ブラックポスト
埴輪庭(はにわば)
第1話
◆
硝子の灰皿に煙草を押しつけながら、低い溜息がその細い喉から漏れた。
件の投稿が最初に観測されたのは三週間ほど前のことになる。
何の変哲もない一枚の写真だった。薄暗い和室の隅に据えられた古びた日本人形。その硝子玉の瞳だけが異様に生々しく、画面を通してこちらを見据えているように感じられる。添えられた短文には「これを見た者は三日以内に死ぬ」と記されていた。投稿者のアカウントはすでに削除されている。
霊鳳はその画像を一瞥し、それが本物であると看破した。
認識──つまり、見るだけで発動する厄介な呪いだ。ただし霊鳳の場合、それは対象を「診る」という能動的な行為であり、受動的に「見てしまう」こととは根本的に異なっていた。医者が患者の患部を見るとき、自身が病に侵されないのと同じ理屈だ。
視線の方向が違う。
彼女は呪詛を見下ろしているのであって、見上げているのではない。呪術とはつまるところ位相の問題であり、高い位置にある者が低い位置の穢れに染まることはない。
しかしそれでも、この呪いは厄介だった。
問題の本質は拡散性にあった。悪霊がSNSというインフラを呪術の媒介として選んだのは恐らく偶然ではあるまい。あるいはどこかの愚か者が軽はずみな興味本位で活性化させてしまったのかもしれない。だがそうした経緯はもはやどうでもよかった。肝要なのは今この瞬間も投稿が拡散され続けているという事実である。
呪いとは悪霊の分体のようなものだ。
本体が存在し、そこから切り離された欠片が呪詛となって対象を蝕む。通常であれば一対一の関係で、呪う者と呪われる者の間に閉じた回路が生じる。だがこの悪霊は違った。己の分体を無限に複製し、不特定多数へ送りつけている。致死性の猛毒を郵便でばら撒くテロ行為と本質的に変わらない。いや、電子媒体を経由する分、よほど性質が悪いと言える。
悪霊の目的は単純だった。
より多くの死──それ以上でも以下でもない。
霊鳳は依頼の山を前に、再び煙草に火を点けた。
◆
最初の死者が出たのは投稿から六日後のことで、その頃にはすでに閲覧数が数万を超えていた。死因は心不全とされている。三十代の男性会社員で、特に持病もなかったという。翌日には二人目、三人目と続き、週が明ける頃には死者の数は二桁に達していた。
いずれも共通しているのは例の投稿を閲覧した履歴があること。そして全員が閲覧から三日以内に原因不明の急死を遂げていること。
世間はまだ気づいていなかった。死者同士の関連性を結びつける者がいなかったからだ。SNSの海は広大で、一枚の画像を見た者たちが同時期に死んでいくことの異常さは統計的なノイズの中に埋もれてしまう。
霊鳳もこの案件を最初に認識したのは、知人の霊能者からの相談がきっかけだった。
「拡散を止められないんです」と、その男は言った。
「誰かが保存して再投稿──その繰り返しです。ミームのように増殖していく」
霊鳳は黙って聞いていた。男の顔色は悪く、目の下には深い隈が刻まれている。おそらく何日も眠れていないのだろう。
「解呪の方法はあります」と男は続けた。
「呪いを心から否定すればいい。くだらないと、本当にくだらないと思えばいいんです」
簡単なようで、これがひどく難しいことを霊鳳は理解していた。多くの者はこんなものくだらないとして無視するだろう。画像を見て、怖いとも思わず、そのまま忘れてしまう。そういう者たちは問題ない。呪いは発動すらしない。
だが問題なのは中途半端な者たちだった。表面上は馬鹿にしながら、心のどこかでほんの僅かな不快感を覚えてしまう者。理性では否定しながら、本能的な恐怖を完全には拭いきれない者。そうした者たちにとって、呪いは致死的なものとなる。
「だから私はSNSで解呪の方法を広めようとしました」と男は言った。
「本当に心からくだらないと思えば助かる、と」
霊鳳の眉が僅かに動いた。
「それで?」
「悪霊がガセの情報を流したんです。偽の解呪法が出回って、本物の情報が埋もれてしまった」
男の声には疲弊と諦念が滲んでいた。霊鳳は煙草の煙を天井に向けて吐き出した。悪霊の知恵というべきか。情報戦において先手を取られた時点で、既に勝負は決していたのかもしれない。
男が去った後、霊鳳は一人で事態を整理していた。窓の外では夕暮れが近づき、西日が仕事部屋の床を橙色に染めている。彼女の机の上には資料が散乱し、灰皿には吸殻が山になっていた。
結論から言えば、打つ手がなかった。
正攻法ではもはやどうにもならない。悪霊が流した偽情報はすでに本物の解呪法を駆逐しており、検索しても出てくるのはデタラメばかりだった。霊能者仲間に声をかけても、誰もが「もう手遅れだ」と口を揃える。
霊鳳自身、その見解に異論はなかった。
