七恵と綾美、二人の元カノ

春風秋雄

まさか綾美から連絡がくるなんて

綾美からいきなり会いたいと言ってきた。綾美と別れてもう3年も経っているのに。まさかよりを戻したいということではないと思うが、一体何なのだろう。会う義理はないのだが、3年も経ってから連絡くれるということはよっぽどのことだと思い、俺は会うことにした。

綾美が指定した場所は、俺たちが付き合っていた時によく利用していた店ではなく、普段はあまり行かない街のコーヒーショップだった。俺がその店に行くと、綾美は店には入らず、店頭で俺が来るのを待っていた。3年ぶりに会う綾美は少し瘦せたようだが、顔立ちがすっきりして以前にも増して綺麗になったように思える。

「とりあえず中にはいろうか」

綾美はそう言ってコーヒーショップの中に入っていった。俺もそれを追いかけて中に入る。

綾美はホットのカフェラテを注文し、俺は普通のホットコーヒーを注文した。

「久しぶりだね」

ずっとカフェラテを飲みながら黙っている綾美に痺れを切らして俺が先に声を発した。綾美はチラッと俺を見て、また一口カフェラテを飲み、やっと口を開いた。

「和也は、まだ七恵のことを忘れられないんだよね?」

いきなり何を言うんだ。俺と綾美が別れた原因の根本は、確かに七恵のことがある。しかし、いまさらそんなことを持ち出してどうしようというのだ。

「いまさら、何でそんなことを聞くんだ?」

「今も七恵さんに会いたいと思っている?」

俺はどう返事しようか迷った。

「本当は個人情報の問題だから、言ってはいけないのだけど、今私が働いている病院に七恵が入院している」

「入院?何の病気なのだ?」

「さすがにそれは言えない。和也にその気があるのなら、見舞いに行って本人に直接聞いて」

「俺が見舞いに行っていいのかな」

「私から聞いたということは絶対に言わないでね。服務規程違反で働けなくなるから」

「そこまでして、どうして俺に教えてくれるんだ?」

「何でだろうね」

「でも、綾美に聞いたと言わずに、どうやって見舞に行けばいいのだ?」

「誰か他の人の見舞いにきて偶然見かけたとか、健康診断を受けに来て偶然見かけたとか、適当にごまかしておいて」

「それで、病状は聞かないことにするけど、入院は長引きそうなのか?」

「たぶんね」

そうか、けっこう重い病気なのかもしれないな。


俺の名前は青山和也。34歳の独身だ。大学を卒業して、電気機器メーカーの総合職として働いている。綾美とは3年ほど付き合って、3年前に別れた。別れた理由は、俺の心の中にその前に付き合っていた七恵の存在があったことだ。自分では忘れようとしていたのだが、どうしても忘れることが出来ず、綾美は結婚を望んでいたが、俺が煮え切れなかったため、綾美は耐え切れず別れることになった。

綾美と七恵と俺は、大学時代の同級生だ。同じサークルで仲良くなり、俺は七恵と付き合い始めた。大学を卒業して社会人になってからも俺と七恵はうまくいっていた。七恵と付き合い始めて5年が経った頃、仕事にも慣れ、そろそろ七恵にプロポーズしようかと思っていた矢先に、七恵から別れを切り出された。七恵に理由を聞いても「和也のことが好きでなくなったから」というだけで、それ以上のことを言おうとしない。そのうち住んでいたアパートも引き払い、実家に帰ってしまった。電話は着信拒否にされ、SNSもブロックされた。実家に会いに行ってもお母さんが出てきて「本人は会う気はないと言っていますので」というだけで、取り次いでもくれなかった。

2年ほど俺は魂を抜かれたような生活をし、仕事だけはなんとかこなしていたが、すべてがどうでも良くなっていた。そんなときに綾美から連絡があった。サークルのメンバーが久しぶりに集まろうと言っているけど来ないかという。七恵も来るのかと聞くと、声はかけているけど、来るかどうかはわからないということだった。俺は一縷の望みにすがって集まりに参加した。しかし結局七恵は参加していなかった。俺は集まったメンバー全員に「今七恵がどうしているか知らないか?」と聞きまくった。ところが、七恵の近況を知っている人は誰もいなかった。その日俺は相当飲んだようだ。ベロベロに酔っぱらって、目を覚ますと見知らぬ部屋の布団で寝ていた。ふと見ると、部屋の隅で綾美が毛布にくるまって寝ていた。そんなところで寝ていては風邪をひくだろうと、俺は綾美を起こそうとしたが起きないので、抱き上げて布団に連れてきて寝かせると、綾美は俺に抱きついてきた。

