第2話 遭遇

その日は途中まで何事もなく過ぎ去っていった。


外は相変わらず暑かったけれど、幸いにして体育もなかった。いつも通りに授業を受けて、いつも通りに下校時刻がやってきた……のだが。


運悪く、所属している図書委員会の集まりが長引いてしまった。最近は借りた本の扱いが酷い生徒が多い――本に勝手に貼った付箋を無理矢理剥がして紙を破く、蛍光ペンでマーカーを引く――など、その問題の議論が白熱してしまった。


気づけば外は薄く暗くなり始めていた。いくら7月とはいえ、夜6時半を過ぎた頃には徐々に夜の気配が漂ってくる。


くそ。皆が正しく本を扱えば、僕の帰りはこんなに遅くならずに済んだのに…。そんなことを考えながら、僕は校門を出た。


昼間の殺人的な暑さこそ落ち着いているけれど、まだ肌に触れる風は生ぬるい。夕方とと夜の境目、瑠璃色の空を見上げると、遠くもほうで金星が瞬いていた。

夜が来る。

ニナからあの話を聞いたあとだから、いつもよりも夜の質感が重く感じる。


「なんか……ヤだな」


思わず声に出した。

怖いというより、嫌だなと感じる。恐怖や怯えとはまた違う嫌悪感…いや、案外同じなのかもしれない。


気持ちゆっくりと歩いていたはずなのに、気がつけばもう六丁通りに差し掛かっていた。 

向かって左側が土手になっており、下の方には古くからの民家が建ち並んでいる。ガードレールと道路を挟んで、右側には雑木林が茂っている。道路は緩やかにカーブしていて、ここからはまだ見えないけれど、道を曲がった先に件の電話ボックスがある。


ごくり、と唾を飲み込むのと同時に、風がごおっと音を立てて強く吹いた。右手に茂る雑木林が、真っ黒な巨大な生き物のようにざわざわと揺れた。……うーん、すごく嫌な感じだ。


しかし、ここを通らないと帰れないので、仕方なく僕は歩き出した。

なんてことない、いつもの道だ。

緩いカーブに差し掛かる。この道の向こうに、電話ボックスが見えるはず。……ただの電話ボックスに決まっている。見なくてもわかる。だって、いつも、何回も見てるから。暗い中に、白い蛍光灯が煌々として。小さい虫なんかが、扉のガラスのところに張り付いていたりして。黄緑色の受話器があって。


――それが、ちょっと赤くないか?


『昔、女の人が恋人に振られて自殺したんだって』

 

もしかして、それは。つまり、あの、受話器にこびりついた赤いものは。傍らには、赤く染まった白い――


「いや! ……ないって!」。


ないって、そんなの。


つい、想像してしまった。想像を膨らませすぎてしまった。どうして考えなくてもいいことを、いちいち思い描いてしまうのか。ああ、これ絶対寝る前にもう一度思い出すやつだ。

そんなことを考えているうちに、電話ボックスが見えてきた。そこには――いつも通り、なんてことない黄緑色の受話器が鎮座していた。デカい蛾がガラスに張り付いている。キモい。


「ほら、なんともなかった」


誰にともなく呟いたときに、自分が思ったよりニナの話を真に受けていたことに気づいて、急に恥ずかしくなった。


「あるわけないんだよ。今までだって、一度も見ていなかったんだから」


電話ボックスの前を通り過ぎた、そのときだった。


「――…、」


背後から、女の声に呼び止められた――気がした。それは、声のような、声でないような。音のような、音でないような。いや、これは――息。


生温かい息が、首筋に当たっている。

 

それを自覚したのと同時に、全身から冷や汗が吹き出した。あ、これダメなやつだ。オカピのときは何も起きなかったのに。どうして僕のときだけ? 僕はこの道のヘビーユーザーなのに、さすがに理不尽ではないか? 身を守るための本能なのか、こんなときにかなりどうでもいいような苦情と共に、ぶつ切りの思考が頭を駆け巡った。


その間も生温かい息と――ほんのりと錆びた鉄のような生臭い匂いが鼻腔を突いた。このタイミングの鉄臭さって、もうアレじゃん。吐息を感じたとき、ワンチャン不審者かもとか思った自分を殴りたい。


