第2話

 朔也くんは大学に合格した。

 付き合っている、といっても何しろ相手が受験生だったので、メッセージをちょっとやりとりする程度だった。朔也くんが彼氏なの、なんだか変な感じだった。ゆたんぽの写真を送ったときに、

「真奈さんの写真もください」

 と言われて、なんだか変な声が出た。ゆたんぽを抱っこしたまま髪の毛を直してリップを塗り直して自撮りして送った。

「可愛いです」

 と、返事が来た。ゆたんぽの写真を送っても同じじゃないかと思ったけど、嬉しくなってしまった。朔也くんって、私のことをどう思ってるのか。そもそも朔也くんってどういう男の子なのか。よくわからないまま付き合っている。付き合っている、というのが本当のことなのかも、ときどきよくわからなくなる。

 春休みになっても朔也くんは受験なので会えなくて、何かメッセージを送ろうにも余計なことをしてしまったらと踏み切れなかった。私はそんなに真面目に受験をせず、どこかを目指すというより入れそうな大学に入ったため、志望校を決めてそこに向けて頑張っている人の気持ちを、多分わかっていないので、無神経なことを言ってしまいそうだ。

 なので朔也くんが受験の日にメッセージをくれたので、「応援してるね」とだけ送り、実際家で、応援していた。朔也くんの志望校の過去問を検索して見て、こんなのとても解けない、と怖くなったりした。

 「合格しました」と朔也くんから送ってくれたので、本当にほっとした。「おめでとう!」と送ると、「会いたいです」と返ってきて、思わずベッドに倒れてしまい、ゆたんぽに怒られた。

 公園以外の場所で会おう、ということで、水族館に行くことになった。朔也くんって、水族館好きだろうか。私は好きだった。水族館、プラネタリウム、美術館。そういうところが好きだった。中身にも興味はあるけれど、非日常空間なのが、良い。その非日常を、誰かの情熱が作り出している、と感じるのが好きだった。

 乗り換えの駅が一緒なのでそこで待ち合わせた。朔也くんは白いシャツにグレイのジャケット、黒いパンツにバックパックという格好で、背が高いので目立っていた。私を見つけると、小さく目元がほころぶ。私は小走りになって朔也くんの元に向かった。

「合格おめでとう」

「ありがとうございます」

 そう言えば、朔也くんからは合格したら付き合ってくれ、と言われていたことを思い出して、なんだか照れた。朔也くんもなんだか照れていて、二人で照れているのは、変な感じだった。別にこの男の子のことが、好きなのかまだ、わかっていないのに、彼氏彼女っぽい空気だけがある。

 電車に二人で乗り込む。平日だし十時という時間なので電車は空いていて、二人で並んで座った。

「可愛いですね」

 と、朔也くんがどこかを見て言った。

「何かある?」

 私は電車の中の広告に可愛いものを探した。

「いえ、あの……真奈さんが……」

 と朔也くんが言うので、気まずかった。白いニットにロングスカートと薄手のコート。こういうの好きなんだろうか。うまく聞けない。

「髪の毛、伸びましたね」

 前に会ったときには耳下ぐらいのボブだった髪が、肩につくぐらい伸びていた。

「そろそろ切ろうかな。あんまり長いの好きじゃないんだよね」

「そう言えば、短いイメージです」

 朔也くんの中の私のイメージ、髪が短いんだ、と思うのが、不思議だった。朔也くんと会ったときの自分の髪型がどうだったのかなんて記憶にないのに、朔也くんの中に私のイメージがあるのだ。長い付き合いの、でもあんまり仲良くはない、私の彼氏。