「青山君、今日で何もかも忘れよう」

綾美は優しく俺にそう言った。俺は思わず綾美に覆いかぶさった。

朝起きると、綾美がコーヒーを淹れ、トーストと目玉焼きを作ってくれた。

「青山君は責任感じなくていいからね。私はずっと青山君が好きだったから、一夜限りだとしても嬉しかったから」

綾美のその優しい話し方が、その時の俺には涙が出るほど身に染みた。俺は綾美のそばへ行き、もう一度抱きしめた。

綾美とは普通の恋人同士のように付き合った。綾美は何度か一緒に暮したいと言ってきたが、俺はやんわりと断った。どこかで一線を引きたかったのかもしれない。綾美はとても理想的な女性だった。学生時代からそうだったが、面倒見が良く、細かいことにもよく気が付く。俺の考えや気持ちを優先してくれる。スタイルも良く、誰が見ても美人の部類に入る容姿をしている。学生時代、七恵がいなかったら、綾美の方に惚れていたかもしれない。しかし、実際には七恵という女性が存在し、俺は七恵を愛してしまった。綾美と付き合いながらも、俺は七恵のことが忘れられなかった。

ある日、綾美が真剣に聞いてきた。

「和也は、私と結婚する気はある?」

俺たちは31歳になっていた。女性としては結婚を考えなければならない年だ。

「綾美は結婚相手としては申し分のない女性だと思っている。でも、俺は今は結婚のことは考えられない」

「それは七恵のことがあるから?」

俺は返事が出来なかった。俺の沈黙で綾美は決心したのだろう。

「私たち、別れましょう」

俺は綾美を引き留めることはできなかった。


病院へ行くと医療事務でこの病院で働いている綾美と目が合った。しかし綾美は俺を無視し、仕事を続けている。俺は病棟へ向かった。スタッフステーションで飯島七恵の同級生ですと名乗り、病室を教えてもらった。面会謝絶といった重病ではなさそうだ。病室の前の名札を確認すると、個室のようだ。軽くノックする。「どうぞ」と中から返事があった。ドアを開け、中に入ると、ベッドから俺を見つめる七恵の姿があった。

「久しぶり。この前、たまたまこの病院に来たら、七恵の姿を見つけたので、お見舞いに来てしまった」

俺は心臓をバクバクさせながら、用意していた言葉を一気に喋った。

「綾美にそう言えと言われたの?最近は病院内をウロウロすることはないから、私の姿を見つけることはないと思うんだけどね」

「いや、あの・・・・」

「いいの。私がポツリと和也に会いたいなって綾美に言っちゃったから、綾美が気を利かせたのだと思う。私もそれを期待したんだけどね」

「何の病気なのだ?」

「心臓。もう何回も手術したんだ」

「何でもっと早く教えてくれなかったんだよ」

「言ったら、和也は毎日こうやって見舞いに来るでしょ?」

「当たり前じゃないか」

「治る見込みもないのに、私にかかりきりになってほしくなかったの」

七恵の言葉に俺は七恵が俺と別れた理由が理解できたような気がした。


七恵の病気が見つかったのは、会社の健康診断がきっかけだったらしい。検査をして、心臓弁膜症だと診断された。手術をして回復する保証はなく、長く闘病生活を強いられることになりそうだと言われた。最悪の場合は5年程度で寿命がつきる可能性もある。だから俺に別れをつげることにしたということだった。

綾美の勤める病院に入院したのは偶然だった。入院して3か月ほどして院内をブラブラしていると綾美にばったり会ったということだ。それから綾美は度々七恵の病室を訪れてくれるようになった。七恵は学生時代から綾美が俺のことを好きだったということを知っていた。だから、綾美に和也のことを頼むとお願いしたそうだ。綾美はそんなことは言わず、病気を治してもう一度和也くんと付き合えばいいと言って、相手にしなかったそうだが、2回目の入院の時に、七恵はもう治ることはないから、和也を頼むと再度お願いして、綾美はサークルの集まりを企画したそうだ。

綾美が俺と付き合うことになったとき、七恵にそのことを報告すると、七恵は祝福するつもりで「そう、よかったね」と言ったのだが、自分でも気づかず涙を流していたそうで、綾美が「今なら引き返せるから、やっぱり和也君と付き合うのはやめる」と言ってくれたが、七恵は俺のことを思って「そのまま付き合って」と綾美にお願いしたのだということだった。