こんな気配を持つ人間が、”この世のものであるはずがない"じゃないか。


――逃げなきゃ。逃げるには、まず、その前に、動かなきゃ。動きたい。のに、動けない。体が……動かない。


「――……、い」


息使いのみを発していた”何か”は、


「…………い、――い」


声を発していた。男とも女ともつかぬ、まるで猫の発情期のような……赤子のような声だった。

その異質な声の時点で、僕はすぐに覚った。これ、最後まで聞いちゃいけないやつだ。


「――い、……い、い、――い」


逃げたい。逃げたい。逃げたい。でも、体が。でも、このままじゃ。でも、でも、――そのときだった。


「!」


不意に、手を掴まれ、引かれた。


「こっちだよ」


僕の汗まみれになった手も、臆することなく掴んだその人――暗闇に紛れて顔はよく見えなかったが、白いワンピースの端っこがちらっと見えたので、女性であることがわかる


「あれ? 白いワンピースって…」


僕の後ろにいるのが例の白いワンピースの女のはずが、今僕の手を引いて暗闇を突き進む人も白いワンピースを着ているようだ。……訳がわからない。


「あ、あの……」

「つべこべ言わずに今は走る」


女性の凛とした声が鈴のように響く。背後のあの気配はいつのまにかなくなっていた。僕は手を引かれるままに、六丁通りの暗闇を駆け抜けた。


六丁通りの長さ自体はそれほどでもないはずなのに、あの電話ボックスから抜けるまでは、まるで永遠のように長く感じた。やっと次の人家の灯りがぽつりと見えてきた頃、街灯の下にたどり着いたのと同時に、僕はへたり込んだ。目の前には、女性のものと思われるストラップのついたサンダルが見えた。……細くて華奢な足だ。ちゃんと地に足がついた人間を見て安心する。

はあ、と大きく息を吐いた。背中は先ほどの汗で、まだじっとりと湿っていた。


「えっと…どなたかは存じませんが…」立ちくらみをこらえながら、「助けてくれてありがとうございました」


ゆっくりと立ち上がった。


「……あれ?」


目の前には誰もいなかった。


「え? ……え?」


混乱する。辺りを見回すも、そこには人影すらない。


おかしい。僕の手を引いてきてくれた人がいたはずだ。今この瞬間、僕がしゃがんだそのときも、確かに目の前にいたはずなんだ。足だって見えていたのに……この一瞬の間に、消えた?


「……はは。あはは…なんだこれ…」


力の抜けた渇いた笑い声に、我ながら情けなくて仕方がなかった。


* * *


やはりというか、当たり前のように昨日の夜は全然眠れなかった。あんなことがあったのだ。眠れるわけがない。情けないことに、掛け布団の外に足を出せなかった(何かに掴まれるのが怖かったため)。

その結果、エアコンをつけていたのに、布団の暑さも相まって変な夢を見た。



僕は昼間の六丁通りを歩いている。雑木林の上のほうを見やると、きらきらと木漏れ日が揺れる様子が見える。そんなに暑くもない。とても清々しい気分だ。

やがて緩やかなカーブに差し掛かり、あの電話ボックスが見えてきた。なんだ。普通の電話ボックスじゃないか。いつもと何も変わらない様子に安堵して、横を通り過ぎようとしたそのときだった。


「掛けませんか?」


呼び止められた。それは、あのときに聞いた不気味な声ではなく、男性の…おじさんの声だった。


「…ああ、遠慮しときます」

夢の中の僕は、震える声で応答した。声の主はわからないままだ。すると、

「そうですか。このあたりはね、掛けない人が多いですね。最近はね、特に掛けないです。なんでかなぁ」

声の主は存外、呑気そうに話す。しかし、その口ぶりとは相反して、言っていることが理解不能すぎる。

僕が立ち去ろうとすると、


「掛けませんか?」


最初の呼びかけと、全く同じトーン、同じ声音だった。


「…だ、だから、僕はだいじょ…」

「そうですか。このあたりはね、掛けない人が多いですね。最近はね、特に掛けないです。なんでかなぁ」

 二言目までも同じか、と思ったのと同時に僕は走り出した。明らかにおかしい。絶対に普通の人間じゃ――


『いかないでね』


目が覚める直前、耳元で最後に響いたその言葉は、あのとき聞いた気味の悪い声色だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る