第5話 アテナの地上代理と双子の兄

「それで? 式典を無断欠席して何をしていたのですか?」


 透き通った声が赤革貼りの玉座から放たれる。


 その立派な玉座は、ピカピカに磨かれた大理石の床の三段上、夕陽で赤橙色に染まったアーチ窓の真正面に置かれ、十七歳の少女が座るにはだいぶ大きそうに見えた。


 片膝立ちになったグレイとメリッサ。


 部屋の左右に十五人ずつ並ぶ騎士たちも、鋼の手甲に包まれた握り拳を床に突き立てる形でやはり片膝立ちになっている。


「教えてください、トーリ・オズロ」


 つまり、俺一人だけが突っ立って少女と向き合っているわけだが、こんなのは望んだ展開じゃない。

 両隣のグレイとメリッサが膝を折ったのを見てから二人に倣おうとしたら、いきなり少女に声をかけられて膝を折る瞬間を逃しただけだ。こういう場面に慣れていないだけだ。


「このアシュレイがあなたに弁明の機会を与えましょう」


 だだっ広い玉座の間には夕陽が溢れていた。

 玉座の真後ろには大窓があるし、それ以外の壁にもやはりアーチ型の大窓が並んでいるからだ。


 決して玉座の少女自体が光り輝いているわけではない。

 それなのに、純白のすそ長ドレスを纏って脚を組む少女は、その美貌と存在感でこの場の夕陽すべてを支配下に置いているように見えた。


 あまりにも綺麗すぎて、あまりにも光が似合いすぎで、そうとしか思えなかった。


 ――アシュレイ――


 恩恵持ちのアシュレイ。知恵と勝利の女神アテナに愛された黒髪乙女。


 この貴婦人について俺が知っていることは少ないが、それでも、俺の人生における一番の美人だというのはまず間違いがない事実だろう。自然と視線が奪われて目が外せなくなる。


 皺一つ、染み一つない、透き通るような白い肌。蒼空のごとき青い瞳。整った鼻筋が綺麗すぎる曲線を描き、少しだけ厚めの唇にはこの世のものとは思えない色気があった。


 女神のごときとはまさにこの人のことだ。


 冷静沈着な表情ながらも幼さと妖艶さが同居する完全無欠の美貌は、俺の心に感動と畏怖と憧れを芽生えさせ……肩の辺りで切り揃えた黒髪がまた似合っているのである。


「はあ――」


 美少女から心を取り戻すのに、わざとらしい一呼吸が必要だった。


 いつまでもほうけたままではお話にならない。

 渾身の物真似を披露する大舞台がついに来たのだ。


 そう思った俺は右手を胸に置いて――さあトーリ、行こうか――と内心で弟に呼びかけた。


「まずは心から謝罪いたします、アシュレイ様」


 神妙な表情で謝意を示してから、玉座のアシュレイ様に対して深々頭を下げる。


「探索行の式典を欠席したこと――誠に、誠に申し訳ございません」



 しかし次に顔を上げた俺は。

「……本当に申し訳ありません」

 フ――と笑いかけてから、「それでは恐れ多くもアシュレイ様にご説明させていただきましょう。僕が式典を欠席せざるを得なかった、やんごとなき事情を」と腹から声を出すのだ。


 芝居がかった大袈裟さだった。

 声色に大きく抑揚を付け、口振りは慇懃無礼で、時には身振り手振りも交えながら、黒髪の乙女に語りかける。


「偉大なるアシュレイ様は、ここより遙か東方、ローズリーズという小さな村をご存じでしょうか? 僕の故郷であり、僕の不肖の兄がいまだ地竜を狩って暮らしている村でございます」


 対してアシュレイ様は玉座の上で不変だ。いきなり独演会を始めた俺を諫めることもなく、怪訝な顔に変わることもなく、ただ冷静冷徹に……ただただ美しく俺を見下ろすのである。


