第2話 黄金の獣
あれから一週間。エルセリアは逃亡計画の第一歩として、お忍びで下町を訪れていた。彼女の隣には、完璧な町娘に扮したマルタが控えている。彼女の足運びは人混みを縫うように滑らかで、時折周囲を警戒する鋭い視線は、やはりただの侍女のそれではない。
「お嬢様、あまりきょろきょろなさらないでください。いくら地味な服を着ても、その隠し切れない可愛らしさと育ちの良さが『カモが歩いています』と言っているようなものですから」
「気を付けるわ、マルタ。でも、この街の空気……今まで一度も吸ってこなかったものだから、つい」
前世の彼女は、王子の婚約者という立場に縛られ、常に「完璧な令嬢」を演じていた。その結果が、陥れられて殺されるという、死。そんなことなら、もっと自分の好きなように生きたかった。
エルセリアは微笑みながらマルタを見る。
「私、小さなお店を開きたいと思っているの。マルタが手伝ってくれるなら、何でもできそう」
「当然です。私にかかればそのようなこと……」
マルタが言葉を切った。その視線が、路地裏の暗がりに固定される。ネズミが這い回る、湿った悪臭の漂う裏通り。そこから、複数の男たちの汚い怒鳴り声と、鈍い打撃音が聞こえてきた。
「おい、このガキ! 生意気に噛みつきやがって!」
「その目を潰してやれ。そうすれば少しは大人しくなるだろ」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。胸の奥、前世で刃に貫かれた場所が、熱を帯びたように疼く。
気が付いたら、エルセリアの足は勝手に動いていた。
「お嬢様! 厄介事に関わるのは——」
マルタの制止を振り切り、彼女は路地裏へと踏み込む。そこには、三人の屈強なならず者たちに囲まれ、地面に倒れ伏している一人の少年がいた。
ボロボロの布切れのような服。泥と血にまみれた細い体。
けれど、男たちに髪を掴み上げられたその少年の瞳を見た瞬間、エルセリアは息を呑んだ。
(——金色の、瞳)
獣のように鋭い瞳。それが、彼女を殺した暗殺者のものと重なる。
……だが、今の彼はまだ子供だ。十歳かそこらだろうか。前世で見た、恐ろしいほどに美しい死神の面影はあるものの、その瞳にあるのは冷酷さではなく、剥き出しの憎悪と、今にも消え入りそうな絶望だった。
「やめなさい! その子から離れて!」
エルセリアの叫びに、ならず者たちが下卑た笑いを浮かべて振り返る。
「あぁ? なんだ、可愛い嬢ちゃんじゃねえか。余計な世話を焼くと——」
男が私に手を伸ばそうとした瞬間。彼女の背後から、目にも留まらぬ速さでマルタが割り込んだ。
「失礼。その汚い手を、これ以上私のお嬢様に近づけないでいただけますか?」
次の瞬間。ボキリ、と嫌な音が響いた。マルタは男の手首を掴んで捻り上げ、同時に鳩尾へ鋭い蹴りを叩き込む。
「ぐあぁぁっ!?」
残りの二人も、マルタが隠し持っていた短い警棒のようなもので、一瞬のうちに沈められた。まるで赤子をいなすかのように、滑らかな動きだった。
「ふぅ。ゴミ処理は完了しました。さあお嬢様、行きましょう。あの子に関わると、あなたの計画が狂ってしまうかもしれませんよ」
マルタの言葉は正しいかもしれない。ここで彼を放っておけば、彼は前世と同じように暗殺者となるのだろうか。エルセリアの計画が成功したら、彼と彼女は関わることなく、別の人生を歩むはずだ。……けれど。
痛々しい傷がついた手を地面につけて起き上がろうとする少年の瞳から、一筋の血が流れた。その瞳には、彼女が死ぬ直前に見た「虚無」は、まだなかった。
(……ああ、私。本当にバカだわ)
エルセリアは服が汚れることを気にせず、泥の中に膝をつく。少年は彼女に気が付き、警戒して牙を剥くように喉を鳴らした。
「くるな……殺すぞ……っ」
「怖い思いをしたのね。でも、もう大丈夫よ」
彼女は、震える手で彼を抱き寄せた。前世で彼女の命を奪った、彼の細い体。
彼は驚いたように体を硬直させた。誰にも触れられたことがないのか、あるいは暴力しか知らなかったのか。彼が戸惑っているのが伝わってくる。
「お嬢様! 何を考えていらっしゃるのですか!」
「マルタ。この子を連れて帰るわ」
「正気ですか? それは、ただの子どもではありません。恐ろしい力を秘める、獣ですよ」
マルタの言葉に、エルセリアは静かに首を振った。
「私が放っておけば、この子は本当にそうなってしまうかもしれない。……誰かを殺すために、生まれてきたことになってしまうわ」
過去を思い出して悲しい表情をした彼女は、少年の耳元で優しく囁く。
「あなたは、もう一人じゃない。私が、あなたを守ってあげる」
少年の金色の瞳が、大きく揺れた。憎悪に染まっていたはずの瞳に、初めて「エルセリア」という光が映り込む。
「……まも、る……?」
「ええ。あなたは人を傷つけるのではなく、人を救う人になるのよ」
エルセリアは、彼を強く抱きしめた。その瞬間、彼女らの運命は、前世とは全く別の方向に動き出したのだろう。
自分を殺した暗殺者を、自分の手で育てる。それがどれほど危険で、矛盾した選択であっても。血で汚れた少年の手を握りしめた時、彼女は確かに感じた。
これが、正しい選択であることを。
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死に戻り令嬢は自由を求めて逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~ ラム猫 @bungei80
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