冬花火と縫い目の仕立て屋ホルトン

mynameis愛

第1話 冬の初日、裏路地の仕立て屋

 ラティス港の冬は、潮の匂いより先に、指先の痛みが来る。港の荷車がきしむ音が裏路地まで転がり、古い石畳の溝に昨夜の雪が薄く残っていた。


 ホルトンは店の扉を少しだけ開け、風の向きを確かめてから、看板を掛け直した。木の札に縫いつけた布切れが、ぴらりと揺れる。針と糸の匂いに混じって、どこかで煮詰めた果実の甘い香りがした。冬花火の火種になる「うれた果実」の粉は、港の冬の合図みたいに、毎年この時期に町へ流れてくる。


 手袋の内側で、彼女は指を握りしめた。革がわずかに鳴る。その音だけで、昔の釜の熱が掌に戻りそうになる。けれど戻らない。戻らないものほど、きちんと仕舞っておく癖がついた。


 店の中は狭い。天井の梁に布が吊られ、窓辺に糸巻きが並び、台の上に契約札用の紙束が積んである。契約札は紙なのに、触るときだけ慎重になる。紙は嘘をつきやすいからだ。


 朝の客は、重い足音でやって来た。扉の鈴が鳴るより先に、男の吐く息が白く見えた気がした。


 「……三日だけでいい」


 男は帽子を揉み、胸の前で握り直した。指の節が赤い。荷運びの皮手袋を外し、そこにあるのに手のやり場がない、というふうに両腕を垂らした。


 ホルトンは作業台の上の布を整え、声の高さを変えずに言った。

 「三日。隣で、何をしてほしいの」


 「笑って立ってほしい。……いや、立つだけじゃだめだ。みんな、俺のことを、荷を外された役立たずだって……」

 男は途中で言葉を噛み、咳払いをした。「港の親方の前でさ、肩を落とさずにいられるように。三日だけ、隣に……そういう人がいればいい」


 ホルトンは頷き、布の端を指で押さえた。押さえるのは指先ではなく、指ぬき越しの木のへらだ。彼女の手袋は薄いが、距離は厚い。


 「触れられなくてもいい?」

 「それでいい。むしろ……触れられたら困る。俺、緊張すると手が汗で……」


 男の耳が赤くなった。言い訳みたいに笑って、すぐに真顔へ戻る。その戻り方が、妙に律儀で面白い。


 ホルトンは布を選び、細い鈴を一つ取り出した。鈴は小さく、けれど音が澄んでいる。胸元の縫い目に隠れる位置に、針で縫いつける。鈴は、そこに誰かがいる、と周囲に知らせるためのものだ。触れられないなら、存在を音で縫うしかない。


 契約札も用意する。紙は厚く、蝋で縁を固める。札の縁に銀糸を一針、入れる。銀糸は見えにくいが、光を拾う。嘘が混じったときだけ、縫い目が沈む。


 「顔は、どんなのがいい?」

 「普通で……いや、普通ってなんだ。ちょっと、こう……気が利いてる感じ……」

 男は自分の言葉に困り、頬を掻いた。「あ、でも、俺の言うことに、ちゃんと相づちを……」


 ホルトンは針を止めず、短く尋ねた。

 「相づちは、どのくらい」

 「え?」

 「速さ。回数。目線。間」


 男の口が開いたまま止まった。すぐ閉じて、慌てて言い直す。

 「ええと……相づちは、うん、うん、って……いや、二回はうるさいか? 一回で……いや、親方が話長いから二回……」


 ホルトンの指先が布の上を滑り、縫い目がまっすぐ延びる。男の言葉が迷えば迷うほど、縫い目は落ち着く。彼女は言葉の揺れを糸で締める。


 裏の針山から、細い黒糸を選んだ。黒は主張しないが、形を決める。

 「立ち姿は、どのくらい胸を張る?」

 「え、胸……うーん、俺、張ったことない……」


 店の奥で、布の裁断をしていたパパタステロープスが、顔だけ覗かせた。市場の帰りらしく、頬が冷えきっているのに口だけは元気だ。

 「胸を張ったことない男が、三日だけ伴を借りるのかい。面白いねえ」


 男は耳を真っ赤にして、帽子を深く被った。

 「ちがう、俺は……」

 「ちがうなら、言えるうちに言っておきな。あとで口から出なくなるよ」


 ホルトンはパパタステロープスへ視線を向け、へらで布を叩いた。軽い合図だ。余計な抱きつきが来そうなとき、彼女はいつも手元で止める。パパタステロープスは肩をすくめ、両手をひらひら振って引っ込んだ。


 男は息を整え、急に思いついたように言った。

 「口笛……下手にしてほしい」

 「口笛」

 「うん。俺、下手だから。隣の人がうまいと、俺が余計に惨めになる」

 「惨めになるのは、三日で終わる?」

 「……終わらせたい」


 ホルトンは「うまい口笛」の縫い目を避け、わざと音がぶれるように鈴の位置をずらした。鈴が胸で揺れるたび、微妙に音程が外れる。口笛の代わりになるような、外れた音。男はそれを想像して、少しだけ笑った。


