第9話 山道の滑り方と膝当て
夜明けの山道は、海の潮より乾いた匂いがした。ラティス港から断崖へ向かう坂は、踏み固められた雪の上に薄い粉雪が乗り、足裏が「ここだよ」と知らせてくるくせに、次の瞬間には裏切る。
先頭に出たバスが、息を吸って、吐いて、また吸って――そのたび白い筋を前へ引いた。走りたくて仕方ないのに、みんなの歩幅に合わせようとしているのが、背中の揺れで分かる。揺れすぎて、時々、肩の荷袋がずり落ちそうになる。
「ねえ、見てて」
ケレックが、いきなり言った。
彼は足元の雪をつま先で軽く削り、そこに小さな溝を作った。溝に踵を引っかけるようにして、体を少し横に向ける。
「こうするとね、滑らない。たぶん」
「たぶん、で試すな」
オーバメヤンが、巻尺を手袋の甲で叩いた。叩く音が固いのに、叩き方は妙に優しい。自分の道具が凍らないように、叩く位置を選んでいる。
ケレックは、わざとらしく胸を張って一歩踏み出した。
「ほら、滑ら――」
言い終える前に、足裏が薄い氷の板を掴んだ。掴んだまま、その板ごと前へ逃げた。彼の両腕が羽みたいにばたつき、腰が「ちょっと待って」と言う間もなく、体が斜めに落ちていく。
バスが、考えるより先に手を伸ばした。伸ばした手が空を掴み、掴みそこね、次の瞬間にケレックの外套の背中を引っ張った。
「うわっ!」
「うわっ、じゃない! 止まれ!」
バス自身も滑っていた。滑りながら、ケレックだけは引っ張り上げる。二人の足が同時に空回りし、雪面に新しい溝が二本、きれいに刻まれた。
ホルトンは手袋の内側で指を握り、喉の奥を一度だけ締めた。触れられない。触れたら、相手の温度が抜ける。だから、助ける手は別の形になる。
彼女は荷袋の口紐をほどき、端切れの布を引き抜いた。昨日、パパタステロープスから受け取った鈴の紐と一緒に、縫い直す予定の布切れを入れていたのだ。布は厚く、毛羽が短い。膝に当てても擦れにくい種類だった。
「座って」
ホルトンが言うと、ケレックは「痛くない、痛くない」と笑いながらも、その場に尻もちをついた。笑い方が先で、呼吸が後から追いつく。
バスは膝をさすりながら、勝ち誇ったように言った。
「引っぱりました! ほら、俺、役に立ちました!」
「役に立つ前に転ぶのを減らせ」
ハウイが、茶の包みを抱えたまま言った。声は小さいのに、言葉の刃だけはよく研がれている。彼女は荷を下ろす場所を雪面の固いところへ選び、帳面を濡らさないように布で包み直した。
オーバメヤンがしゃがみ込み、ケレックの膝の辺りを覗いた。
「裂けてない。擦過傷だけだ。……擦過傷でも、繰り返すと歩幅が乱れる」
言いながら、彼は手袋の温度計の小さな針を確かめた。針が震え、止まり、また震える。寒さが、規則を乱しているみたいだった。
ホルトンは膝の位置を見て、布を二枚に折り、糸を通す。雪の上で針を落とせば、見つからない。だから彼女は針山を外套の内側に縫い留め、針の出入りを自分の胸の近くで完結させた。距離が要るときほど、手元は近く。
「膝当て?」
ケレックが目を丸くした。
「転び方を見たら、必要だと思った」
ホルトンは縫い目を揃えながら言った。「膝が擦れると、次にまた怖くなる。怖いまま歩くと、歩幅が乱れる」
オーバメヤンが、ふっと鼻で笑った。笑ったのに、すぐ硬い声が続く。
「左右は同じ形にしろ」
「片方しか擦ってない」
「片方だけ守ると、次は反対が出る。規則として不公平だ」
「膝に規則を当てはめるの、やめて」
ハウイが淡々と言うと、オーバメヤンは反論せず、巻尺を引き出した。言い返す代わりに測る。そういう人だ。
ホルトンは縫い上げた片方をケレックの膝に当て、紐を回す。触れないように、紐の先を木のへらで押さえ、結び目を作る。結び目は三回。ほどけにくく、けれど締めすぎない。
「……あ、これ、いい」
ケレックが膝を曲げ伸ばしし、顔をしかめる代わりに笑った。「膝が、ちゃんと膝に戻った感じがする」
「膝は最初から膝だ」
オーバメヤンが言い、しかしその口元は少しだけ緩んでいた。
バスが、突然、自分の膝を差し出した。
