第5話 温度計つき手袋の試験回数

 翌朝、裏路地の石畳は昨夜より硬く、雪が白い粉になって溝へ落ちていた。店の窓に薄い霜が張り、ガラス越しの光が、糸巻きの影を長く伸ばしている。


 ホルトンは戸を開け、まず火鉢の炭を小さく起こした。針山の横に置いた手袋は、昨夜の擦れた箇所が黒く光る。指を入れるたびに、そこだけが、少し遅れて鳴いた。


 鈴が一度、短く鳴った。


 扉を開けた男は、昨夜の騒がしさを連れてこない。肩から雪を払うでもなく、手に持った包みを机へ置く。布の包みは、きっちり四角に畳まれ、結び目が左右同じ形だった。


 「朝は二回だ」


 オーバメヤンは、ホルトンの顔ではなく、手袋の擦れた場所を見た。そこへ視線を止めたまま、包みを解く。出てきたのは、新しい手袋だった。革はまだ硬い。けれど指先だけ、妙に軽い。


 「何を縫い足したの」


 ホルトンが尋ねると、男は答えの代わりに、机の端を指で叩いた。そこには、昨夜は無かった細い線が何本も残っている。定規で引いた痕。寸法を変えた回数が、そのまま木に刻まれていた。


 「試験は十回」


 オーバメヤンはそう言い切り、手袋を差し出した。手袋の甲に、小さな透明の管が縫い付けられている。管の中に赤い液が入っていて、目盛りが刻まれていた。港の酒場で壁に掛かっていたものに似ている。けれど、これは縫い糸で留められている分、逃げ道がない。


 「持つ」


 ホルトンは、革の匂いを一息吸ってから、ゆっくり指を入れた。新しい革が関節に当たり、まだ馴染まない。甲の管は冷たく、針で留めた糸が指にわずかに触れた。


 「割れたら、どうするの」


 「割れないように縫う」


 答えが短すぎて、ホルトンは笑うより先に、湯を沸かす準備をした。試すなら、熱のあるものが必要だ。火鉢の上に小さな鉄瓶を置き、乾いた茶葉を壺から出す。茶葉は港の向こうの丘で採れたものだと聞いた。冬の朝に飲むと、胸の内側だけ温かくなる。


 湯が鳴き始めたころ、オーバメヤンは机の上に皿を並べた。皿は十枚ではない。五枚しかない。彼はその五枚に、炭で小さく数字を書いた。


 「五しか無い」


 ホルトンが言うと、男は炭を指で折って短くし、皿の裏側にも同じ数字を書いた。


 「ひっくり返す。五で足りる」


 「足りるの?」


 「足りる。十回は十回だ」


 湯気が立った。ホルトンは茶碗へ湯を注ぎ、香りが広がるのを待つ。甘くはない。けれど、果実の粉の匂いに似た、どこか懐かしい渋さがある。


 「一回目」


 オーバメヤンは、茶碗の横に砂時計を置いた。砂は細い。落ちる音は聞こえないのに、見ているだけで喉が乾く。


 ホルトンは手袋のまま茶碗を持った。熱が革を通ってくる。指先の中で、熱が広がる気配だけがする。けれど、掌の奥まで届かない。自分の体が、そこを通り道にしないことを、また確かめてしまう。


 「……赤が上がった」


 オーバメヤンが管の目盛りを読み、炭で紙に書きつける。ホルトンは茶碗を置き、すぐにオーバメヤンへ渡した。


 「持って」


 男は躊躇せず持った。湯気が彼の指へ絡む。ふっと眉が動く。熱いのは当たり前だ。けれど、ホルトンが怖いのは別のことだ。手袋の擦れから、何かが漏れて、相手の温かさが抜けること。


 オーバメヤンは、茶碗を持ったまま、もう片方の手で自分の手首に触れた。脈を数えるように、短く指を当ててから言った。


 「抜けてない」


 それだけで、ホルトンの肩の力が一段落ちた。ほっとして息を吐くと、湯気の中に白い息が混ざり、茶の香りが少しぼやける。


 「二回目」


 砂が落ちきる前に、男は言った。ホルトンは茶碗へまた湯を足した。温度が揃うように、と言われたからだ。揃うように、と思ったからだ。湯を足すたび、茶葉が濃くなっていくことに、二人とも気づかないふりをした。


 「三回目」


 「まだ飲める?」


 ホルトンが聞くと、オーバメヤンは茶碗の中を覗き込み、答えずにうなずいた。うなずきが浅い。浅い分、強い。


 「四回目」


 湯を足す。香りが濃くなる。茶碗の縁が熱い。ホルトンは手袋の指先で縁を掴み、持ち上げる。管の赤が動く。男が紙に線を引く。


 「五回目」


 皿をひっくり返す。数字が裏にもあるので、間違えようがない。男は数字を指でなぞり、皿を一度ひっくり返して確認してから、紙へ線を引いた。ホルトンも同じように頷き、湯を足した。


