第8話 断崖の果樹園へ向かう荷支度
断崖へ続く道の暗さを覚えたまま、ホルトンは店に戻った。裏路地の戸を閉めると、潮の匂いの奥から、果実粉の甘い匂いが追いかけてくる。胸に抱えた縄は冷たく、結び目の硬さだけが手袋越しに残っていた。
針山を机に置き、ホルトンは息を吐いた。今夜のうちに眠ってしまえば、明日の朝、足が止まる。そう思うと、火種の足りない冬花火の空が、まだ見てもいないのに小さく感じた。
戸の外で、靴底が二度、雪を踏んだ。
「まだ起きてるか」
ケレックの声だった。返事をするより早く、奥の工房側から金属が擦れる音がした。オーバメヤンが勝手口を押し開け、採寸用の定規を片手に入ってくる。
「試験は終わった。次は搬送だ」
オーバメヤンは言い切り、机の上に薄い革の手袋を置いた。指先に小さな板が縫い込まれている。温度計の目盛りが、針ではなく糸で留められていた。
「また、妙な物を」
ホルトンが笑うと、オーバメヤンは眉を動かさずに言った。
「妙ではない。熱い物を持つ回数は十回。寒い物を握る回数も十回。明日は、荷を持つ。手袋が役に立つか、数える」
ホルトンはその手袋をはめ、縄を軽く握ってみた。指先の板が、冷えの逃げ道を塞いでくれる。嬉しい、の前に、少し怖いが来た。近づける距離が伸びるほど、近づきたい気持ちも伸びるからだ。
ケレックが机に肘をつき、縄の結び目を覗き込んだ。
「これ、港の結び方じゃないね。ほどく時の逃げがない」
「外す予定がないんでしょうね」
ホルトンが言うと、ケレックは唇を噛んでから笑った。
「じゃあ、外す予定を作りに行こう。断崖の果樹園へ」
店の中の空気が、針の先のように尖った。ホルトンは視線を落とし、手袋の縫い目を撫でた。果樹園へ行けば、火種の材料がどうして減ったのか、盗まれた荷がどこへ向かったのか、答えに近づけるかもしれない。けれど、道は長い。冬の風は、港より鋭い。
戸がもう一度鳴った。
帳面を抱えたハウイが、入口から半歩だけ顔を出した。彼女はいつも通り、危ない役目が嫌そうな顔をしているのに、背中の袋はもう膨らんでいた。
「……行くなら、茶葉は多めに。喉が乾く。あと、帳面。途中で忘れたら、帰ってきても数字が合わない」
「危ない役目は?」
ケレックが聞くと、ハウイは袋の紐を強く結び直した。
「嫌。でも、嫌だと言う人間が居ないと、みんな走って転ぶ」
その言葉に、店の外から「転ぶのは俺だけでいい!」と叫ぶ声が飛び込んだ。バスが窓の下で跳ね、雪を蹴っている。足先がもう道を向いているのに、まだ店に入らないあたり、誰かに止められた痕がある。
「入れ」
オーバメヤンが言うと、バスは素直に戸を開けた。素直すぎて、額を柱にぶつけた。
「痛っ……でも走れます! 今なら、断崖まで――」
「今は走るな」
短い声が、戸口から落ちた。
マレクサンドルだった。港の見張りの外套の肩には、雪が薄く乗っている。彼は店の中を一度見回し、縄の結び目で視線を止めた。言葉は少なかった。
「道、整える。夜明けに出るなら、見張りを一人つける」
「……ありがとう」
ホルトンは言いかけて、足を一歩だけ止めた。礼を言う時、普通なら手が出る。その癖が、手袋の内側で跳ねる。マレクサンドルはそれを見たのか見なかったのか、ただ頷いた。
準備の途中で、ケレックが棚の奥から布を一本引っぱり出した。練習用の襷だ。端は擦れて毛羽立っているのに、縫い目だけは妙に強い。
「果樹園へ行くなら、これも持っていこう。向こうの番人が、縫い目を見れば話を思い出すかもしれない」
ホルトンは襷を受け取る寸前、手袋の指を僅かに緩めた。縫い目の間に、淡い文字が浮いては消える。『今、守りたいもの』の形だけが、目の端に残った。彼女は何も言わず、襷を袋の上にそっと置き、針で端のほつれを一針だけ留めた。