「時は先月、探索行の式典でアシュレイ様にお目通りできることを心待ちにしていたある日のこと。街を歩いておりますとね、東から来た行商がこんな話をしているのですよ」


 その一方で慌てたのはグレイとメリッサ。

 俺が突然ペチャクチャと事情を話し出したものだから、あわあわと逡巡したあげくに「ば、馬鹿者。謝るだけでいいんだ」とグレイが小声で俺を叱り付け、しかし俺に無視される。

「トーリ」

 メリッサが俺の手を握ろうとしてきたから即座に歩き出してスルリとかわした。


「故郷のローズリーズが巨大な飛竜に襲われ、村の若き猟師がたった一人それを撃ち落としたというお安い英雄譚。しかしローズリーズの若猟師といえば、僕の双子の兄しかおりません。しかも、この僕に魔術の才を吸い尽くされた哀れな男でございます」


 まるで観衆を盛り上げる道化師のように、民衆をハメる詐欺師のように、玉座の間を歩きながら努めて明るく言葉を紡いでいく俺。


「きっと、飛竜なんぞに立ち向かうのに、猟銃一つ抱えて死力を尽くしたことでしょう。もしかしたら生涯に渡る重傷を負ったやもしれません」


 静かな空間に俺の声だけが馬鹿みたいに響いていた。「お教えください、偉大なるアシュレイ様」なんて尋ねてみても反応など返ってくるわけがない。


「不出来なれども真に血を分けた双子の兄。そのまま捨て置くという選択がございましょうか」


 だから俺は、たった一人、針のむしろの上でトーリ・オズロを演じ抜くしかなかった。子供相手にはガキ大将として、大人たち相手にはペテン師として振る舞った、あの変な天才を。


「それで兄を見舞うためにしばし帰省していたわけですがね――」

 そこまで言って俺はわざと言葉を止める。


 あえて視線を泳がして何かを考えるふり。自らの顎先をなでて何かがあるふり。

 そして最後には、女の子にキャーキャー言われるような愛嬌満点の笑顔をアシュレイ様に向けるのだ。


「あれこれあってローズリーズにて神罰と戯れましたゆえ、王都への即時帰還がままなりませんでした」


 冗談を語るようなノリで、冗談にならないことを言い放った。


 ――神罰を受けた――


 俺のその告白が玉座の間に集まっていた三十人の騎士を突き動かす。全員が片膝立ちから立ち上がり――カチャカチャカチャカチャカチャ――腰に提げた騎士剣の柄を次々握るのだ。


 ――――


 アシュレイ様が右手を横に伸ばして彼らを止めなければ、俺は神敵として斬りかかられていたに違いない。内心ゾッとしながらも平静を装って話し続けるしかなかった。


「移動魔術も使えなくなるほどに魔力を使い尽くしましたのでね。回復も兼ねて、駅馬車にて村から町、町から町、町から王都に。それで三週間」


 そこまで言ったら、ようやくアシュレイ様が静かに問うてきた。

「……神罰とは?」


 しかし俺は素直には答えない。国王よりも高貴とされる恩恵持ち様を煙に巻こうと、堂々両手を広げて核心に触れない言葉を並べ立てた。


「そのままでございますよ、アシュレイ様。神意にそぐわぬ不届き者を撃つ神の怒り。知恵と勝利の女神アテナとて、遙か昔には不義の帝国を討ち滅ぼしたことがありましたでしょう?」

「……神罰の主を答えなさい」

「それはご容赦を。オリュンポスの威信に関わることですから。僕が今、アシュレイ様の前に立って発言しているということ。これが何を意味するか……どうかご理解ください」

「……あなたを殺し損ねた神罰の主を答えなさい」

「アテナ様ではございません。まあ、これについては、あの御方に最も近しいアシュレイ様が一番ご存じでしょう。オリュンポス一お優しいヘスティア様も外しましょうか。魔術の根源たるヘラ様も、魔術に頼る僕では到底勝ち目がありませんから、これもまた違います」


