第3話 冬花火の火種が足りない

 夕方のラティス港は、潮の匂いに薪の煙が混じる。荷揚げ場の板は冬の湿りを吸い、足音が鈍く返る。ホルトンが店の裏口を閉め、屋根へ上がる梯子を肩に掛けたとき、港の掲示板のほうで人の輪がふくらんだ。


 「なんだ、あれ」


 パパタステロープスが、いつもの勢いで輪の外側を押し分けている。押し分けるというより、肩をぶつけないように両手を高く上げて、すり抜けているだけだ。彼女はホルトンを見つけると、声だけを先に飛ばした。


 「見た? 見た? 紙が二枚も増えてる!」


 掲示板の釘は、寒さで少し浮いていた。そこへ新しい紙が、雑に重ね貼りされている。上の紙には、大きな字でこうあった。


 「今年の冬花火は小さくなる」


 その下に、理由として短い文が続く。「断崖の果樹園、収穫不良。火種の粉、入荷減」。紙の端には、果実の粉を扱う組合の赤い印が押されていた。


 港の男たちが、肩をすくめたり、帽子を深く被り直したりしている。冬の作業が止まる時期、夜の火が小さくなると、息の置き場まで寒くなるのだ。


 「小さくなる、って、どのくらい?」


 パパタステロープスが、紙の端を指でつまみ、上に引っ張った。釘が鳴り、紙が少し破れた。


 「破らないで」


 ホルトンが言うと、パパタステロープスは慌てて両手を離し、破れた端を自分の息で温めるように、ふう、と吹いた。


 「だって、読めないんだもん。字が、寒そう」


 字が寒そう、という感想は、たぶん彼女にしか出ない。ホルトンは手袋の指先で紙を押さえ、破れた端を整えた。紙の繊維の向きが、冬の風でささくれている。縫えないものまで、縫いたくなる。


 そこへ、輪の外から、息の切れた声が割って入った。


 「ホルトン! ホルトン、いるか!」


 人の肩の間から、男が転げるように現れる。バスだ。頬に雪が貼りつき、首の布が片方だけほどけている。背中の荷紐が切れていて、片端を握ったまま走ってきたらしい。


 「山道で……荷が……消えた!」


 言い終える前に、バスは膝へ手をついた。吐く息が白く、長い。港の男が水を差し出し、パパタステロープスがその横で「飲んで、飲んで」とやたら早口に言う。バスは一口飲んでから、喉の奥で咳を二回して、続けた。


 「果樹園から下ろした荷だ。粉にする前の、うれた果実の蜜を煮詰めた塊。……いつもなら、縄で二つ、車に結んで運ぶ。今日は一つだけだった。途中の曲がり角で、車輪の音が軽くなって……振り向いたら、縄が空だった」


 港の輪が、さらに静かになった。誰かが怒鳴りそうになり、別の誰かが肩を押さえて止める。冬花火の火種が足りない、という紙の文字が、急に生々しくなる。


 「縄は?」


 ホルトンが訊いた。


 「切れてた。刃物で、すぱっと」


 バスは、切れた荷紐の端を差し出した。繊維が真っ直ぐで、乱れが少ない。ホルトンは受け取らない。手袋のままでも、温度が抜けることがある。代わりに、指先で空をなぞり、切り口の形だけを目で追った。


 「荷袋は、残ったの?」


 「一つだけ残った。こっちだ」


 バスが背負ってきた布袋を、どさりと掲示板の前へ下ろす。袋の口は固く縛られているが、底が少し擦れていた。山道の石だろう。


 ホルトンは膝をつき、袋の縫い目を見た。糸は、暗い藍色。港の店でよく使う白糸ではない。しかも、縫い目の間隔が一定で、端の返しが丁寧だ。誰かの手が、急いでいないときの縫い方。


 「匂い、嗅いでいい?」


 ホルトンが言うと、バスは「いい、いい」と頷いた。周りの男たちが「嗅いで分かるのか」と顔をしかめ、パパタステロープスだけが、期待の目で覗き込んだ。


 ホルトンは手袋の甲で袋に顔を近づけた。甘い匂いが来ると思った。果実粉の、思い出を引き出す甘さ。けれど、鼻先に触れたのは、別の匂いだった。


 油。乾いた木。ほんの少し、柑橘の皮。


 「……倉の匂い」


 自分の声が、思ったより低く出た。パパタステロープスが「倉って、魚の?」と首を傾げる。


 「魚じゃない。布を置くほう」


 ホルトンは縫い目の端を見つめ、糸の毛羽を探した。藍の糸に、細い黄色が一本だけ混じっている。染めむら。染める桶の癖。そんなものまで、糸は覚えている。


 「この糸、見たことがある」


 ホルトンが立ち上がると、膝の雪がぱらりと落ちた。港の輪が、彼女の次の言葉を待つ形になる。ホルトンは言い切らず、視線だけを港の奥へ滑らせた。板塀の向こう、荷を積む大きな倉が並ぶあたり。そこに、商家の倉がある。