オーバメヤンはその一針を見て、頷き、巻尺を引き出した。
「襷は肩から落ちる。幅を二分狭める。結び目は三回。ほどける結びは不要だ」
「ほどけないと困るの、あなたの腹巻きだけよ」
ハウイが茶の包みを並べたまま言うと、オーバメヤンは否定せず、腹の辺りを一度叩いた。ケレックが笑い、バスが笑いに釣られてまた柱に頭を当てた。
ホルトンは縄の結び目を紙に写し取り、写した紙を二重に折って内ポケットへ縫い付けた。外から見えない場所に針を入れると、心臓の鼓動が少しだけ落ち着く。隠したいのは証拠ではなく、近づきたい衝動の方だと気づき、彼女は自分で自分に苦笑した。
その夜、全員が一度解散したあと、ホルトンは屋根へ上がった。瓦は氷で白く、足音を立てると港の眠りを起こしそうで、彼女は靴底をそっと置いた。遠くの海は黒く、空はまだ星を隠している。冬花火の練習だろうか、どこかで小さな音が一つだけ弾けた。
ホルトンは手袋の指を握り、息を吐いた。明日、断崖の風にさらされても、針が折れないように。誰かの肩が落ち込む前に、縫い目で支えられるように。
夜明けまでの時間は短い。ホルトンは針と糸、革の端切れ、縄の結び目の写しを取るための紙を袋に詰めた。ケレックは地図代わりに市場の紙袋を広げ、断崖への道を指でなぞる。オーバメヤンは袋の口を縫う糸の太さまで決め、バスは決めた回数だけ深呼吸をして落ち着こうとしている。ハウイは茶の包みを数え、数え間違えたふりをして、みんなの顔を見た。
翌朝、港の灯りがまだ眠っているころ、裏路地に一列の影が伸びた。雪は固く、足音がきゅっと鳴る。ホルトンは店の鍵を掛け、手袋の上から胸を押さえた。ここを離れるのは、仕事を止めることでもある。けれど、町の冬を明るくする火が減れば、依頼も笑いも減ってしまう。
市場の角に、先に声があった。
「おーい! 行くのかい!」
パパタステロープスが両腕を大きく広げ、道の真ん中に立っていた。息が白く、声はそれより白い。彼女の腕は、抱きしめる形を作ったまま止まらない。
「止まれ!」
ケレックが叫び、バスが反射で前に出た。オーバメヤンは巻尺を伸ばし、距離を測るように腕の前へ垂らす。ハウイは無言で茶の包みを盾にした。マレクサンドルだけが半歩、前へ出て、空気を落ち着かせるように手を上げた。
パパタステロープスは、止められたまま笑った。
「わかったわかった、抱きつかない! その代わり、これ!」
彼女は自分の手袋を外し、細い紐を差し出した。紐の先には、小さな鈴が縫い付けられている。歩くたびに鳴る、迷子よけの音だ。
ホルトンは受け取る前に、手袋の指を握った。触れなくても、受け取れる。けれど、近づきすぎると、相手が身構える。彼女は一歩だけ離れたまま、両手で紐を掲げた。
「……帰ったら、縫い直します。あなたの鈴が、落ちないように」
「帰るって言ったね! よし!」
パパタステロープスは満足そうに頷き、今度は自分の胸を両手で叩いた。
断崖へ向かう道は、港の潮の匂いが薄くなるほど、甘い匂いが遠くなった。だからこそ、ホルトンは胸に抱えた縄を確かめた。結び目が、どこかへ向かう印だとしたら、印の先にあるのは盗みの手口だけではない。町の冬の灯りの行方だ。
「行こう」
ケレックが言い、バスが先頭に出かけて、すぐに戻って並び直した。オーバメヤンが頷き、ハウイが袋の紐を締め直し、マレクサンドルが後ろへ回る。ホルトンは手袋の中で指を開き、針を一本だけ確かめた。
夜明けの空はまだ薄い。けれど、同じ空の下で、誰かが笑える冬にするために――その歩幅を、今日から縫い直す。
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