第2話 注文が細かすぎる“相づち係”
昼の市場は、冬でも熱気があった。魚の樽が並び、蒸した芋の湯気が立ち、乾いた縄がきしむ音が、潮風に混じって耳へ入る。ラティス港の入口に近い広場では、雪が踏み固められて黒く光り、靴底がそこを鳴らしていく。
ホルトンは、手袋のまま籠を提げていた。糸と針と、契約札の紙を買い足すためだ。裏路地の店は、看板を掛けても通り過ぎられやすい。人の流れの前へ出て、目の高さで息をしておかないと、冬の町はすぐ自分を薄めてしまう。
「ホルトン! おーい、ホルトンだ!」
名前を呼ぶ声が、鐘みたいに跳ねた。振り向くと、果物籠を両腕に抱えた女が、雪を蹴って駆けてくる。赤い頬、肩までの毛皮襟、そして、抱きつく直前の速度。
「待って、待って、手袋! 手袋!」
ホルトンが両手を胸の前に上げるより早く、周囲の露店の老人が杖で地面を叩いた。
「パパタステロープス、また止められてるぞ!」
「うるさいわよ! 止められても、やる気は止まらないの!」
パパタステロープスは勢いのまま、抱きしめる代わりに、ホルトンの手袋へ自分の手袋を押し当てた。革越しに、熱がじわりと広がる。ホルトンの指先は反射で握り返しそうになり、すぐに力を抜いた。
「ねえねえ、今すぐお願い。『値切りに勝てる相づち』、作って」
「相づち……?」
「そう! あたしが『安くして』って言うでしょ。で、横でいい具合に『なるほどねぇ』とか『それは確かに』とか、言ってくれる人。相手が崩れるやつ!」
パパタステロープスは市場の顔役だ。人を笑わせて財布の紐を緩めるのは得意でも、自分の財布だけは、最後の一枚まで守りたいときがあるらしい。彼女は籠を足元へ置き、露店の一つを指さした。干し魚の山の奥で、店主が腕を組み、目だけで値札を守っている。
「今日のあの人、石みたいなの。何言っても、まばたきすらしない」
ホルトンは、店主を一度見てから、パパタステロープスの口元を見る。笑う形は上手いが、今は歯を見せていない。ほんの少し、焦っている。
「いつまでに?」
「今!」
即答に、ホルトンは息を吐いた。市場の中央にある公共の縫い台へ移動する。台の端は、誰かが魚を捌いた跡で黒く、布を置きたくない色をしていた。ホルトンは持参の敷布を広げ、そこへ糸巻きを並べた。
「相づちは、どのくらいの速さで?」
「速いほうが勝つでしょ?」
「速すぎると、相手が喋れない」
「じゃあ、ほどほどに。でも、負けないやつ」
ホルトンは口で返事をせず、針を動かし始めた。布は薄い灰色。人の輪郭を主張しない色を選ぶと、相づちだけが立つ。契約札は小さく切り、銀糸を一針。札の縁を指で撫でると、紙がわずかに温まる。触れない暮らしでも、紙は触れる。だからこそ、嘘の入り口になりやすい。
「声は、甘いのがいい? 渋いのがいい?」
「渋い! 渋いのがいい! ほら、説得力ある感じ!」
パパタステロープスは胸を張った。市場の誰かが「それは自分にないから欲しいって顔だな」と笑い、彼女が振り返って舌を出す。
ホルトンは、声の糸を選ぶように、糸巻きを指で転がした。冬花火の火種の粉が市場へ流れる時期は、甘い匂いが町に残る。その匂いに負けないよう、少しだけ苦い茶葉の香を布へ擦り込む。相づちは、相手の気持ちを受け止めるふりをする。ふりが上手すぎると、相手は逆に身構える。
それでも、今日は「勝てる」が注文だ。
縫い目に、小さな鈴を入れる。鈴は、頷くたびに鳴ると邪魔なので、鳴らない鈴だ。音ではなく、揺れで存在を示す。相づちが頷く角度は十五度、二十二度、三十度。三段階。パパタステロープスの視線の高さに合わせ、首の布を一針ずつ詰める。
「細かい……。それ、必要?」
「必要」
ホルトンの声は短い。必要と言い切ったあと、自分がどこまで作り込んでいるかに気づき、少しだけ頬が熱くなる。手袋の内側で指を握りしめ、針の進みを止めないことでごまかした。
十分ほどで、灰色の輪郭が立つ。人が一人、横に立っているように見える。触れようとすると、すり抜ける。だが、目線と頷きと、喉の奥から出る「なるほど」という声だけは、しっかりそこにある。
「できた。相づちは、完璧にする」
「最高!」
パパタステロープスは、今度こそ抱きつこうとして、また周囲の誰かに「止めろ!」と言われ、両腕を上げて笑った。
「よーし、行くわよ、相づち係!」
