企画用

アタオカしき(感想会開催中)

近況ノートだったもの

サリーとアン問題

と映画など創作に対する酷評の関連

心の理論:Theory of Mind(結局統治論や社会学的な話になる)


問題点とは、集団の分断が起こること。


引用した文献も示さない駄文なので話半分で聞いてくださると嬉しいです。


以前と変わって、だらだら前提を話さずに話題にしたいことを書きます。


《中傷的酷評は神の視点で行われている》


というものです。


神の視点(嫌味を含んではありますが)とは、メタ視点の第一段階であります。


これを根本から説明するために、心の理論というものを用いながら、サリーとアン問題を例にします。

____________


ⅰ.サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。


ⅱ.サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行く。


ⅲ.サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移す。


ⅳ.サリーが部屋に戻ってくる。

_____________


心の理論とは(適当に引用しますが)


Ⅰ.人は一般に他人にも心が宿っていると見なす(他人への心の帰属)

Ⅱ.他人にも心のはたらきを理解する(心的状態の理解)

Ⅲ.それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)


神の視点の重要な部分とは、"ボールが別の箱にあることが分かっていること"です。


では、サリーの視点に移ります。最初にどこを探すのか、お分かりでしょうか。


①最初の箱を探す


簡単なことだと、感じているでしょう。誰にでもできることだ、そう思っていることでしょう。

(もしもここで、サリーはアンのことを疑わしいやつだ、という前提で別の箱を探すだろうと考えることは、質問の意図にないことを自ら足してしまっているので、ミスコミュニケーションです。この、新たに前提を付与してしまう行為は事象の解明{なぜ砂漠化が起こるのか、何が殺人の動機になったのかなど}に関しては問題になりません。違いは意図の伝達があるかないかです。)

しかし、サリーとアン問題が複雑になってくると、簡単に人は神の視点で判断をしてしまいます。


偶然発見したやり取りを以下に引用します。

(細かい経緯は、ご質問等あれば雑用掲示板でお答えいたしますね)


____


とか言うくせに自分が辛いのを理解しろ理解しろばっかりで、軽い人のことは認めず敵認定してるのどうかと思うよ。

個人差認めてる人すら拒絶したら理解しようとする人いなくなるよ。理解者を突っぱねてるのは自分の方じゃん。


うおー、想像力ねえ。理解してくれる人なら突っぱねる訳ねーだろ。


生理軽い人の中に理解者がいないと断言できる理由は?

身近に重たい人がいて、そういうのを見て理解してる人もいるかもしれないよ?

それなのに軽いってだけで一括りに敵と言ってるのは、理解者を突っぱねてることにならないの?


奥さんがどう思ってるかはわかんないって言ってるじゃん。断言してねーよ。

普通の理解力があれば、理解のない人の事言ってるんだろうなって分かるはずだけど。

理解してくれる人のことまで「敵」って言うわけないし。


少なくとも相手は認める姿勢を見せているのに、あなたは個人差を、軽い事を容認しないんですね。


____


(社会学的な外集団化が起こっていますが、そこは無視して)心の理論を当てはめて状況を整理してみます。


一般的な感覚で言うと


①は自分の体験に共感をしてほしい。


②は①のおかしな発言をとがめている。


③は②の話をしている。


今回の、私が話題にしている心の理論から見たミスコミュニケーションとして見ると


①は自分の辛い体験の話をしている


②は①の発言を、文字の持つ辞書的な意味で理解をし、そこから導かれる推論をしている


③は同じく、文字通りの意味で①の発言を受け取り、②が加えた容認の話をしている


という構造があります。


これはまさに、神の視点による発言が行われています。


抽象的に言うと、①に対して、②と③は話の趣旨を無視し、自ら行いたい話をしている状態です。


具体的にたとえて言うと


①「引っ越したら壁薄すぎて、隣の電話まで聞こえる。きつい…」

A「うわー大変。そこそういう物件って知らなかったなら余計しんどいね」

②③「いや、そこ壁薄いって有名だよ?知らないのは自己責任でしょ」


と、話の趣旨が捉えられていないことにあります。ここで、「いや、それはそうだけど、自己責任だよ」と反論があるのであればこうすることを提案します。


「引っ越したら壁薄すぎて、隣の電話まで聞こえる。きつい…」

「うわー大変。そこそういう物件って知らなかったなら余計しんどいね。でもあれじゃない?そこ壁薄いって有名だよ?不動産屋さんが隠してたのかな?でも一応、調べておけば別のところ住めたのにね……いやーでもそれ私耐えられない」


と言うことを推奨します。話の趣旨である共感という形は崩れずに、原因のひとつとなっている行動に対して問題提起が行えています。


このような構造が意味することは


《中傷的酷評は神の視点で行われている》


というものです。上記のすれ違いには、論理構造上の噛み合わなさ(割り込みする人には罰金するべき、という話に対して、いや倫理的に問題であることが重要だ、と罰金は必要ないと言わずに"割り込む"ことなど)もありますが、今回は脇に置きます。


話を一旦まとめると


●物事が複雑になるとサリーとアン問題的なミスをしてしまう(相手の意図が汲み取れなくなる)

●自分の視点(神の視点)で話をしてしまう


ことです。


創作に対する中傷的な酷評はこの2つが起こっています。


具体例として、2025年末現在の映画である『果てしなきスカーレット』を挙げます。


様々な意見があり、作品の問題点を指摘する言葉を、もしも面と向かって人に伝えるのであれば社会通念上大きな問題になるほど酷いものになります(作品で描かれたものをこの状況に当てはめるのであれば、対処的には相当面白い結論が導けます。今回は主題でないため省きます) 