 知恵と勝利の女神アテナの地上代理でありながら、アシュレイ様に人の心を読み取る力はないらしい。いつまでも堂々巡りの俺に少し呆れたようだから。


「わかりました。では聞き方を変えましょう」


 ため息混じりの美声が高い天井に反響する。俺はニコニコしている。


「トーリ・オズロ。あなたは、何をもってオリュンポスの不興を買ったと?」

「さあ。愚かな僕には見当も付きません」

「人道を外れたのではないでしょうね?」


 だが、アシュレイ様の何気ないその一言がきっかけだった。


「………………人道?」

 いきなり俺の顔からトーリ・オズロ風の笑みが消える。


「今、人道とおっしゃいましたか?」


 『誰も悪くない不幸な出会い頭』すら許してくれなかったアルテミスのお仲間が、俺に人道を説いてきた。

 その不条理に一瞬頭が真っ白になって、俺自身の――オーリ・オズロの憤怒と無念が、仇敵たる女神アルテミスの代わりに、女神アテナの地上代理に八つ当たりするのだ。


「では、人の道を大きく外れた『あの神』に、アテナ様から罰を与えてください。公明正大、正義の女神様なのでしょう?」


 狼がごとくに歯を剥き出しにして最大級の敵意をぶつけた俺。

 特別叫んだわけじゃないが、不敬・冒涜と宣告されてこの場で殺されても文句が言えないような顔だった。


 現に――三十人の騎士たちが即座に動き出す。剣を鞘から抜き放つなり、崇拝する現人神に弓を引いた俺に向かって地面を蹴ったのだ。


 同時――グレイとメリッサも動いていた。「何やってんのトーリ!!」「どれだけ馬鹿者だ!!」と、三十の殺意から馬鹿な俺を守るため、俺に背中を預ける形でぴったりくっついてくる。


 しかし――「止まれ」


 すでに動き出した騎士やグレイ、メリッサをピタリと止めたアシュレイ様の制止の声。


 見れば、アシュレイ様が玉座から腰を上げていた。


「やめなさい。あなたたちがトーリ・オズロに斬りかかれば、あなたたちを助けるために私がトーリ・オズロに剣を向けねばなりません」


 三段高い場所から学生三人と騎士三十人を見下ろす彼女は、一言、二言は冷静な顔付きで言い放つのだが、階段を一段下りるたびに表情を柔らかくしていくのである。


「私とトーリ・オズロが本気で戦えば、少なくともこの城はなくなるでしょうね」


 階段を下りきって俺たちと同じ高さに立てば、年相応というべき少女のため息だ。


「しかも、そこまでしても、このふざけた男に勝てるかどうかわからないというのですから」


 アシュレイ様だけが動いていた。

 そして俺の眼前に来るなり俺に視線を合わせて、こう微笑む。


「初めてです。初めて私に怒りの感情を見せましたね、トーリ・オズロ」


 ただ微笑んだだけじゃない。小さく歯まで見せてくれて「ふふふ」と声を漏らした。


「とてもよい気分です」

「…………それは光栄」

「よろしい。あなたの鼻を明かせて清々したので、式典を無断欠席した件は不問に付しましょう。神罰の方は――そうですね、私は立ち入りません。あなたが己自身でどうにかしなさい」


 その時不意に――――アシュレイ様の黒髪が軽く浮き上がったように見えた。いや、黒髪の毛先が確かに桃色の光を放った。


「それをやってみせる力はあるのでしょう? 春祝祭の模擬戦で私と引き分けた天才くん?」


 ――変身――


 毛先から広がった明るい桃色がアシュレイ様の黒髪すべてを染め直し、純白のすそ長ドレスが光の粒子に分解されてから白と赤銅の軽鎧へと姿を変える。


 騎士が着る板金鎧よりも遙かに細身の、アシュレイ様の身体に貼り付くような変形鎧だった。


 まず目を引くのが、豪奢な首飾りで飾った首元からへそ下まで伸びた、胴体部の太い隙間。両脇から回り込むように装甲が貼り付いているものの、胸の谷間やへその穴、柔らかそうな下腹はしっかり生肌なのだ。