 「あと、怒ると耳が赤くなるようにして」

 「あなたの耳が赤くなるのは、今もそうだけど」

 「それは……今は寒いからだ!」


 その言い訳が早口で、ホルトンの針先が一瞬止まった。止まったことを隠すように、糸を引き締める。男の耳がさらに赤くなる。奥で、パパタステロープスが声を殺して笑っているのが聞こえた。


 男は勢いづいて、注文を積み上げる。

 「歩くとき、左足がちょっと先に出る癖があって……それが俺と合うように。あと、笑うときは口の端が片方だけ上がって……いや、両方だと、なんか怖い。片方だけで……」


 ホルトンは紙に書きつけず、縫い目にだけ覚えさせた。注文が増えるほど、契約札の重みが増す。重い札は、後で男自身の肩に戻る。だからこそ、縫う側は軽く聞く。


 「三日。朝は港へ?」

 「行く」

 「昼は?」

 「親方の前にいる。荷がないから、立ってるだけだ」

 「夜は?」

 男は口を開き、閉じた。「……酒場、かな。でも、隣がいたら、行けるかもしれない」


 ホルトンは蝋を温め、札の縁を固めた。蝋が冷える音は、海の波の引き際に似ている。


 「料金は、これで足りる?」

 男は布袋を出し、硬貨をじゃらりと台へ置いた。金属の音が店に響く。ホルトンはそれを見ず、袋の縫い糸を見た。糸の色が、港の荷袋でよく見る青だった。青糸は強いが、荒い。


 「三日で、そこまで払わなくていい」

 「でも……」

 「代わりに、約束して」

 ホルトンは契約札を差し出し、そこへ「屋根」とだけ、小さく刺繍した。

 「今夜。屋根で空を見る。笑うのは、そこから始めよう」


 男は札の刺繍を見て、戸惑ったように眉を寄せた。けれど、断る言葉は出てこなかった。代わりに、帽子の縁を握り直し、頷いた。


 仕立ては早く終わった。布の輪郭は薄く、誰かが焦点を合わせようとしても合わせきれない。けれど鈴が鳴る。鈴の音が「隣」をつくる。仮の伴侶は、触れられないまま、男の肩の少し後ろに立った。


 男は一歩、歩いてみる。左足が先に出る。仮の伴侶も、ほんの少し遅れて左足が先に出る。口笛の代わりの鈴が、外れた音で鳴った。男の口の端が、片方だけ上がる。


 「……すげえ」

 言った瞬間、彼は慌てて言い直した。「いや、すごい。ありがとう」


 ホルトンは返事の代わりに、手袋の指先を軽く折り曲げた。笑う代わりの合図だ。


 男は扉へ向かい、仮の伴侶の鈴が店の外へ澄んでいく。外の風が少し強く、鈴が一段高く鳴った。男は振り返り、言いかけて、やめた。言葉の代わりに、帽子を脱いで深く頭を下げた。


 ホルトンは一歩、近づこうとして、止まった。距離は、いつも一歩分だけ残る。手袋の内側で指を握りしめ、革が小さく鳴る。


 扉が閉まり、店に静けさが戻ると、奥からパパタステロープスが飛び出してきた。

 「今の注文、耳が赤くなるって、もう本人が赤かったじゃないかい! あんた、よく真顔で縫えるねえ」

 「針を落とすほうが、怖い」

 「落としたら、拾う係を雇いなよ。抱きつき……」

 「雇わない」


 パパタステロープスは肩を揺らして笑い、店の前の雪を靴で蹴ってはらった。

 「今夜、屋根? 寒いよ」

 「寒いから見る」

 「そういうところ、あんた……」

 パパタステロープスは言いかけて、口を閉じた。代わりに、棚から新しい糸巻きを一つ置く。「それ。冬の間、足りなくなる色さ。市場で見つけた」


 ホルトンは糸巻きに触れず、手袋越しにそっと引き寄せた。糸の色は、港の冬空みたいに淡い灰色だった。


 夕方までに、店には小さな笑いが何度か転がり込んだ。港の男が戻ってきて、「仮の伴侶が相づちしすぎて親方の話が長くなった」と膝を叩き、別の客が「耳が赤くなるって、どうやったら縫えるんだ」と真顔で聞いた。ホルトンは針を動かしながら、笑い声を布の端で受け止めた。


 日が落ちる頃、潮の匂いが濃くなった。遠くの断崖のほうから、果樹園の甘い匂いが風に乗ってくる。冬花火の季節が始まる匂いだ。


 ホルトンは灯りを落とし、扉の鍵を確かめた。屋根へ上がるための梯子を、壁からそっと外す。手袋を外す気配は、どこにもない。


 今夜、空を見る約束は、契約札より軽い。だから破れやすい。破れないようにするには、縫うより、ただそこへ行くしかない。


 彼女は梯子を担ぎ、裏口から外へ出た。冬の風が頬に当たり、冷たさの輪郭がはっきりする。どこかで鈴が、外れた音で鳴った。三日だけの隣が、すでに町を歩いている。


 ホルトンは空を見上げ、まだ何も上がっていない冬の夜に、白い息を小さく吐いた。

 遠い屋根の上でも、あの男が同じ空を見ていた――そう思うと、針先ほどの温かさが胸に残った。


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