その……動画などたくさんあるので見てみてください。


あのような攻撃的な快楽をエンタメのコンテンツとしたものはあるので、その部分を切り離し、コミュニケーションとしてみた場合に絞ります。


端的に言うと、あれらは、


送り手の意図が掴めないために神の視点で論じるしかない状態です。


創作である場合

物語において雨が降るという事象に、『小さな水滴や氷の粒になり、それが集まって雲を形成し、さらに成長して重くなり、重力で地上に落ちてくる』という現実の表現と意図が込められていると"推論"するのではなく

シーンと人物の悲哀を伝えようとしている、という伝達物を"受け取る"ことが重要です。“事実因果の説明”と“表現意図の受容”を取り違えると大変です。


複雑な作品とは、この2つの要素の区別が難しい、または絡み合っていることがあります。


果てしなきスカーレットとは


作り手の意図

それとは別の登場人物たちの考え

作り手の意図が反映された登場人物たちの言動


という3つのものを同時に、優先度や強弱をつけて(ここは作者の意図に無いなと弾くなど)、心の理論で理解することで、意味がわかってくる作品です。これを第二段階のメタ視点と定義します(ハムレットがですとか、教養がですとか、そんな要素は全く必要ないです。)


このままだと、

「いやいや、エンタメなんだから視聴者を楽しませてこそ。そんなのは作り手の自己満足的なのだから楽しめる基礎があってはじめて許される」

という反論が予想されます(それでも趣旨とは随分離れるのでもう少し整理して話してほしいですが)



文化の違いも大きな要素です。


文化の違いとは、わかやすく伝えるための安易な一般化ですが、その本質は前提的(ルールとされる)なコミュニケーションの欠如と同じ事象に対する認知の不一致です。


親指を立てる行為と、手の甲を見せるピースサインは、私たちの文化圏ではポジティブな意味で用いられます。しかし、中東文化圏では親指を立てる行為は男根を表す屈辱的な仕草であり、手の甲を見せるピースはイギリスにおいて同じく屈辱的な仕草です。


ここで重要なのは、相手の意味に合わせたコミュニケーションではなく、お互いに意図を汲み取ることです。


誤解をさせてしまった、と片づけ一方に解決の所在を求める行為は真の解決にはいたりません。根本とは、互いに意図を汲み取ることです。


ベトナム・タイ・カンボジアなどの文化圏では、他人が子供の頭を撫でることは神聖の侵犯としてみなされます。

もしもことが起こったとすれば、親しみでその子供の頭を撫でれば、親はひどく気分を害するでしょう。ここで心の理論を備えていれば、「相手はそのことを知らない」とすることで、気分は害するものの、集団の分断を避けることができます。


エンタメでも同じことが起きます。笑いのために食べ物が損なわれる行為があったとします。

食べ物を大切にする認識が持たれされている日本では、極めて不徳な行為ですので、強いストレスを感じるでしょう。これが、共通認識の不一致です。必ずしも、認知が一致するわけではありません。


関西文化圏では、「また行こうな」の意味は、関東文化圏的に訳すと「今度行こうな」という意味です。もしこれが関東と関西のカップルであれば、「誰と間違えてる?」と浮気の疑いが持たれることでしょう。そういう点でも、意図を汲み取ることは、創作はコミュニケーションであるため、重要です。


100%できなければならないということではありません。天気予報が当たることも外れることもあるように、心の理論は誰もが完全に備えられるものではないでしょう(脳の構造、地理気候の影響、経験知識などに左右される)。


しかし、相手の意図を受け取ろうとする行為は、たとえ苦手であってもできることであります(実践段階の話は今されると趣旨違いですからね……?)


以上、サリーとアン問題と映画など創作に対する酷評の関連 心の理論:Theory of Mind(結局統治論や社会学的な話になる)でした。


(ここでもいやだからエンタメはというのであれば、趣旨違いという範囲ではなく、統治論の話になってきます。ホッブズの万人闘争です。論理的な問題ではなく、動物たちが日々繰り広げる生存競争と同じ構造になります)


(また、この話から接続できるものとして、意味論と語用論があります。言語とははじめ、文字のない犬の鳴き声と変わらない声であり、意味の汲み取りが前提であった。しかし、文字という共有できるものになり、辞書的な言語運用と、校正という行為が生まれます。問題なのは、もともと音声によるコミュニケーションの延長線上に文字があり、辞書的な意味による校正は統治論的でもあることです。共通認識として辞書的な統治を行うことは正確に意図を不特定多数に伝える一方通行には有効ですが、相互的なコミュニケーションにおいては依然として意図を汲み取り合う音声的なコミュニケーションが問題解決の糸口を持っているということです)


(物事はちょうど良いほうがいいと言われます。これは逆U字型の曲線で二次関数的に表せますが、この線は波打っている場合があります。ちょっと関連して『果てしなきスカーレット』に戻りますが、芦田愛菜を生きたいと言わせたうんぬんかんぬんの話があります。これに関して、他言語のある事例があります。柿は、多くの言語でそのままkakiと発音されるか、kの音が残ることが多いです。ハンガリー語は外来植物である柿をkaki(スペルはkhaki)と発音するのですが、うんこであるkakiと発音が同じであるためKhaki szilvaという表現や、Datolyaszilvaという表現が好まれます。そのような言語的運用が、日本においてそろそろ必要になってくるきざしかもしれません。数年後、先見の明があったと言われてほしいですが……イキづらいですね苦笑 

しかし、いい歳した大人なのですから、その視点はいかがなものかと思わなくもないですが[これも統治論の一種である言論です]。)

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