、体を震わせている少女が観念をしたと思ったのか、女性は組んでいた腕を下ろすと優しい声で話しかけた。だが少女の胸の内にあるのは諦めでは無く、何故自分の邪魔をするのかと言う怒りの感情だった。

――なんであいつに逢うのを邪魔するんだ！

「はなして！」

　少女が四文字の言葉を掠れた声で叫ぶと、警備員はブレイクショットを受けたビリヤードの玉の様にドアに向かって吹き飛び、その後ろに居た女性を巻き込みながら分厚いドアに衝突をする。

　その衝突エネルギーをまともにその身に受けた二人はピクリとも動かなくなる。ドアと警備員に挟まれる形になった女性の右足首は明らかにおかしな方向を向いていた。

　その光景に湧き上がった怒りはあっさりと霧散し、自分が行ってしまったことへの恐怖がじわじわと心の奥から湧き上がってくる。

　そして。

――四文字の言葉を使ってしまったね。君を一口食べにきたよ。

　悪魔の声が脳裏に響き渡る。

　少女は魂に刻まれた契約を思い出し、がちがちと音が鳴るほどに歯を震わせていた。先程の自分が犯した出来事に対する恐怖が些細な事の様な、魂が凍り付いてしまう程の恐怖が上塗りしていく。

――ああ、でも私は優しい悪魔。一度だけは許してあげよう。次はもっと気をつけないとダメだ。良く考えてその＜口＞を使わなければならないよ。

　脳裏に響く悪魔の声に少女はただ歯の根が合わないまま首を上下に振り続ける。その頬には何時の間にか大粒の涙が幾筋も流れていた。

――君のその＜良い口＞は何でも出来る。よくよく考えることだ。そう、何でも出来るのだから。

　悪魔の声が聞こえなくなると少女は、はぁはぁと大きく息を吐きながら地面に座り込んでいた。全身が酷く震えている。

「どうしたんだ！」

　そこに突然男の声が聞こえてきた。どうやら先程大人二人がドアに衝突した大きな音は病院内にも響いていたのだろう、それを確認しに来たと思われる事務員姿の男が夜間出入り口の小窓から外側の惨状を見て、慌てた様子で駆け寄ってきている。

「そこの君！大丈夫か！？」

　まさかこの惨状を起こした本人だとは露ほども思わず、事務員の男は唯一意識がある少女に話しかける。だが、少女はまだ恐怖が体から抜けきらないのか、ただ体を震わせて事務員の男を見上げているだけだった。

「少し待っていなさい！直ぐにドアを開けるから！」

　少女に反応が乏しいことを見て緊急性が高いと判断したのだろう、事務員姿の男は急いでドアを開けようとするが、ドアにもたれかかる二人の重さによりドアを開けることが出来ないようだった。

　苛立ったのか、一度ドアを蹴飛ばすと事務員はもう一度少女に声を掛ける。

「正面玄関を開けてそこに行くからそのままで待っているんだ！分かったね！」

　そして事務員は踵を返し受付がある方向へと走って行った。少女はそれをただ見つめていたが、少しずつ魂を凍らせるような恐怖が薄れていくと徐々に一つの想いが思考を支配していった。

――あいつにただ逢いたいだけなのに。

　頬を伝う涙は止まらず、溢れ続けていた。

　同じように凍りついた魂の内側からただ「逢いたい」と言う想いが溢れ出る度に、少女の体はゆっくりと、少しずつ自由を取り戻していく。

「そこを動くんじゃないぞ！」

　そうしている内にどうやら表玄関の鍵を開けて外に出たのだろう、事務員姿の男が少女のもとに辿り着く。安心させるためか、色々なことを喋っているがどれも少女のの耳には届かなかった。

――少しくらいなら、食べられても、良いかな。

　少女は頭の中に浮かんだ四文字の言葉を反芻しながら、その対価となる約束を思い出していた。悪魔が自分を少しだけ食べる。それだけだ。

――まぁ、いいか。

　事務員がPHSに手を伸ばした時、その耳に一つの言葉が聞こえた。

　掠れた、小さな声だった。

「あいたい」

　その言葉と同時に、少女の姿は幻の様に掻き消えた。