第6話 襷渡しの走りの段取り

 昼のラティス港の広場は、冬の太陽が石畳に斜めの線を落としていた。潮の匂いに混じって、干し魚と、樽に染みた酒と、炭の焦げがふわりと立つ。倉の影から出てくると、遠くで子どもが転び、笑い声が風にほどけた。


 「ここ、線から外れたら戻って。戻る距離が、粉になるからね」


 声の主は、広場の中央で白い粉のようなチョークを握っていた。ケレックは石畳に四角と矢印を描き、足先で軽くこすって太さを揃える。背中の荷紐を一度ほどき、また結び直す手つきが早い。


 ホルトンは手袋の上から指を曲げ、馴染み具合を確かめた。温度計つきの革が、冷たい風に鳴らず、静かに吸い付く。少し離れたところでオーバメヤンが帳面を開き、紙を押さえるために針山のような重りを置いていた。重りが実は針山であることを知る者は少ない。


 「線を引きすぎだ。きみの矢印は、港の税札より長い」


 オーバメヤンが言い、ケレックはチョークを振って笑い、すぐに短い矢印に描き直した。


 「長い方が分かりやすいと思って。去年、迷った人がいたから」


 「迷ったのはお前だろ」


 樽の影からバスが返す。声だけが先に出て、体は動かない。腕を組んだまま、目だけで広場の端と倉の入口と、海へ続く道を一巡させる。見張りの癖が、言葉の後ろに残っていた。


 「私は迷ってない。ちゃんと、戻ってきた」


 「戻ってきたのは、港の犬に引っ張られたからだ」


 ケレックは反論しかけ、広場の隅から飛んできた紙袋を片手で受けた。パパタステロープスが笑いながら放った袋だ。中身は温いパンで、袋の口がきっちり三回折られている。折り方だけが妙に几帳面だった。


 「食べてから走ると、横腹が笑うよ! でも、笑ってる間に渡せば落とさないよ!」


 パパタステロープスが両手で大きな丸を作り、広場にいる全員へ見えない旗を振った。旗はもちろん存在しない。存在しないのに、声だけで十分に旗だった。


 ケレックはパンを胸の前で止め、真顔に戻る。


 「冗談みたいに聞こえるけど、今年は本当に無駄が出せない。果実粉が少ない。冬花火の火が細いと、港の夜は早く沈む」


 ホルトンは頷きながらも、喉の奥がひりつくのを感じた。「細い火」と言われると、かつて釜の火で指先を焼いた瞬間の匂いが、頭のどこかで蘇る。手袋の内側で、指が勝手に握り込まれた。


 ケレックが差し出したのは、襷だった。布は厚く、雪に濡れても重くならないように蝋が薄く塗られている。端には小さな房があり、そこに小袋を結べる。


 「走るのは、火種じゃない。火種を守る段取りだ。襷は人と人を繋ぐけど、引っぱる道具じゃない。引っぱったら、結び目が泣く」


 言いながら、ケレックは襷の端をそっと撫でた。撫でたところだけ、蝋の光が鈍く変わる。ホルトンはその変化を見逃さず、布の折り返しの裏に、別の縫い目が潜んでいるのを見た。


 「受け取る人は、ここを持つ。渡す人は、ここを離す。手の位置が違うだけで、落ちる確率が半分になる」


 オーバメヤンが帳面に「半分」と書きかけ、すぐに線で消した。計算を口にすると、ケレックがまた矢印を伸ばすと分かっている。


 練習が始まった。広場の端からバスが走り出し、石畳の段差を避ける足音が乾く。ケレックが合図の手を上げ、ホルトンは所定の線の上で、肩を少し落として待った。手袋の内側が、いつもより熱く感じる。


 バスが近づく。襷が風を切る。受け取る瞬間、ホルトンの視界の端で、襷の縫い目が一度だけ浮いた。縫い糸の間から、文字の形が、雪解けの水のように滲んで――。


 『守りた…いもの』


 ホルトンの胸が、ひとつ跳ねた。言葉は最後まで見えないのに、途中で切れているのに、意味だけが先に入ってくる。手袋越しの指が、縫い目の盛り上がりを探り、見つからない。


 「受け取ったら、すぐ前を見る!」


 ケレックの声が飛ぶ。ホルトンは前を向き、同時に、左の手袋の口を親指で弾いた。革が一瞬ゆるむ。指先だけを外気に出すように、掌を襷の内側へ滑らせる。


 素肌が布に触れた途端、縫い糸の奥が温かく光った。文字が、今度ははっきり並ぶ。銀色の糸が、折り返しの中でひそやかに縫い込まれている。熱で色が変わり、言葉が浮かぶ仕掛けだ。受け取る瞬間だけ見え、すぐに隠れるように作られている。