 パパタステロープスが、なぜか腕を組んで真面目な顔を作り、掲示板の紙を指差した。


 「つまり、紙が言ってるのはこう。火が小さくなる、だから、みんなの肩が丸くなる。……それは嫌。だから、肩が丸くなる前に、袋の肩を丸めたやつを見つける」


 言い回しが妙に遠回りだが、最後だけは真っ直ぐだった。港の男が「上手いこと言うな」と笑いかけ、別の男が「いや、上手いか?」と首をひねる。笑いが一瞬だけ起き、すぐ消える。その短い笑いが、寒さの隙間に入って、少しだけ息を楽にした。


 ホルトンは袋の口をほどかず、縛り目を確かめた。結び方は、山道で使う結び。バスの手癖に近い。盗んだ者が縛り直した形ではない。盗んだのは、袋ごとではなく、運ぶ途中の荷のほうだ。


 「バス、山道の曲がり角、どこ?」


 「二つ目の坂を越えた先だ。切り株が三つ並んでる」


 ホルトンは頷いた。場所が絵になる。目を閉じれば、雪の上の轍が浮かぶ。そこへ、倉の匂いが混じるのは不自然だ。


 「私、倉の荷札を見てくる」


 言った瞬間、周囲の目が一斉にホルトンの手袋へ集まった。荷札は紙だ。触れれば温度が抜ける話は、町の噂になりかけている。けれど、ホルトンは手袋の指を一本ずつ曲げ、革の音で言葉の続きを縫った。


 「触らない。見るだけ。糸が同じなら、逃げ道も同じ」


 パパタステロープスが、すぐに片手を挙げた。


 「私は、板の釘を直す。紙が飛んだら、また読めなくなる。だから、釘を叩く。……ついでに、誰かが倉から出てきたら、すっごく大げさに道案内してあげる」


 「道案内?」


 「うん。『仕立て屋はこっち!』って。矢印は三本!」


 彼女が胸を張ると、さっきの看板の矢印が脳裏に浮かび、ホルトンは手袋の内側で息を噴きそうになった。笑ってはいけない場面ほど、笑いは針の先みたいに刺さる。


 ホルトンは梯子を肩から下ろし、代わりに袋の縫い目を指で二度叩いた。藍の糸が、冬の薄い光を吸って沈む。倉の荷札の糸も、きっと同じ沈み方をする。


 港の灯りが、一つずつ点く。屋根で空を見る約束は、今夜もそこにある。けれど、冬花火の火が小さくなると知った今、空を見上げるだけでは足りない。


 ホルトンは港の奥、倉の並ぶほうへ歩き出した。手袋の指先が、革の中で静かに熱を探している。


 倉の通りは、魚の樽とは違う匂いがした。木箱の乾き、油を引いた車輪の跡、紙を束ねたときの粉っぽさ。商家の倉の前では、荷役の若者が帳面を抱え、灯りの下で数を数えている。


 ホルトンは近づきすぎない位置で立ち止まり、積まれた木箱の端にぶら下がる荷札を見つけた。札は白い紙で、角が霜に濡れて丸い。結び目は固く、細い糸が二本、ぴたりと寄り添っている。暗い藍色。その中に、一本だけ黄色が混じっていた。


 彼女は手袋の指先で糸の上をそっと撫でた。革越しに、乾いた油の匂いと、柑橘の皮の匂いが立ち上がる。掲示板の前で嗅いだ「倉の匂い」だ。


 「……同じだ」


 声に出さず、唇だけで形を作る。遠くで、パパタステロープスが誰かに向かって大げさに叫ぶのが聞こえた。


 「仕立て屋はこっち! 矢印は三本!」


 その声が、寒い通りに少しだけ温度を落とす。ホルトンは荷札から目を離さず、結び目の癖を覚えた。夜になれば人の影が増える。ここで騒げば、糸の主は逃げ道を縫い変える。


 ホルトンは踵を返し、裏路地の暗さへ紛れた。手袋の内側で指を握ると、革が小さく鳴った。冬花火の火種を守るための一歩が、ようやく縫い目になった気がした。


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