「俺も! 俺も、さっき転びました!」
「転んでない」
ケレックが即座に突っ込んだ。
「転びかけた!」
「転びかけを膝当てに換算しない」
ハウイが言い、茶の包みを開いた。湯はまだ熱い。彼女は紙コップ代わりの木の器を並べ、順番に渡す。危ない役目は嫌だと言うのに、手順だけは誰より先に整う。
湯気が上がると、ホルトンの指先の冷えが少しだけ引いた。手袋の内側の皮が柔らかくなり、針の感触が戻ってくる。彼女はもう一枚の布を折った。
「左右、同じにする」
「ほら」
オーバメヤンが、満足そうに頷いた。満足した瞬間だけ、彼は気が緩む。気が緩んで、雪の上の小石に足を取られた。
「――っ」
声を出す前に、彼は自分の体を立て直した。倒れない。倒れないが、巻尺だけが手から滑って、すーっと雪面を走っていった。
バスが駆け出した。駆け出して、三歩で止まった。
「走るな、って言われたんだ……!」
自分で自分に叱られた顔で、彼は歩いて巻尺を拾いに行く。拾いながら、膝をさすり、また反省する。その反省が、次の瞬間には風で飛ぶ。
マレクサンドルは後ろから全員を見ていた。言葉は少ない。けれど、雪の上の足跡が乱れた場所へ、先に立って雪を均し、滑りやすい部分を靴で削っていた。怒鳴るかわりに、道を整える。
ホルトンはその背中へ礼を言いたくなり、喉まで言葉が上がった。けれど、近づく一歩が出ない。だから、針先でできる礼を選ぶ。
彼女はマレクサンドルの外套の裾のほつれを見つけ、休憩の間に一針だけ留めた。留めたことは言わない。縫い目は目立たない方が長持ちする。
膝当てが二つ完成すると、ケレックは立ち上がり、わざとらしくまた同じ歩き方を試した。
「今度は滑らない。たぶん――」
「たぶん、を二回言うな」
オーバメヤンが言った瞬間、ケレックはぴたりと止まった。止まって、足元を見て、肩をすくめる。
「じゃあ、確実に滑らない歩き方をする。普通に」
その言い直しが、妙に潔くて、ホルトンは手袋の内側で小さく笑った。笑った瞬間、胸の辺りが少しだけ軽くなる。釜の事故の熱の代わりに、誰かの間抜けな一歩が、体の中を温めることがある。
歩き出すと、膝当ての布がすれる音がした。小さな鈴も鳴る。パパタステロープスの紐が、歩幅を整える拍子になっている。
「鈴、いいですね」
バスが言った。「迷子よけっていうより、転びよけだ」
「転びよけは、膝当て」
ハウイが言い、帳面に何かを書いた。書いている内容を誰も聞かない。聞くと、たぶん休憩回数が増える。
坂を上がるほど、港の匂いが遠のく。代わりに、断崖の向こうから、甘い匂いがかすかに漂った。うれた果実の蜜を乾かした粉の匂いだ。鼻の奥で、昔の大切な日々が一瞬だけ蘇ると言われる匂い。
ホルトンはその匂いを吸い込み、手袋の指を開いた。触れなくても、隣に立てる。そういう布を縫ってきた。けれど今は、誰かの膝のために縫った布が、同じくらい大事に思える。
「昼までに、断崖の手前の小屋へ着く」
ケレックが振り返って言った。声は軽いが、足取りは慎重だ。さっきの滑りが、ちゃんと身体に残っている。
オーバメヤンは頷き、巻尺を懐へ戻した。「休憩は規則として――」
「その規則、帳面にある」
ハウイが先回りして言い、茶の包みを揺らした。
バスは「はい!」と返事して、また先頭へ行きかけ、すぐ戻って列に並び直した。
ホルトンは最後尾寄りで、針箱の位置を確かめた。雪の白さの中で、縫い目の黒が細く光る。町の冬の灯りを守るために、今日の縫い目は膝にある。
彼女は顔を上げ、遠い空を見た。港の屋根の上と同じ空だ。雲の薄さまで、同じに見える。
触れられない温度のままでも、歩幅をそろえれば、誰かの隣に立てる――そう、針先が言っている気がした。
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冬花火と縫い目の仕立て屋ホルトン mynameis愛 @mynameisai
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