「一人暮らしをします」

 と電車の中で言われて、驚いた。けれど、確か家が、通えなくはないけれど大学からは結構遠かったような気もする。

「もう部屋決まってるの?」

「親戚の持っているマンションに住ませてもらうことになりました」

 お金持ちなんだあ。

 というのがまず思ったことで、でももちろん言いはしない。朔也くんって、欠点ないんだろうか。

「朔也くんって、苦手なことある?」

「苦手……絵、が、下手……です……」

「ほんとう?」

 私は鞄から手帳を取り出して、空いたページにゆたんぽの絵を描いた。

「上手ですね」

 と本気で感心したふうにいうので、嬉しかった。すごく上手なわけではないけれど、絵は結構好きだ。バイトでもPOPにちょっとしたイラストを描く。

「朔也くんも何か描いて」

 と要求すると、横に細長い円をいくつかくっつけたようなものを描いた。

「犬です」

 ぶっきらぼうなような、ちょっと困ったような感じで言う。本当に苦手なようだった。

「私はね、運動苦手」

「そうなんですね」

「歩くのは結構好きだけど。よく一人で歩いてる」

「俺も歩くの好きです」

 それって一緒に歩こうってことなのかな。わからない。

「ゆたんぽのお散歩も私がよく行くよ」

「結構歩くんですか?」

「ゆたんぽはお散歩大好きだけどそんなに距離は歩かないかな。あと毛がないから日焼けとか寒さとかに注意しなくちゃいけないし。小型犬だしね」

「どうしてチャイニーズクレステッドドッグにしたんですか?」

 それは私の我儘だった。私が小学生のとき、図書館で借りた犬についての古い本にチャイニーズクレステッドドッグのことが載っていたのだった。毛のない人懐っこい湯たんぽ代わりの犬。ときどき毛のある個体が生まれて、それはパウダーパフと呼ばれている。パウダーパフは、きょうだいたちを温めるために毛があるのだと書いてあって、なんて可愛いエピソードだと感動した。ネットで検索してもそのパウダーパフについてのエピソードは全然見当たらないので、どの程度本当のことかはわからない。でもその分自分だけの思い入れのある犬種だった。家を建てたし犬を飼おう、小型犬がいい、となったときに、私がチャイニーズクレステッドドッグを強く推したのだった。毛がないので気を遣う部分はあるけれど、性質的にはわりと飼いやすい犬種らしく、あまり毛が散らないのもいいかもしれない、ということで、チャイニーズクレステッドドッグの可愛い女の子、ゆたんぽを飼うことになったのだった。

「なるほど」

「見た目でびっくりされることもあるけど、やっぱり可愛いんだよね。すごく甘えるし」

「ゆたんぽは真奈さんが好きなんですね」

 照れた。

「そのうち会わせてあげる。本物のほうが可愛いよ」

 朔也くんは笑った。朔也くん、結構ゆたんぽのこと好きだと思う。

 水族館前の駅に着いたので降りる。電車の中で、気まずくならなかったのが嬉しかった。水族館は海に面していて、駅から少し歩く。スニーカーなので歩くのは遅くないだろうけれど、身長差のある朔也くんがぎこちなく歩調

を合わせてくれているのが、嬉しかった。

 チケットを買うところで、ふと立ち止まって尋ねた。

「お祝いだから、私が買ってあげる」

「いいんですか」

「うん」

 買ってあげる、と偉そうに言ったところで、ここのチケットは安い。でもある程度値段の張るものをプレゼントにするのは難しくて、ちょうどよかった。お財布に痛い、というより、私たちの関係性のことだ。チケットを手渡すと、

「ありがとうございます」

 と礼儀正しく頭を下げてくれた。

「合格おめでとう」

 再度言う。

「ありがとうございます」

 微笑んで、朔也くんって、年下だよなあ、と、なぜか思った。私たち、あと何回デートするんだろう。


 水族館って圧倒されて好きだ。中にいる魚は多分なんでもよくて、地上に海を再現していること自体がよい。分厚いガラス。莫大な水。泳ぐ魚。薄暗い中で、ぼんやりと青く閃く魚を見上げている。

「あのマグロ、怪我してるね」

「本当だ」

「痛そうだけど、気にならないのかな」

「魚も痛みを感じるらしいですけど。あ、あれも怪我してますよね」

 朔也くんはちゃんと真面目に話してくれる。

 朔也くんにつられ、真面目に解説を読み、真面目に一つ一つの水槽を見て、一旦レストランに行った。

「おごるよ」

 と言うと、朔也くんは今度は少し渋った。

「バイトしてるし。お祝い」

「いえ、でも、」

「じゃあ、朔也くんがバイト始めたらおごってね」

 そう言うと折れた。

 レストランはセルフサービス式で、二人ともまぐろカツカレーというのを頼んだ。朔也くんは写真を撮って、あ、撮るの忘れたなと思いながら食べ始めた。

「結構美味しいね」

「そうですね」

「悪口言ってもいい?」

「悪口?」

 私は頷いて、とある博物館のレストランが本当にまずい、という話をした。

「あー。地下のところですね」

 朔也くんも納得、というふうに頷いてくれて、ちょっと嬉しかった。何がまずいとか、そういう悪口を言ったら引かれてしまうかも、とちょっと思っていたから。

「外でご飯食べて美味しくないことはあっても、まずいってことめったにないからなんかもう、腹立った……」

「確かにちょっと珍しいぐらいまずかったですね」

「カルボナーラがまずくて……なんかカルボナーラを提供するっていうかカルボナーラらしきものを出せたらそれでいいみたいなね」

「俺はカレーでしたね。確かにカレーというより、カレーらしきものだったかもしれない。米が、なんか……」

「パスタもただのでんぷんの塊だった。近未来だとご飯ああなっちゃうのかな……」

 朔也くんは笑った。それから、私の大学の学食の話なんかをした。朔也くんの大学はどうなんだろう。私はサークルとかもしてないしその大学には友達もいないので、入ったことがない。気後れする。