呪いは加速度的に拡散を続け、死者の数は日を追うごとに増えていく。放っておけばいずれ万単位の犠牲者が出る可能性すらある。
だがそれが判ったところでどうにもならないのが現実というものだった。霊能者は万能ではない。できることには限界がある。霊鳳は深く息を吐き、机に頬杖をついた。諦めに似た感情が胸の奥で澱のように沈んでいく。
通知音が鳴ったのはそのときだった。
LINEだ。画面を見ると、友人の名前が表示されている。内容は他愛のないものだった。新しくできたカフェの話。今度一緒に行かないか、という誘い。霊鳳は適当に返事を打ちながら、ふと別のことを思い出していた。
数年前、この友人が情報商材屋に騙されて、高額な「投資講座」を購入させられたことがあった。百五十万円という金額を聞いたとき、霊鳳は電話口で絶句したものだ。結局、金を取り戻すまでに相当な苦労を要した。内容証明を送り、消費者センターに相談し、弁護士を立て、最終的には訴訟をちらつかせてようやく返金に漕ぎ着けた。その過程で、霊鳳は情報商材屋という人種について多くを学んだ。
彼らは詐欺師だった。いや、正確には詐欺すれすれの線を巧みに泳ぐ、法の隙間を縫う寄生虫どもである。だが同時に、彼らには一つだけ認めるべき能力があった。
情報を拡散する力だ。
やってやれない事はないかもしれないな──そう霊鳳は考えた。
霊鳳の口元が僅かに歪む。それは笑みと呼ぶには冷たすぎ、嘲りと呼ぶには計算高すぎる表情だった。
友人へ返信する指を止め、別のアプリを開く。ブックマークしてあったウェブサイト。あのとき調べ上げた情報商材屋どものリストがまだ残っていた。
◆
三日後、霊鳳は都内のホテルのラウンジで、一人の男と向かい合っていた。男は三十代半ばで、安っぽいスーツに派手なネクタイを締めている。腕には見せびらかすような高級時計。髪は過剰にセットされ、香水の匂いがきつかった。典型的な詐欺師の風体である。
「つまり、あるポストを拡散してほしい、と」男は猜疑心を隠さない目で霊鳳を見た。
「理由は」
「ある」
「それは教えてもらえない?」
「教える必要がない」
霊鳳はテーブルの上に封筒を置いた。男がそれを開けると、中には一万円札がぎっちりと詰まっていた。男の目の色が変わる。
「条件がある」と霊鳳は言った。
「あなたの仲間にも拡散させて。同じ金額を払う」
男は明らかに警戒していたがそれ以上に金に目が眩んでいた。霊鳳はそれを見抜いていた。彼らは金のためなら何でもする。それが彼らの本質だ。
「内容を見てもいいですか」
「どうぞ」
男はスマートフォンで霊鳳が指定したリンクを開いた。そこには解呪の方法が記されている。例の呪いの画像を見ても、心からくだらないと思えば害はない、という内容だ。男は訝しげな顔をした。
「これって、例のチェーンメール的なやつですよね。呪いがどうとか」
「そう」
「こんなの誰が信じるんです?」
霊鳳は答えなかった。男は肩をすくめた。
「まあいいですけど。金さえもらえれば」
そう言って、男は封筒をポケットにしまった。霊鳳の唇が微かに吊り上がる。
◆
情報商材屋のネットワークは霊鳳の予想を上回る速度で機能した。彼らは
そして当然のことながら情報商材屋たちは便乗を始めた。
一人が金を得たと知れば仲間たちも我先にと群がってくる。彼らは解呪の方法ばかりか、それに関連する「商品」を売りつけようとさえした。
だがそれでよかった。
正しい解呪法が広まっていくなら安いものだ。悪霊が流した偽情報は情報商材屋どもの情報の波の中に埋もれていった。
そして一週間後、状況は変化していた。SNS上では解呪の方法が一般的な知識として定着しつつあった。呪いを見てもくだらないと思えば問題ない──そういう認識が広まっている。それだけではなく、情報商材屋が流した情報を信じ込んだ情弱たちは、それを実践すれば呪いにはかからないと
結句、死者の増加ペースは明らかに鈍化していた。
だがそれですべてが解決したわけではなかった。
霊鳳は自室で、新たな訃報を確認していた。情報商材屋の一人が急死したという知らせだ。三十代男性、死因は心不全。例の呪いを拡散する過程でどこかで僅かな不安を感じてしまったのだろう。あるいは金のためとはいえ呪いに関わることへの後ろめたさか。いずれにせよ、彼の内心には完全な否定がなかった。それが致命的だったのだ。
翌日には別の商材屋が死に、その次の日にはまた別の者が死んだ。彼らは表向きは呪いを信じていなかったが心のどこかでは割り切れていなかったらしい。霊鳳は煙草の煙を吐きながら、それを冷めた目で眺めていた。
問題は解呪の方法が広まっても、それを実践できる者が限られているということだった。