3年くらい前に、2回目の手術がうまくいったようで、七恵の病状は一旦良くなってきた。すると綾美が「和也君と別れた」と言ってきた。「どうして?」と聞くと、「和也君の心の中にはずっと七恵がいる。私はそれが耐えられない」と言っていたが、七恵がこのまま元気になるのではないかと思い、その前に俺と別れておこうと思ったのかもしれないと七恵は言っている。

ところが、七恵の病状は良くならなかった。入退院を繰り返し、そして今回の入院が最後になり、もう退院することはないだろうと自分では思っているということだった。


「綾美が和也と付き合っていた頃は、和也が今どんな仕事をしているとか、今どんなゲームに凝っているとか、時々綾美から聞くのが楽しみだった。綾美は優しいから、客観的に和也の近況報告をするだけで、どんな付き合い方をしているとか、そんなことは匂わさないの。少しは嫉妬もしたけど、それより綾美の話を聞いて、今の和也を想像するのが楽しかった。たまに写真も見せてもらったし」

綾美はそんなことをしていたのか。

「でも綾美が和也と別れてから、そんな話も聞けなくて寂しかった。それで今回が最後の入院だと思うと、和也に会いたくなって、思わず綾美にポロっともらしてしまったの」

「直接連絡してくれれば良かったのに」

「和也の連絡先はすべて消したの。残していると声を聞きたくなるから。綾美に聞けば教えてくれるだろうけど、綾美がどう思うかわからなかったから。あの子は今も和也のことが好きだと思う。そんな綾美に和也の連絡先を教えてとは頼めないし、ましてや私が会いたいと言っていると和也に連絡をとってもらうこともできない。だから綾美が和也に連絡してくれたらいいなと思って、あんな卑怯な手を使ったの」

綾美は七恵の意図はわかったはずだ。それで俺に連絡をしてくれたのだろうが、綾美はどんな気持ちだったのだろう。


仕事があるので、毎日見舞いに行くことは出来なかったが、それでも週に1回か2回は七恵に会いに行った。俺が見舞っているときに綾美が病室に顔を出すことはなかった。七恵はひたすら思い出話をした。一緒に旅行へ行った時の話、一緒にクリスマスを過ごした時の話、あの時は楽しかった、あの時もらったプレゼントは一生の宝物になった、そんな話を繰り返し、繰り返ししていた。俺はもっともっと思い出を作ってあげていれば良かったと思った。

七恵を見舞うようになって2か月くらいすると、見るからに七恵の体力が弱ってきているのがわかった。話す言葉もゆっくりになってきた。そんなとき、病院を出ようとする俺に綾美が声をかけてきた。この病院に来るようになって、綾美と会話を交わすのは初めてだった。

「これから予定あるの?」

綾美が聞いてきた。

「とくにないよ」

「私、今日は早上がりだから、もう少ししたら出られるから、一緒に帰らない?」

「いいよ。じゃあ、向かいのコンビニで待っている」

俺がコンビニで立ち読みをしていると、綾美が病院から出てきた。

バスで駅まで行き、近くの居酒屋に入った。

「七恵から色々聞いたよ。七恵のために色々骨折ってくれたらしいね」

「べつに大したことやってないわよ」

「七恵の入院を教えてくれて感謝している」

「七恵はどう?」

「だいぶん弱ってきているみたいだ」

「そうか。最後までついていてあげてね」

綾美が俺を呼び止めたのは、それを言いたかったのだろう。確かに、これからどんどん衰弱していく七恵の姿を見たくないという気持ちもある。でも、俺は最後までしっかりついていてあげるつもりだ。

「わかっている」


それから1カ月もしないうちに、七恵はとうとう力尽きた。

覚悟はしていたとはいえ、やはり辛かった。

葬儀には綾美と一緒に参列した。七恵のお母さんが俺に「和也さんのおかげで、あの子は最後に幸せな日々を過ごせたと思います」と言って、涙を流した。俺もつられてお母さんの手を握りながら泣いた。