「真奈さん、何のバイトしてるんですか」

「え、本屋さん」

「本屋さん」

 私は近くのショッピングモールにある大型の書店でバイトしている。楽な仕事ではないけれど、楽しい仕事なので、できるだけ続けたいと思っている。

「児童書のコーナー任されてる」

「真奈さん、本が好きなんですね」

「好きだよ。そんなにたくさん読むわけじゃないけど。朔也くんは本読む?」

「そんなには。でも小学校のときはあれが好きでした」

 朔也くんはショートショートのアンソロジーのシリーズと、不思議な駄菓子屋の本が好きだったらしい。

「私も好き。どっちも今もめっちゃ売れるよ」

 今の子供に流行っている本の話をした。話しながらまた水族館を見ていた。くらげを見ていると、真剣な顔で朔也くんが尋ねた。

「あの、お願いがあるんですけど」

 体が大きいので、真剣だと結構怖い。

「何?」

「写真撮ってもいいですか?」

「いいけど……」

 本当に大したことがないお願いだったので、拍子抜けした。写真はあんまり好きじゃないけれど、断るほどじゃない。少しだけ前髪を整えて人の邪魔にならないところに立っていると、朔也くんがスマホを逆さに持って、しゃがんだので、びっくりした。

「撮ります」

 どういうポーズをしていいのかわからず、小さく首を傾げて笑った。何枚か撮って、朔也くんは立ち上がった。

「これ、大丈夫ですか」

 撮った写真を見ると、写真が得意な女の子が撮るみたいに、脚が長く映っていた。

「上手だね」

 なんだか嫌味みたいに聞こえて慌てる。いや、単に、朔也くんが写真を撮り慣れてるとは思っていなかった。女の子に頼まれないとこういう撮り方しないだろう。結構女の子の写真を撮る機会があるんだなあ、そりゃ、かっこいいもんなあ、という、卑屈な気持ち。

「あ……いや……」

 朔也くんの耳が赤い。何か言いたそうなので待つと、しばらくおどおどしたあと、

「勉強しました……変な撮り方すると、嫌がられるかと……」

 と言うので、どういう顔をしていいのかわからなかった。

「二人で撮ろうか」

 隅っこに行って、朔也くんに屈ませて、顔を寄せて、私のスマホで撮った。私は笑っているけれど、朔也くんの顔は強張っている。

「送るね」

 と言って、そのまま朔也くんに送った。通知が鳴って、朔也くんが画面を見る。

「信じられない……」

「何が?」

「真奈さんと、俺が、写真を……」

 だから何?

 朔也くんのことが、よくわからない。

 そこからはうまく会話が弾まなくて、水族館を後にした。電車に乗ると、

「送ります」

 と言われた。

「え、いいよ。遠いでしょ」

 朔也くんは首を振った。

「送りたいんです」

 さっきまで、普通に話していたのに、どうしていいのかわからなくなる。まだ電車は空いていて、沈黙が重くて、でもスマホを見るのも変な感じで、朔也くんから何か話してくれないかな、と思っている。

「今日、楽しかったですか」

 朔也くんが聞く。

「え、うん」

 無意味な質問だなと思った。実際楽しくなくても、楽しかった、と言うしかない気がする。でも質問としての意味をなしてなくても、聞いてくれたことは、嬉しかった。

「朔也くんといっぱい話せて、楽しかった。水族館好きだし」

「じゃあ……」

 朔也くんが言葉を詰まらせる。電車の音を聞きながら、続きの言葉を待っていた。私と朔也くんしかいないから、沈黙を待つことができる。小さい子たちや、大人が入ってこない会話。贅沢だ、と思っている自分に気づく。

「また、出かけてくれますか」

「え? うん」

 拍子抜けした。朔也くんの目がかっと開く。目、大きいね。

「本当ですか?」

「うん。なんか、そんな、気を遣わなくていいよ」

 そんなたいしたもんじゃないし、と思って言ったら、すぐに言い返された。

「無理です。その、真奈さんに気を遣わないのって、無理、です……」

 そうなんだ。なんだかむずむずする。

「じゃあ、ときどき私から連絡したり誘ったりしたほうがいい?」

 そういう感じの朔也くんが可愛くて、自分でも思いがけないことを言っていた。どちらかというと自分は控えめな人間だと思っていたけれど、そう言えば、小さい子とか、年下には、わりとおせっかいなところがあった。バイトでも、迷子は私が面倒を見ることが多い。

「いいんですか?」

 朔也くんは想定以上に喜んでくれて、言ってよかったと思わせてくれる。

「うん」

 横を見ると、朔也くんがぼうっとした目で私を見ていた。夢見心地、みたいな目。この目に、私はどんなふうに映っているのか、少し怖いような気がする。


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