第4話 倉の裏口で、短い一言

 夜のラティス港は、潮の匂いが黒く沈む。昼の市場が喋り疲れて眠りにつくと、石畳の隙間からは、昼間こぼれた果実の甘さだけが少し残っていた。ホルトンは裏路地を抜け、商家の倉の裏へ回る。掲示板の前で嗅いだ油と柑橘の匂いを、胸の奥で折りたたみながら。


 正面からは行かない。矢印三本の看板が目立ちすぎるし、パパタステロープスの声は、夜でも届く。見られたくないのではなく、見られた瞬間に相手が“縫い直す”からだ。糸の主は、逃げ道も縫い変える。


 倉の裏口は、木の扉が二枚。蝶番が錆び、開けると鳴く。だからホルトンは開けない。扉の脇の細い通路に身を寄せ、荷箱の影から、ぶら下がる木札だけを眺める。木札の表面に、爪で引っかいたような細い傷がある。新しい傷だ。運ぶ人間の手が、今夜もここに来た証拠。


 彼女が指先を近づけた、そのとき。


 「……その手袋、擦れてる」


 背後から、短い声が落ちた。ホルトンは息を吸うのをやめ、吐くのもやめ、やっと肩だけを動かした。振り向くより先に、距離を測る。足音がない。革靴ではない。布靴か、底の薄いもの。


 灯りの届かない場所に、女が立っていた。顔は半分、倉の明かりで縁だけが白い。腕を組まず、手をだらりと下げている。けれど、その指が、荷箱の角を軽く叩く。音が乾いていて、倉の空気に似ていた。


 「……こんばんは」


 ホルトンがそう言うと、女は返事を一語だけ返した。


 「仕事」


 それ以上は言わない。挨拶の隙を縫い潰され、ホルトンの喉の奥に、次の言葉が引っかかった。相手は言いよどみを見逃さない。針先が見えないのに、布だけが締まっていく。


 ホルトンは手袋の甲を見た。確かに、指の付け根が白く毛羽立っている。昼に荷札を撫でたとき、霜の角で擦った。直せる。直せるけれど、今、直す理由は別にある。


 「擦れてるなら、替える」


 女の口元が、ほんの少しだけ上がった。


 「替えない」


 また一語。命令でも忠告でもなく、断定。ホルトンは思わず手袋の中で指を握り、革を鳴らしてしまった。音が小さいのに、倉の裏では大きく響く。女の視線が、鳴った場所へ刺さる。


 「……買付人さん?」


 ホルトンが役割の名で呼ぶと、女は一歩だけ近づいた。月明かりが靴の先を照らし、白い粉が付いているのが見えた。果実粉。冬花火の火種の材料。掲示板の紙の端に付いていた粉と同じ色。


 「マテュイディ」


 名乗りも短い。ホルトンの胸の中で、その名が針山に刺さった。商家と繋がる買付人。市場の噂が、やっと形になる。


 倉の中で、布が擦れる音がした。誰かが袋を引きずっている。裏口の閂が、かすかに浮く。ホルトンは反射で壁に背を寄せ、マテュイディも同じ瞬間に荷箱の陰へ滑り込んだ。二人の動きが揃ってしまい、狭い影の中で肩が触れそうになる。


 ホルトンは、触れそうになった距離に気づき、すぐに半歩ずれた。手袋の革が、荷箱の木肌に当たって小さく鳴る。マテュイディはその音だけで位置を正確に掴んだように、視線を横へ流した。


 扉が開いた。中から出てきたのは、まだ背が伸びきっていない荷運びの少年だった。腕まくりした手首が赤い。指先は白く、粉がこびりついている。少年は袋を一つ、肩に担ぎ、もう一つを腹で抱えたまま、よろよろと通路に出た。


 「重っ……これ、粉じゃなくて石だろ……」


 愚痴がこぼれた瞬間、影の中のマテュイディが、短く言った。


 「喋るな」


 少年は肩をびくりと震わせ、声を飲み込んだ。喋りたい言葉が、そのまま咳になって出そうになるのを、彼は口元で押さえる。ホルトンは、その手の震えを見てしまった。寒さと粉で、皮膚が割れている。あの手で釘を抜けば、血が付く。


 少年が袋を運び直そうとして、足を滑らせた。石畳の霜が薄い膜になっている。袋が傾き、粉が漏れる。


 ホルトンは一歩出かけて止まった。触れれば、彼の体温が抜ける噂が町に広がりかけている。抜けるかどうかは、実際に触れた人間しか知らない。それでも、冬の夜にその賭けはできない。


 代わりに彼女は、腰の布紐をほどき、遠くから袋の口を引っかけるように縛った。指先ではなく、革の甲で。紐を引き、袋の重みを少しだけ分散させる。少年は戸惑いながらも、紐に従って袋を持ち直した。