七恵が亡くなって、1年ほどしたときに、俺は綾美に連絡した。

「どうしたの?和也から連絡くれるなんて珍しいね」

「七恵の一周忌行くだろ?」

「そのつもりだけど」

「ちょっと打ち合わせをしたいんだけど、会えないか?」

「一周忌の打ち合わせ?何を打ち合わせるの?」

「それは会ってから話す」

俺は日時と場所を指定した。


待ち合わせ場所の個室居酒屋に座るなり、綾美が聞いてきた。

「何を打ち合わせるの?」

「七恵から遺言を預かっている」

「遺言?」

七恵は、もう自分が長くないと思って、俺にお願いがあると言い出した。


「和也、私がいなくなったら、綾美とやり直してくれない?」

「綾美と?」

「もちろん、和也がどうしても嫌だというなら仕方ないけど、綾美は今も和也のことが好きだと思う。それなのに、綾美は私のために和也に連絡をとって会わせてくれた。和也がこの病院に通っている間、綾美はつらかったかもしれない。綾美のそんな気持ちを知りながら、私は綾美の好意に甘えた。だって、私にはもう時間がなかったから。人生最後の我儘だから許してもらおうと思った。だから、私がいなくなったら、綾美には幸せになってほしいと思っている。綾美を幸せにできるのは和也だけだから」

俺はすぐには返事ができなかった。目の前に七恵がいるのに、七恵がいなくなった後のことなんか考えたくない。

「和也、本当は私が和也を幸せにしてあげたかった。でもそれはもう無理。綾美なら、和也を必ず幸せにしてくれる。素敵な家庭を築いてくれる。あの子のことは私が一番良く知っている。だから、考えておいて。そうね、私がいなくなって1年は、まだ私が焼きもち焼くかもしれないから、一周忌のときに、良い報告をして。私、今度こそ涙も見せずに笑顔で“よかったね”と言ってあげるから」


「七恵がそんなことを言っていたんだ」

「そう。それで、俺もこの1年考えて、綾美ともう一度やっていきたいと思えるようになった」

「それは、ナンバー1がいなくなったから、ナンバー2が繰り上がったということ?」

「そんなふうにとるなよ。俺は純粋に綾美とやり直したいと思っているのだから。確かに綾美と付き合っていた頃の俺は、心の中に七恵がいた。でもそれはちゃんとした別れができていなかったから忘れられなかったということもある。去年七恵を見送って、俺の中で区切りはできたと思っている。七恵から言われたからということもあるけど、七恵から言われなくても、やはり俺は自分の意思で綾美にそう言っていたと思う」

「私ね、七恵に言われて和也と付き合うようになって、幸せだった。この幸せを手放したくないと思った。今だから言うけど、早く七恵が逝ってくれないかなと思ったこともある。そうすれば和也の中から七恵は消えてくれると思ったから。嫌な女でしょ?」

綾美の気持ちがわかるような気がした。

「でもね、七恵は私が話す和也の話を、本当に嬉しそうに聞くの。今和也と付き合っているのは私だよ?寝床で和也と裸で抱き合っているんだよ?そんな私からの話を、どうしてそんなに嬉しそうに聞くの?そう思ったら、敵わないなと思った。それからは、一所懸命和也の話をしてあげるようになった」

「七恵はそれが本当に楽しみになっていたと言っていた」

「一旦病状が良くなったとき、このまま元の生活に戻って、和也とやり直せたらいいのになと、真剣に思った」

「それで俺に別れようと言ったのか?」

「それもあるけど、私も自分が可愛いから、和也が本当に私と結婚する気があるとわかったら別れなかったと思う。でも和也は結婚は考えていないと言った。だったら、お二人さんでうまくやりなよって感じで別れ話をしたの」

「でも七恵の病状は良くならなかった」

「もう良くなって、とっくに和也とよりを戻していると思っていたのに、また入院してきてびっくりした。でもその時はもう和也と別れていたから、和也の近況を私も知らない。和也とは別れたと言ったら、七恵、本当に寂しそうな顔をしていた。最後の入院の時、あまりにも寂しそうだったから、和也に会わせてあげたいなとずっと思っていた。でも私から和也に連絡とって来てもらおうかとは言えなかった。何だろう、ちっぽけなプライドなのかな。すると、ポツリと和也に会いたいって。それで和也に連絡したの」

「本当に感謝している。それは七恵も同じで、綾美には感謝しかないと言っていた」

「それで、一周忌にどう報告するの?」

「だから、俺たちはよりを戻しましたって報告しようと思っているのだけど」

「そんなの嫌だ」

「え?嫌なの?」

「報告するなら、私たち、結婚することになりましたって報告したい。それでなければ私は和也とは一緒に行かない」

そうか、よりを戻すだけでは前と一緒か。

「綾美、俺と結婚してください」

ジッと俺を見つめていた綾美の目から涙がポロリとこぼれた。

「よろこんで、お受けします」

俺たちの報告を七恵は笑顔で「よかったね」と言ってくれるだろうか。

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