君がそう望んだから、僕はその手を離した

焼き付いて消えないその記憶、雨が降ると脳裏に蘇るソレは今でも僕の心を縛っていた。


数年前の雨が多い時期、僕たちはいつも通りに生活していた。

水を汲み、山で狩り、草木を漁り自由に生きていた。

現代社会から離れ野山に籠ることを選んだ僕をもう一人が連れ添った形だ。

原因はなんだったのだろうか、人間関係の疲れ、仕事の苦しみ、打ち込めない趣味、そのどれもが僕を蝕んでいたように思える。

今となってはきっかけなど思い出せないほど理由は多かったのだろう。

そんな僕をずっと見ていたと君は言っていたけど、僕はそんなことにも気づいていなかった。

君はいつも微笑んで僕に、


「君が生きてるだけで私は幸せだから」


と言い、抱きしめてくれていた。

僕はそんな君に甘え切ってしまっていた。

だから、きっとあんなことになったのだと未だにずっと悔やんでいる。


当時僕がずっと気にしていたことがある。

君はきっと気づいていながらも僕が言い出すのを待ってくれていたのだろうと思うのだが、自信はない。

少なくともそのころの記憶は少しあやふやで、君が笑ってくれていたことしか僕は覚えていないのだから。

ただ日々を過ごす中でその恐れにも似た感情はどんどん大きくなり、いつしか僕は君に恐怖すら覚えるようになってしまっていた。

そんな過ごし方をしていたからだろうか、糸が切れるかのようにその時は唐突に訪れた。

火を起こし夕飯を二人で食べているとき、僕は思わず口を開いてしまっていた。


「なんで、君は僕についてきたんだい?」


ずっと抑えていた言葉、聞いてしまえば後戻りは出来ない言葉、僕を縛る疑問という鎖は鍵も開かず雁字搦めになってしまっていた言葉。

少し目を見開いた君は驚いていたのだろうか。

その後逡巡したあと口を開いた時の顔を、僕は思い出せない。


「お前が行くって言ったからさ。なんて言えればかっこいいんだけれどね。」


そう答えながら俯き頬を掻く君から思わず顔を背けてしまった。

想像していたどの反応とも違った動揺?それとも疑ってしまったことへの罪悪感?

僕が必死に頭を回している中君は言葉を紡いでいた。


「私は、前にも言ったように君が生きているだけで幸せなんだ。でも、あの日君は消えてしまいそうだった。だから、君の手を─」


最後まで聞かずに僕は家を飛び出していた。耐えられなかった。

自分はそんなに想われる人間ではない。そんな言葉を浴びせないでくれ。

君を疑うような人間なんだ。君を信じられない人間なんだ。自分すら信じられないんだ。

ひたすら森を走り、崖に出る。


「君の望み一つすら叶えられない僕にどうしろってんだよ!」


考える前に叫んでいた。

全力で走り、全力で叫んだ。心臓は割れ鐘のように鳴り響き、体中に震えが止まらない。

怒りなのか、それとも感情を迸らせた後遺症とでもいうのか。

体の中で何か違う生き物が暴れまわっているかのような感覚に襲われていると、後ろから手を握られ振り向かされた。

振り返った時に見た君の顔は、雨に濡れ、怒っているかのように額にしわが寄っていた。


「私の願いは君が生きているだけで叶ってる。そんなこと言わないで。」


やめてくれ、そう叫び君を振り払おうとすると雨でもろくなっていた地盤はいともたやすく崩れ落ちた。

僕が勝手なことをしたからなのに、なぜ君が落ちたのだろうか、なぜ僕は君の手をつかんだのだろうか。

何もわからない、わからないが体は動いていた。

君は焦りもせず僕の顔を真っすぐ見つめていたね。

君が崖下を見た後、子供をあやすような顔をしていたことだけはよく覚えている。


「ねえ、このままだと二人とも落ちちゃうよ。この手を離して?お願い。」


その言葉を聞くと同時に僕の中から何かが溢れ出すのを感じていた。

さっきまでとはまた違うような、背筋が冷えるのが止まらない、胸の中は熱く燃えている、目の前が見えなくなる。

雨が僕の瞳を伝い零れ落ちた嘆きが君の頬を流れたとき、君は改めて微笑んだ。


「君が私を大事にしてくれたのはその顔だけで伝わるよ。ありがとう。」


そういった君は顔を横に振り、雨を払い僕の顔をじっと見る。

真剣な顔に戻っていたその瞳は、僕の眼を撃ち貫くには充分な力を秘めていた。


「最後に私の願いをかなえてよ。この手を離して、君は生きて。ずっとずっと生きて。私のために、ね?」


そう僕に伝えた瞬間から君の重さが何倍にも増したように感じた。

きっと全身の力を抜いたのだろう、ずっと僕の顔を見つめるその吸い込まれそうなほど美しい瞳から、僕は逃げ出した。

僕と君の手が離れた瞬間、君の満面の笑みを初めて見た気がする。

そっと開いた君の口から漏れ出た言葉は僕の耳を中でずっと鳴り響いているんだ。


「これで、永遠だね。」


あの後僕は街に戻り、普通の生活に戻った。

山にいると君がどこかで僕をあの瞳で見てる気がして。

最後の時の言葉の意味を僕は本当に理解できているのかはわからない。

だけど、僕は君の望み通り生きている、ずっとずっと生きている。


君がそう望んだから、僕はその手を離した。


自分の中で響くその言い訳を噛み締めながら今日もまたあの日に還っていく。

あの日もきっと雨だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る