第7話 消えた果実、残った結び目

 港の広場の灯りが一つずつ点き始めるころ、練習用の襷は布袋へ戻され、ケレックの手拍子も短く終わった。吐く息が白く伸び、潮風が指の隙間へ刺さる。


 「今日はここまで……って言いたいところだけど、言えない」


 ケレックが額の汗を袖で拭いた。冬なのに、走っているうちに体の芯が熱くなったらしい。熱が冷える前に、広場の端から駆けてくる足音があった。


 バスだった。速達の鞄を背負ったまま、肩で息をしている。いつものように迷う前に走ってきたのだろう。膝をさすりながら、口だけが先に動いた。


 「断崖への道で、荷が減った。……火種の袋、数が合わねえ」


 冬花火の火種になる「うれた果実」の粉。足りないと聞いたばかりなのに、さらに減ったという。


 パパタステロープスが市場の方から顔を出し、「ええっ!? 甘い匂いの袋が!?」と大声を上げた。叫ぶたびに抱きつきそうな勢いが乗り、周りが反射で腕を伸ばして止める。


 「抱きつくのは、袋が戻ってから!」


 「袋が戻ったら抱きついていいの!?」


 「今のはそういう許可じゃない!」


 広場が一瞬だけ笑いに揺れたが、すぐに冷たい空気が戻った。笑いが消えると、減った袋の重さが目に見えるみたいだった。


 「足跡は?」


 ケレックが問い、バスは顎で断崖の方向を示した。


 「俺が追う。夜のうちなら、雪が残ってる。明日になりゃ人の足で消える」


 言い終わる前に、バスは走り出しかけた。けれど、ホルトンがひらりと片手を上げて止めた。手袋の甲、縫い付けた小さな温度計の針が震える。


 「待って。結び目も見る。足だけじゃ、見逃す」


 彼女は自分でも驚くほど短く言った。言葉が先に出るときは、針を持ちたいときだ。針の代わりに、今は目と耳を使う。


 オーバメヤンが「道具」と呟いて、腰の袋から小さな定規を出した。どこへ行くにも、測るものは持っているらしい。


 「定規はいらないでしょ」


 「必要だ。雪の上は嘘をつかない。嘘をつくのは人の目だ」


 硬い言い方のくせに、定規の角は布で丁寧に包まれていた。ホルトンはそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。温かいのに、指先は相変わらず遠い。


 夕方の空は鉛色で、断崖へ続く道の脇に積もった雪は、灯りのないところほど青く見えた。港から外れると、人の声も潮の匂いも薄くなる。代わりに、果実粉の甘い香りが、どこかで切れているように感じた。


 道の途中、荷車が止まった跡があった。車輪の溝が雪に深く残り、片側だけが少し沈んでいる。


 「重い袋を片方だけ抜いたな」


 バスがしゃがみ込み、溝の内側を指でなぞった。すぐに指を引っ込めて、鼻を鳴らす。


 「寒っ……。で、ここから足跡が二つ。靴底が違う」


 バスは迷わず進み、足跡の脇へ自分の足を置いて比べた。距離感が近すぎて、ホルトンは思わず「踏まないで」と言いそうになり、飲み込んだ。


 雪の上に、縄が落ちていた。荷車の荷を縛っていたものだろう。端が切れ、結び目だけが残っている。ホルトンは膝をつき、手袋の指で結び目の輪をそっと持ち上げた。直接触れないように、木のへらも使う。


 結び目は、引けば引くほど締まる形になっていた。けれど、締める方向が少し違う。縄の撚りが右へ寄り、結び目の尾が右に落ちている。


 「右利き。力を入れるとき、手首を内側に返す癖がある」


 ホルトンは独り言みたいに言った。自分の店で、袖口の擦れ方から利き手を当てるのは日常だ。縄の結び目も、袖口と同じだ。繰り返す動きは、布にも縄にも残る。


 オーバメヤンが定規で結び目の輪を測り、眉を寄せた。


 「この結び方、港の係留索に近い」


 「果樹園の人は、違うの?」


 ケレックが尋ねると、ホルトンは首を振った。


 「果樹園の縄は、ほどきやすい結び方が多い。木に巻きつけて、毎日外すから。これは、外さない結び方」


 外さない結び方。言葉にすると、胸が少し重くなる。盗むつもりで結んだ、ということだ。


 その先で、声がぶつかり合っていた。道を塞ぐように町人が集まり、誰かが誰かの胸ぐらを掴みかけている。怒鳴り声に混ざって「果樹園のやつらが」「港の商人が」という言葉が飛んだ。