 「……誰だ」


 少年が小声で言い、影を探す。マテュイディが答えるより早く、ホルトンは荷箱の角に置いてあった布切れを一枚つまみ、袋の裂け目に押し当てた。縫う針は今は出さない。見られたら、倉の中へ引きずり込まれる。だから、ただ“当て布”だけ。布切れは、昼に市場で余った端切れだ。パパタステロープスが「看板の矢印に使え」と無理やり押しつけてきたやつ。


 布が裂け目に吸い付くと、粉が止まった。少年は目を丸くした。


 「……助かった」


 礼を言いかけた口が、マテュイディの視線に縫い止められ、少年は首をすくめる。マテュイディは、少年の肩の袋の結び目を指でつまみ、ほどけない強さだけを確かめた。結び目の糸は、暗い藍色に一本だけ黄色が混じっている。ホルトンは、胸の奥で静かに頷いた。さっき荷札で見た糸と同じだ。


 少年は、通路の先を指した。闇の向こうに、潮の匂いが濃い。


 「……裏の桟橋へ? 今から?」


 マテュイディは答えない。代わりに、二語だけ落とした。


 「潮待ち」


 少年はそれで全て理解したように頷き、袋を抱え直して闇へ消えた。




 マテュイディは、倉の脇に積まれた袋を指で叩いた。ぽふ、と粉が舞い、甘い匂いが一瞬だけ膨らむ。


 「足りない」


 「冬花火の火種?」


 ホルトンが言うと、マテュイディは否定もしない。代わりに、袋の口を指先でつまみ、結び目の位置を変えずに押し戻した。縛り方が、きれいすぎる。乱暴に運ぶ手の縛りではない。見せるための縛りだ。


 「足りないなら、足す。外から」


 ホルトンの耳に、港の外、という言葉が刺さった。彼女は視線だけを木札へ戻す。触らない。見て、読む。木札の傷は、真っ直ぐではない。表面を削るように曲がっている。荷車の角が当たった傷ではなく、縄で擦った傷だ。引っ張り方向が、いつも同じ。倉から港へではない。倉から、裏口へ。裏口から、さらに先へ。


 「港の外へ出すなら、門の見張りが気づく」


 ホルトンが言うと、マテュイディは首を傾けた。頷きでも否定でもない、問いの形。


 「見張りは、正面を見る」


 言って、彼女は倉の影を指した。裏。小舟。潮の引く時間。夜の潮の匂いが、急に具体的になる。


 ホルトンは木札の端に、小さな欠けを見つけた。欠けの形が、楔の跡に似ている。木札は、釘で留められていたはずだ。わざわざ外し、また留め直している。荷の行き先を、途中で変えた証拠。


 「……木札を外した人は、釘を抜く道具を持ってる」


 独り言のように漏らすと、マテュイディが即座に返した。


 「それが何」


 逃げ道を塞ぐ一言。ホルトンは喉の奥で笑いそうになった。ここで怒鳴れば負ける。ここで黙れば縫い込まれる。だから、別の布を出す。


 「私が釘抜きを持ってたら、あなたは私を倉に入れる?」


 マテュイディの目が細くなる。笑っていないのに、怖さだけが増える。


 「入れる。手袋ごと」


 ホルトンは反射で一歩下がった。自分の足が、石畳に触れる音がする。マテュイディは、その音を聞いてから、一歩だけ詰めた。詰めるのも、追いすぎない。距離を保ったまま、逃げ道を絞る。


 ホルトンは、同じ分だけ下がった。指先の冷えが、手袋の内側で強くなる。触れたくない。触れられたくない。けれど、冬花火の火種は、触れないと守れない。


 そのとき、通りの向こうで、聞き覚えのある声が弾んだ。


 「えーい、夜でも矢印は三本! 迷うな、迷うと冷える!」


 パパタステロープスの声だ。誰かを引っ張っているらしく、別の足音が二つ、三つ、ばたばたと重なる。ホルトンは背中の筋が一瞬だけ緩み、マテュイディは眉ひとつ動かさずに、その騒がしさを受け流した。


 「仲間が多いね」


 マテュイディが言った。二語だが、針は深い。


 「多いほうが、寒さが減る」


 ホルトンはそう返した。言い切ると、革手袋の甲が少しだけ軽くなる気がした。触れられない温度でも、声なら渡せる。


 マテュイディは袋をもう一度叩き、粉の匂いを確かめるように鼻を動かした。


 「縫えるなら、縫いな。火種も。口も」


 最後の一言が、喉を締めた。ホルトンは笑わない。頷かない。代わりに、木札の傷の向きを目でなぞり、覚えた。港の外へ向く傷。潮が引く時間に合わせた引っ張り。小舟の行き先。釘を抜く道具。


 「……縫い直すのは、私のほう」


 ホルトンはそう言って、踵を返した。走らない。走れば見られる。歩けば残る。だから、影の濃い場所だけを選んで、裏路地へ戻る。手袋の擦れた場所が、石畳の冷たさを思い出すたびに、胸の奥で小さな火種が点る。


 冬花火を小さくしない。誰かの買い占めで、町の空を縮めさせない。ホルトンは、触れないまま守る方法を、今夜から縫い始める。


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