 「六回目」


 茶の色が、もう黒い。ホルトンは自分で淹れた茶を一口飲み、舌が驚いて目を瞬かせた。渋さが舌に張り付く。胸の内側だけ温かくなるはずが、喉の奥が乾いていく。


 「……濃くない?」


 「濃い」


 オーバメヤンが初めて、感想らしい言葉を出した。濃いと言ったのに、茶碗へ手を伸ばす。伸ばした指が、わずかに震える。寒さではない。渋さのせいだ。


 「七回目」


 ホルトンは湯を足す手を止めた。


 「これ以上足したら、茶じゃなくて罰になる」


 オーバメヤンは視線を上げ、初めてホルトンの目を見た。目が合うと、彼は口を開きかけて閉じた。口を開きかけて閉じ、手袋の甲の管へ視線を戻してから、短く言った。


 「罰でも十回」


 ホルトンは、笑ってはいけないと思った。笑えば、軽くなる。軽くなれば、昨夜の木札の傷も、マテュイディの一言も、薄くなる。薄くしたくない。けれど、茶碗の渋さが、口の端を勝手に持ち上げた。


 「じゃあ、湯じゃなくて、茶碗を替える」


 「五枚しか無い」


 「なら、洗う」


 ホルトンは立ち上がり、桶へ湯を張った。湯は少ない。少ないけれど、十回分の罰を、少しだけ薄められる気がした。茶碗を洗い、布で拭く。布が黒くなる。オーバメヤンがそれを見て、炭でまた線を引いた。


 「洗う回数も記録するの?」


 「必要だ」


 「必要なんだ……」


 「手袋が破れるのは、回数だ」


 その言い方は、責めていない。誰にも向けていない。ただ、机の線のように、残している。


 「八回目」


 茶葉を新しくした。香りが戻る。ホルトンは茶碗を持ち、管の赤を見た。赤は、上がる。上がるだけだ。下がるのは、相手の体温ではない。


 「九回目」


 オーバメヤンは茶碗を持ち、今度は自分の指先を唇へ当てた。熱さを確かめるみたいに、短く。


 「……抜けない」


 「十回目」


 最後は、ホルトンが茶碗を持ったまま、机の角に手袋の甲を軽く当てた。管が揺れた。赤い液が震える。その震えが、なぜか、自分の胸の奥の小さな火種に似て見えた。


 「どう?」


 ホルトンが聞くと、オーバメヤンは紙を一枚、静かに差し出した。そこには、目盛りの数字と線が並び、最後に小さく丸がついている。


 「合格」


 「……合格って、誰が決めるの」


 「俺」


 短い答えなのに、胸の奥の小さな固さがほどけた。ホルトンは笑いそうになり、堪えきれずに口元を押さえた。押さえた手袋の中で、指が少しだけ温かい。


 その温かさのせいで、腹の底がすっと軽くなった。


 「茶、まだある」


 オーバメヤンが言い、壺を指した。壺の中には、さっき取り出した茶葉より、もっと多い茶葉が残っている。ホルトンは鉄瓶を見た。湯もまだある。十回分の名目で、二人は、朝の分を超えて用意してしまっていた。


 「仕事が進まないね」


 ホルトンが言うと、オーバメヤンは、机の線を見たまま、短く鼻を鳴らした。笑いなのか、ため息なのか、区別がつかない。けれど次の瞬間、彼の肩が一度だけ揺れ、ホルトンの肩も釣られて揺れた。


 二人は同時に茶を飲み、同時に顔をしかめ、同時に腹を抱えた。


 渋さで涙が出るのに、涙の理由が違うふりをできない。ホルトンは笑いながら、手袋の甲の管を指で軽く叩いた。赤い液が、また震えた。


 「……これなら、倉の裏口へ行ける」


 自分の声が、小さく震えた。怖さではなく、朝の湯気のせいだと思うことにする。


 オーバメヤンは頷いた。頷いてから、結び目の左右を直し、手袋の縫い目を一度だけ確かめた。縫い目をなぞる指が、同じ場所を三度戻った。


 「行くなら、今度は二回でいい」


 「十回って言ったのに」


 「朝は二回だ」


 同じ言葉が戻ってきて、ホルトンはまた笑った。笑いながら、火鉢の炭をつつき、湯気の中で、新しい手袋の指を握りしめた。冷えが、相手へ流れない。流れないまま、町の冬を明るくするための針を、今日は刺せる。


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