「心からくだらないと断じる」という条件は想像以上に厳しい。人間の心は複雑で、意識の表層と深層が乖離していることは珍しくない。頭では馬鹿にしながら、無意識の領域では怯えている。
そういう者たちにとって解呪法の知識は何の役にも立たないどころか、むしろ事態を悪化させる可能性すらあった。解呪法を知ったことで、かえって呪いを意識してしまう者もいるだろう。知らなければ素通りできたものを、知ってしまったがゆえに引っかかる。そういうケースは決して少なくないはずだ。
霊鳳はそれを理解していた。最初から理解していた。それでも解呪法を広めたのは、何もしないよりはマシだと考えたからだ。
まあ実際、霊鳳の目論見通りに全体の死者数は鈍化している。
とはいえ、霊鳳の目的は違う所にあるのだが。
◆
転機が訪れたのはさらに一週間後のことだった。
テレビのニュース番組が一連の騒動を特集として取り上げていた。
「SNSで拡散する新手の霊感商法」という見出し。情報商材屋たちが「呪いの解除法」と称して金銭を騙し取っているという内容だった。専門家と称する者がスタジオに招かれ、「こうした非科学的な言説に惑わされないでください」と視聴者に呼びかけている。
行政も動いていた。
消費者庁が情報商材屋たちの摘発を発表し、複数の業者が逮捕された。霊感商法に対する注意喚起がなされ、関連するSNS投稿は軒並み「詐欺的内容」として通報対象になった。
霊鳳はそのニュースを自室のソファに深く沈み込みながら眺めていた。
煙草の煙が天井へ向かって立ち昇る。その表情に驚きはなかった。眉一つ動かさない。まるで予定通りの展開を確認しているかのような風情だ。
行政の介入により何が起きたか?
皮肉な結果ではあるが、呪いそのものが社会的に否定された。ニュースを見た一般市民は「ああ、またこの手の詐欺か」と思うだろう。SNSで流れてくる呪いの画像も、解呪法の投稿も、すべてが霊感商法の一環として片付けられる。馬鹿げた詐欺に過ぎない。そう認識されるようになった。
そう、
これこそが霊鳳の目的であった。
社会全体が呪いを一笑に付している。誰もが心から──本当に心から、くだらないと思っている。信じる者がいなくなれば呪いは力を失う。悪霊の分体は依り代を見つけられず拡散を止める。そうして死者の報告は急速に減少していった。行政発表があった翌週には呪いに関連すると思われる死亡例はほぼゼロになっていた。
◆
最後の情報商材屋が死んだのは騒動が収束してから三日後のことだった。摘発を逃れていた中規模の業者で、かなりの金額を稼いでいたらしい。死因はやはり心不全。彼もまた、どこかで呪いへの恐れを拭いきれていなかったのだろう。
すでに多くの情報商材屋が死んでいるが、彼らの多くは金のためにこの騒動に首を突っ込み、そして呪いの本当の恐ろしさを軽視していた。「くだらない」と口では言いながら、心のどこかでは怯えていた。それが彼らの命取りになったわけだ。
もっとも、すべての商材屋が死んだわけではない。本当に、心の底から呪いなど信じていなかった者たちは生き残っている。純粋な詐欺師、あるいは純粋な懐疑主義者。彼らにとって呪いは文字通り意味を持たなかった。霊鳳からすれば、呪いより遥かに厄介な連中だと言わざるを得ない。
窓辺に立ち、夜の街を見下ろす霊鳳の目には闇が揺蕩っていた。灯りの点る無数の窓──その向こうで、人々は何も知らずに日常を送っている。呪いのことも、死んでいった者たちのことも、彼らは知らない。知る必要もない。行政の発表を鵜呑みにして、霊感商法の詐欺事件として記憶の片隅に押しやるだろう。それでいい。それが望ましい結果だ。
霊鳳は煙草を唇にくわえ、火を点けた。紫煙がガラスに反射する街灯りに溶けていく。
依頼者からの連絡は途絶えていた。あれほど殺到していた相談も、今では嘘のように静まり返っている。呪いは消えた。悪霊の力は衰え、いずれ完全に消滅するだろう。任務は完了した。
ただし、そのために支払われた代償がある。
情報商材屋たちだ。霊鳳から言わせれば詐欺まがいの商売で生計を立てていた人間の屑ども。彼らの何人かは確実に死ぬと、霊鳳は最初から知っていた。呪いを拡散する過程で必ず何人かは内心の動揺を抑えられない。金のために動いているとはいえ、無意識の領域では怯える。そういう者たちは死ぬ。
そう、知っていたのだ。
霊鳳はそれでも彼らを使った──死んでも、良かったから。
きりきりきり、と。霊鳳の唇がゆっくりと歪み、美しい弧を描いた。
(了)
ブラックポスト 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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