相づち係は、黙ってついてくる。パパタステロープスが干し魚の露店の前に立つと、店主は腕を組んだまま眉を上げた。客の後ろに、灰色の影が一人増えたからだ。
「ねえ、おじさん。これ、今日の分、ちょっと安くならない?」
「安くはならん」
石みたいな声だった。まばたきもしない。パパタステロープスはにこっと笑い、肩をすくめる。
「じゃあ、量を増やしてくれたら……」
「増やさん」
そのとき、相づち係が、ほんの少し前へ出た。頷きは二十二度。速度は、パパタステロープスが息を吸う間に一回。声は渋く、よく通る。
「なるほど。確かに、これは手間がかかっている」
店主の目が動いた。値札を守る目ではなく、品物の価値を測る目だ。相づち係はさらに頷き、今度は三十度。
「塩の具合も良い。冬の港で、これだけ乾きが均一なのは――」
「おい、褒めるな!」
パパタステロープスが小声で突っ込むより先に、店主が胸を張った。
「だろう。分かる者には分かる。なら、安くはならん。むしろ、いい客には、いい品を出す。こっちの山は一袋銀貨二枚だ」
「上がってる!」
パパタステロープスは笑ってしまった。笑いながら、財布を取り出す。悔しさより、面白さが勝つ顔だった。
「……あたし、負けた! でも、負け方が気持ちいい!」
店主は「そういう客は嫌いじゃない」と咳払いで言い、干し魚を余計に一尾、袋へ入れた。相づち係は、そこで頷きを止めた。完璧に褒めるのは、完璧に値を上げる。
パパタステロープスは袋を受け取り、ホルトンのほうを振り返った。ホルトンは少し離れた場所で様子を見ていた。手袋のまま、胸の前で指を組み、結果を受け止める準備をしていた。
「ごめん、ホルトン。目的、逆に行った」
「うん」
「うん、って!」
「注文どおり。『勝てる相づち』。相手が自分の言葉で勝った気になる。そういう相づちは、勝つ」
パパタステロープスは一拍置き、腹を抱えて笑った。市場の人たちもつられて笑い、店主まで口元だけ緩めた。冬の空気が少しだけ軽くなる。
笑いが落ち着いたところで、パパタステロープスは急に真面目な顔になった。干し魚の袋を抱え直し、ホルトンの隣に立つ。触れない距離を、ちゃんと守って。
「ねえ。あんたの店、迷うのよ」
「……そう」
「そう、じゃないわよ。裏路地って、勝手に人が薄くなる場所なんだから。目印がないと、いい仕事が埋もれるの。だからさ」
彼女は市場の端へ走り、空の木箱を二つ重ねた。そこへ布を張り、太い筆で大きく文字を書く。墨が凍らないよう、湯で溶いた蜜を少し混ぜる。甘い匂いが立ち、通りがかった子どもが鼻をひくつかせた。
「……仕立て屋 ホルトン 矢印こっち!」
字は勢いがあり、端が少しはみ出している。矢印は三本も付いている。迷うほうが難しい。
「これ、どこに置くの」
「市場の入口、裏路地の角、あと、あなたの店の前! 道筋を縫うのよ。布だけじゃなくてね!」
パパタステロープスは看板を肩に担ぎ、相づち係を連れて歩き出した。ホルトンもついていく。裏路地へ入ると、風が急に冷たくなる。石壁が影を作り、昼なのに薄暗い。
角に看板を立てた瞬間、通り過ぎかけた女性が足を止めた。袖口のほつれを押さえ、目が看板の矢印からホルトンの店へ移る。
「仕立て屋……ここ、あったのね」
ホルトンの喉が小さく鳴った。今まで、そこにあっても、ないみたいに扱われてきた。看板一枚で、町の視線が戻ってくる。
パパタステロープスは満足そうに頷き、最後にホルトンの前へ戻った。
「代金は、看板。あと、その相づち係、今日の午後だけ貸して。市場の石みたいな人たち、みんな笑わせたい」
「貸すのはいい。でも、相づちは褒めすぎないように」
「分かってる。褒めると値が上がる。今日は、褒めずに笑う」
パパタステロープスは両手を広げ、抱きしめる代わりに、ホルトンの手袋へ軽く拳を当てた。挨拶の形だ。ホルトンは同じように拳を返し、革越しの温かさを受け取った。
相づち係が、最後に一度だけ頷いた。十五度。ゆっくり。
その頷きが、誰かの胸の奥でほどけた結び目みたいに見えて、ホルトンは手袋の内側で指を握りしめた。
今夜、屋根で空を見る約束は、まだ破れていない。けれど、その前に、店へ来る道が、一本増えた。
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