 ホルトンはその一拍で、指先を戻し、手袋を締めた。誰かの目が、手袋の隙間を覗く前に。


 「今、外した?」


 パパタステロープスが、なぜかパン袋を抱えたまま耳を澄ませる。風の音と手袋の革の擦れを聞き分ける才能が、こんな形で役に立つとは思わなかった。


 「息が白くなるから、口を閉じただけ」


 パパタステロープスは納得しない顔で首を傾げ、パン袋を振った。袋の口が開きかけ、ケレックが反射的に指を伸ばして塞ぐ。


 「食べ物を散らしたら、今度は粉じゃなくてパンが消える。港の鳥が勝つ」


 「鳥に勝てるのは、私の声だけだよ!」


 パパタステロープスが胸を張り、息を吸って叫びそうになったので、ホルトンは襷を肩に回すふりをして距離を取った。叫び声の風圧で、縫い目が泣きそうだったからだ。


 ホルトンは答え、襷を肩に回して走り出した。嘘の味が舌に残る。けれど、嘘で守れる時間があるなら、今はそれでいい。走りながら、胸の中の言葉だけが、どこかで静かに燃えた。


 ケレックの指示どおり、次の線で減速し、渡す手の位置を変える。受け取る人はオーバメヤンだった。帳面を閉じると、彼は襷を受け取るためだけに両手を出した。普段、針や定規は離さないのに。


 受け取った瞬間、オーバメヤンの眉がわずかに動いた。見えたのか、見えないふりをしたのか。彼は何も言わず、襷を肩にかけ、走り出す。走り方はぎこちない。ぎこちないのに、線から外れない。石畳の段差だけを、きっちり避けていく。


 バスが唇を鳴らし、短く頷いた。評価の言葉は出ない。出ないけれど、頷きが出た。


 練習が何度か続き、パパタステロープスが「次は私も!」と飛び出し、全員に腕を掴まれて止められた。彼女の勢いで襷が伸びると、結び目が泣くというケレックの話が、冗談ではなくなるからだ。


 「私は、走れるよ。抱きつく速度なら誰にも負けないよ」


 「それが一番怖い」


 バスの返しに、広場の端で子どもが笑った。笑い声が、冬の空へ軽く跳ねる。ホルトンはその音を背に受け、手袋の指を一度だけ握り込んだ。


 誰にも気づかれないまま、襷の中に言葉があることを知ってしまった。誰かが、誰かへ渡す瞬間だけ見える言葉を縫い込んだ。守りたいものを、守れる手つきで。


 ホルトンは広場の外れに視線を流した。倉の影に、細い影が一つ立っている気がした。マテュイディの髪留めの金具が、冬の日差しで一瞬だけ光ったように見えた。見えたのに、次の瞬間にはもう、影は風と同じ顔をしていた。


 練習が終わりかけた頃、ケレックが襷を取り上げ、房の根元を指でつまんだ。


 「ここ、擦れてる。走るたびに糸が浮く。冬花火の当日にこれが切れたら、誰かが泣く」


 ホルトンは黙って頷き、広場の縁の木箱へ腰を下ろした。手袋の上から針を摘まみ、ポケットの糸を引き出す。オーバメヤンが無言で端切れを差し出した。さっき帳面を閉じるときに挟んでいた布だ。帳面に布を挟む理由は、たぶん誰にも分からない。


 ホルトンは端切れを小さく折り、擦れた箇所へ当てて、糸を三度だけ通した。縫い目を増やしすぎると、銀糸の隠れ場所が変わる。隠れ場所が変われば、言葉の出方も変わる。だから、三度で止める。


 「終わり?」


 ケレックが覗き込み、ホルトンは針を糸から外して掌に隠した。素肌は見せない。見せないまま、仕事はする。


 「これで、房が引っぱられても泣きません」


 言い終えると、パパタステロープスが「泣かない房! 私も欲しい!」と叫び、バスが両肩を掴んで地面へ戻した。笑いが広場にこぼれ、潮風がそれを遠くへ運ぶ。ホルトンは笑いの端っこだけを拾い、胸の内へしまった。


 次の練習の合図が鳴る。ホルトンは立ち上がり、襷を受け取る位置へ歩く。冬の広場で、守りたいものという言葉が、布の中で息をしているのを感じながら。



 「もう一回。今度は、受け取る側が声を出す」


 ケレックが手を叩く。ホルトンは小さく息を吸い、襷の房に結ばれた小袋の結び目を確かめた。結び目が泣かないように。言葉が泣かないように。自分の指が、誰かを遠ざけるためだけに動かないように。


 「受け取ります」


 声が、思ったより澄んで出た。冬の広場で、ホルトンの声が短く響き、すぐに潮風に混ざった。


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