少年

 そこは悪魔と始めて会った場所だった。

 明るくて暗い。狭くて広い。高くて低い。つるつるしてざらざらで。あり得ないものが同時に存在する不思議な場所だった。

 その場所で少女は再び悪魔と向き合っている。だがその瞳は力強く、生命力にあふれていた。


「君は賢い。おめでとう。望む物はもう直ぐ目と鼻の先にある。私も誇らしいよ。あの<良い口>を上手に使えているようだね。でも、やはり四文字の言葉を使ってしまった。だから君をひと齧りしなくてはならない」


 少女の全身を何か生暖かい物が包み込む。強いてどのような物かと表現するならば、歯のない口の中にでも包まれたとでも言うべきだろうか。時折吐息のような生温い風が肌を撫でた。


「では、ほんの少しだけ摘み食いをするとしよう。残念だが、これも契約の内だ。なに、そんなに怖がることはない」


 少女の胸の辺りにざらついた何かが触れると、その中にある何かを吸い上げていく。体の中の暖かい何かが急速に抜け落ちていき、体の何処か遠いところでぐしゃり、と言う何かを潰した様な音が聞こえた。


「ああ、やはり君は素晴らしい。思わず全てを食べてしまいたくなるほどに甘露だ。この私も我慢をするのが大変だったよ。少し形が変わってしまったかもしれないが、成すべきことを成したまえ」


 悪魔がそう言うと、周りの風景が切り替わった。



 其処は子供部屋のようで、窓は片側だけが空色のカーテンで閉じられていた。床も空色の絨毯が敷かれている。壁際にはシングルサイズの空色のベッドと、学習机や少年漫画のコミックが並んだ本棚もある。幾つかの玩具が絨毯の上に転がっていた。

 

 その部屋の真ん中に少女が立ち尽くしていたが、ベッドの上で同じく空色の布団に包まれ眠る少年を見つけると、その瞳に意志の力が力強く灯る。


 少女は眠る少年の下まで歩くと、ベッドの淵に手を掛けその顔を眺め始めた。どれ位そのようにしていたか、正確な時間は分からない。


 ただ、少女はその間に何かを決意したようだった。


「おきて」


 呟いた言葉は酷く掠れており虫が泣くような声量だったが、ベッドで眠る少年はまるでけたたましい目覚まし時計にでも急かさせたかのように、ぱちりと目を開いた。


 そして、目を開いた少年はベッドの淵で自分を覗き込んでいる少女に気が付くと、ゆっくりと上半身を起こした。


「君は誰?」


 少し震えた声で少年は誰何した。


――一体何を言っているのだろう。


 少年の言葉を聴き、少女は血の気が失せていくのを感じていた。


 何時の間にか震えていた体を自分の腕で抑え込むようにしてきつく抱きしめ、イヤイヤをするよう頭を振ると、ふとカーテンの無い窓に映る自分の顔が見えた。


「ああ!」


 少女は思わず酷く掠れた声で鋭い悲鳴を上げた。その窓に映る少女の顔は年齢こそ変わらず幼いものであったが、自分の記憶にある自分の顔ではなかった。一度も見たことも無いその顔は、誰の物だろう?

 同時に、大事な何かが自分の中から抜けてゆく。二文字の言葉を、いや、言葉にならない声を思わず漏らしてしまったからだろう。何かが長くは持たない事だけは、少女には理解が出来た。


 ――少し形が変わってしまったかもしれないが、成すべきことを成したまえ。


 悪魔の言葉を反芻し呆然と立ち尽くす少女に、ベッドの上の少年が恐る恐る声を掛けた。


「怪我をしているの?大丈夫?お母さん呼んでこようか?」


 少年がその姿を心配そうに眺めていたが、少しだけ落ち着きを取り戻したその視線は、巻かれたままの頭の包帯に向けられていた。


 その声を聞いて少女はふと我を取り戻した。

 いつもと変わらない、優しい大好きな声に。

 酷い言葉で傷つけ、嫌われてしまい、もう聞けなくなってしまったと思っていたその声に。

 

――ああ、良かった。もしかすると、今の私は前の私じゃないのかもしれない。けれども、私がすることは最初から決まっていたんだ。そのために優しい悪魔さんにお願いをしたのだから。


 少女は一度大きく深呼吸をすると、まだ震えている腕をほどき、両手を祈るように胸の前で組んだ。それを見た少年の目が大きくなった。少年は良くそうしていた、恋心を抱く一人の少女の事を良く知っていたから。


「ごめんなさい」


 酷く掠れた声で少女は頭を深く下げて謝罪の言葉を口にした。同時に、体の奥深いところの何かが急速に冷えていく感覚を感じていた。


――ああ、君は約束を破ってしまった。


 悪魔の声が聞こえた。少女はそれを無視をしてゆっくりと頭を上げた。


――いいよ。もう私を食べても。ありがとう。優しい悪魔さん。


 少女は満足気な表情を浮かべ、何時の間にか隣に立っていた悪魔に向かって小さく頷いたあと、大好きな少年の顔を見て口を開く。


「またね」


 少女は何時もの別れ際の時のようにそう言うと、その姿は幻の様に掻き消えた。


 少年は何時の間にか流れていた涙を拭うことなく、空色の絨毯に残った小さな足跡を呆然と眺めていた。

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