 そして鼠径部よりも狭く仕立てられた股間部分。


 白真珠がごとき純白の装甲は、硬く冷たい金属板ではなく、不思議な金属光沢を持つ革水着にも見えた。

 変形鎧を補強するような赤銅の意匠、二の腕の中ほどから始まる白腕甲、膝から下を包み込む白脚甲は、はっきりとした金属だったけれど。


「それでは――『残る一人』に祝福を与えます」


 仕上げに翼を模した赤銅の髪飾りが現れれば変身完了だ。


 なるほど、これがアシュレイ様の正装。オリュンポスの一柱として世界中の人々に信仰されてきた『知恵と勝利の女神アテナの実際の姿』に最も近しい格好なのだろう。


「最後、使命に命を捧げる覚悟があるか聞きますから、ちゃんと『はい』と言うのですよ?」


 桃色の髪。どう言い訳しても凄い露出度の鎧。


 恩恵持ちの異能を生まれて初めて見た俺は、驚きと感心はしたものの……その神々しくも裸同然の御姿をどうにも直視していられなくて。


「わかりましたね?」

「もちろんです。承知しておりますよ」


 今度こそグレイとメリッサに遅れることなくアシュレイ様の前で片膝をついた。視線を落として、真っ白な装甲に包まれたアシュレイ様の爪先だけを見つめてみる。


「騎士団長、出なさい」

「はっ!」


 若くはないが精悍な声が立ち上がると、探索行とやらの式典が正式に始まったらしい。他の騎士たちも定位置に戻って、抜き身の剣を胸の位置に立てた直立不動を始めている。


 そして。

「イスリア王国騎士団団長ゼオル・シズマベルグが、学徒トーリ・オズロに告げる。赤の月、十六夜月の日、先見の神たるアポロンの巫女より滅びの神託が下された。到来するは黒呪竜ゼスボリア。三千年の昔、オリュンポスによる大一掃を生き延びた古き毒の竜である」

 よく響く男の声が言い淀むことなく述べるのは、世界の危機だ。


「永き年月が毒竜から恐怖と自制を奪い去った。誰も知らない穴蔵を飛び立ち、遙か南の空より毒竜は来るだろう。黒き雨が海を汚し、草木を腐らせ、王都アガイアを滅ぼしたのちは世界へと向かうだろう。第一の飛翔地たるイスリアにて食い止めなければ、億万の命が失われ、千年もの暗き時代が始まると予言された」


 長く生きすぎて我を失った毒竜が南からやってきて、世界のすべてに猛毒を撒き散らすのだという。

 毒竜の予測進路に最初にぶつかるこの国がどうにかしなければ、あらゆる生命にとっての未曾有の大惨事になるのだという。


「我らがイスリアは、全霊を持って黒呪竜ゼスボリアを討伐することを決定した。全霊とは、過去と現代の人・智・財すべてを余さず用いることである」


 かつて神々とも戦り合った、三千歳を軽く超える毒竜……想像するだけ背筋が凍る化け物だった。

 そりゃあ、この国のすべてを投入して事に当たるしかないだろう。


「学徒トーリ・オズロ。年若くも比類なき魔術師よ。アテナの栄光と王権をもって汝に命じる」


 優秀ならば俺の弟のような生意気な若造さえも駆り出されるのだ。


「一つ、聖域より『雄牛の短剣』を持ち帰ること。一つ、『泥人形の目覚め』に立ち会うこと。一つ、女神アテナの代理たるアシュレイ様の下で黒呪竜ゼスボリアの討伐に参加すること」


 きっと簡単な任務ではない。

 それでも、トーリ・オズロが――今は弟を騙る俺がやり遂げなければ、たくさんの人が死ぬ。あいつの代わりに役目を果たすことこそが、この世界からトーリを奪った俺の贖罪だと思った。


「以上の三つをもって勇者認定の偉業、『探索行』とする」

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