 ホルトンは一歩踏み出し、すぐに止まった。誰かの腕が振り上がると、体が勝手に距離を取ろうとする。近づけば止められるのに、近づくと、指先が誰かを冷やすかもしれない。


 そのとき、笛の短い音が二度、乾いた空気を裂いた。


 マレクサンドルが現れた。厚い外套の襟を立て、腰の灯りを揺らしながら歩いてくる。肩の雪を払う仕草が、落ち着いているのに速い。


 「見張りを増やす。港の倉と、断崖の道に灯りを二つずつ。走り手は一人で動くな」


 言い切ると、彼は部下へ目だけで合図し、数人が散った。足音が雪を踏むたび、怒鳴り声が少しずつ薄くなる。


 マレクサンドルは、ぶつかり合いかけた二人の間に、身体を滑り込ませるように立った。手は上げない。けれど、そこに立つだけで、空気が止まる。


 「今、責める相手が違う」


 言葉は大きくないのに、届いた。怒鳴り合っていた町人の喉が、揃って詰まったように静かになる。


 「粉を持ち去った手がいる。そいつの足が止まっていないうちに、道を開けろ。殴り合いをしても袋は戻らない。戻るのは、怪我だけだ」


 誰かが「でも――」と言いかけたが、マレクサンドルはその言葉の前に視線を置いた。視線が「黙れ」ではなく、「聞け」と言っているようで、口が閉じた。


 人の輪がほどけ、道の真ん中が空く。ホルトンは胸の息をゆっくり吐き、バスの背に手を添えそうになって、添えなかった。


 バスは既に走る構えになっていた。走りたいのに、命令どおり一人で動かないよう、足先だけが小刻みに揺れている。


 「二人で行け。戻る道は、灯りのところを選べ」


 マレクサンドルが言い、バスは悔しそうに頷いた。悔しいのに守る。そういう頷きだ。


 ホルトンは、マレクサンドルへ礼を言いたかった。言葉だけなら言える。けれど、礼を言うとき、身体が一歩近づく癖がある。距離を詰めた瞬間、相手の袖に触れてしまったら――。


 彼女は手袋の指を握りしめ、縫い目の感触で自分を止めた。


 「……さっきの言葉で、道が開きました」


 声は、広場で「受け取ります」と言ったときより低かった。マレクサンドルは振り返り、ホルトンと彼女の手袋を見た。見て、何も言わずに一歩だけ近づきかけ、すぐに止まった。彼の足も、距離を測ったのだろう。


 「礼はいらない。袋が戻れば、それでいい」


 ぶっきらぼうに聞こえるのに、言い終わりの息が柔らかかった。


 ホルトンはうなずき、目線を彼の袖口へ落とした。外套の端が少し裂け、糸がほどけかけている。今なら、礼の代わりに針が持てる。触れずに、助ける形がある。


 「裂けてます。糸、一本だけ、通してもいいですか」


 マレクサンドルは一瞬眉を動かし、袖を少しだけ差し出した。距離を保てる長さで。ホルトンは針を取り出し、布を押さえるのに指ではなく、へらを使った。針先が布を抜ける音が、小さく鳴る。縫い終わると、糸端を短く切った。


 「……助かる」


 その二文字が、冬の空気より温かかった。


 そこへ、バスが戻ってきた。息を切らし、雪を蹴り上げ、けれど足は止めない。止めると悔しさが先に出るのだろう。


 「足跡、倉の裏へ向かった。途中で石畳に変わって、そこで消えた。……誰かが、履き替えたか、抱えて運んだか」


 「抱えて、か」


 オーバメヤンが定規を畳み、眉間に深い線を作った。抱えるとなると、力がある。縄の結び目を締める手首の癖も、力の方向も、町の中にいる誰かのものだ。


 ホルトンは結び目の残った縄を拾い、端を布で包んだ。布の包みは、針で留める。ほどけないように。証拠が泣かないように。


 マレクサンドルが部下へ灯りの配置を指示しながら、こちらへ視線をよこした。


 「明朝、断崖へ荷を出す。今夜は道を見張る。……仕立て屋、結び目の話は、後で聞かせろ」


 「はい」


 ホルトンは返事をしながら、一歩だけ近づきたくなった。礼を言うために。縫った袖の糸端を指で押さえたくなるのと同じ衝動だ。


 けれど彼女の足は、そこで止まった。手袋の内側で指を握り、距離を縫い止める。


 背中を向けたマレクサンドルの外套の縫い目が、灯りに少しだけ光った。町が殴り合わずに済んだ、その縫い目のように。ホルトンは包んだ縄を胸に抱え、甘い匂いの切れ目を追う目を、暗い道の先へ向けた。


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