第2話 魔術師トーリと狩人オーリ(2)
「トーリのことは本当に残念だった。あまり気を落とさないようにな」
「……はい」
「竜の森で人死にが出るのはしょうがないが、お前だけでも生きて帰れてよかった。アルテミス様も、お前ほどの狩人を失うことを惜しまれたのかもな」
「いえ……俺なんてまだまだ未熟で……」
月が明るい夜。
今日何人目かわからない、俺を心配して家を訪ねてきてくれた村の人。
俺は、村の外れに建つ我が家の前で、鍛冶職人のヨロフさんを相手していた。
「心配するな。トーリならきっと大丈夫だ。村のみんなで花を贈ったし、司祭さんもよい贈り名を考えてくれた。あの葬式なら、冥府でペルセポネ様の目にも留まるだろう」
「……はい。ありがとうございます」
北に広がる『古き竜の森』がもたらす実りと、少しの農業、少しの養蚕で生きる小さな村。俺とトーリが生まれ育ったローズリーズという名の山間の小村は、朝からどこか寂しげだった。
昨晩――血まみれの俺が、冷たくなったトーリを連れ帰ったからだ。
村長と教会の司祭さんから村中に話が行き渡り、自然と村の住人すべてが葬儀に参列した。
冥府を治めるハデス神は厳格で奉納品を好まないという。だから人々は、ハデス神の妻である女神ペルセポネの慈悲を願って、たくさんの花を死者に捧げるという。
誰もが優しかった。
村の誰もが、『残念だったな』と、『寂しくなるわ』と俺の肩を叩き、トーリの火葬の瞬間まで花を供え続けてくれた。
そのうえ、トーリの遺骨を墓地に埋めるのにも付き添ってくれて……。
「困ったことがあればなんでも言ってくれ。オレもかみさんも喜んで手伝うから。」
今もこうして、村の外れも外れ、村を見下ろせる丘の上にある俺の家まで足を運んでくれる。
昼間あれだけ慰めてくれたのに、まるで念を押すように『困ったことがあれば助けるから』と伝えに来てくれるのだ。
「オーリ、お前は命を拾ったんだ。くれぐれもアルテミス様への感謝を忘れないようにな」
「はい。ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げてヨロフさんの帰りを見送ると、軽く月を仰いだ。
……夜九時過ぎ……多分、これ以上の来客はないだろう。
それで、ため息を吐きつつ玄関戸を開けて我が家に入れば――――ひどい惨状だ。
衣類や食器が床に散乱し、机が、椅子が、本棚がひっくり返っているという、盗賊団にでも押し入られたかのような惨状が目の前に広がっていた。
「………………」
俺は驚かない。誰の仕業かも、大暴れの理由もすべて知っているからだ。
天井から吊り下がったランプが照らすグチャグチャの室内を力なく進み、ベッドに座り込んだ。
「……………………………………………………………………………………………………」
長い長い沈黙のあと、「……ははは……」と小さく笑った。
「……アルテミス様への感謝、か……」
もしも、俺とトーリが女神アルテミスの水浴を見てしまったのだと、それで女神に呪われた俺がトーリを噛み殺したのだと真実を話したら、村の人たちは俺を迫害するだろうか。
ベッド近くの床には、首と腕が折れたアルテミスの木像が転がっていた。
――彼女自身が世界最高の弓使いであることから、狩人の守護を司るというアルテミス――
この世の中、あらゆる猟師が狩りの安全と成功をアルテミスに祈る。
凄腕の猟師だった俺の父親も、自らナイフで木像を削り出し、狩りの安全と成功をアルテミスに祈った。
それなのに、だ。
オーリ・オズロという若い猟師だけが、昨日から、女神アルテミスに背を向けていた。
彼女への信仰を捨て去り、本気の本気で猟の女神アルテミスを殺してやりたいと思っている。
あのド腐れ女神が、『不幸な出会い』も許してくれない狭量な処女神だったから。
「……………………………オリュンポスの奴らさえ、アラスティアに来なかったら……」
ゼウス。
ヘラ。
ポセイドン。
ヘルメス。
アフロディーテ。
アレス。
デメテル。
ヘファイストス。
アテナ。
アポロン。
ヘスティア。
……アルテミス。
この世界に君臨するオリュンポス十二神。そして、そんな十二神と共に立つ数多の神たち。
俺たちの世界――アラスティア――には、つい三千年前まで神様なんていなかった。
その頃のアラスティアといえば、おそろしい悪魔やら、人喰いの魔獣やら、よくわからない怪異やらが隆盛を極めた暗黒世界で……人間はただ蹂躙されるだけの存在だったらしい。
一生を奴隷として生きるか、無残に喰い荒らされるか、弄ばれたあげくに殺されるか。
大帝国から小国まであらゆる国家がことごとく滅ぼされ、勇気ある英雄たちは一人残らず抹殺され、人間という種族は遠くない絶滅を待つだけだったという。
そんな最悪の時代――オリュンポスの神々は、突然やってきた。教会でそう教わった。
見知らぬ神々は言った。
自分たちは『遙かガイアの地』から空を越えて来たのだと。
億万の救いを求める声が、自分たちをこの地に呼んだのだと。
そして、『大戦に慣れた神々』は、天地を引き裂くほどの力でアラスティアの掃除を行った。
悪魔も、魔獣も、怪異をも殺し尽くし、『この地は人道にて治めるがよかろう』と言った。
――以来、オリュンポスの神々がアラスティアの神様だ。
安全と信仰がもたらされただけじゃない。
知識と、技術と、魔術。
知恵と勝利の女神アテナからは都市造りの知識が、鍛冶の神ヘファイストスからは鍛冶の技術が、最高神ゼウスの妻たる女神ヘラからは魔術の力が人間に贈られた。
双子の兄弟オーリとトーリが魔術の才を持って生まれたのも、女神ヘラの恩恵だ。
魔術師としては並程度の才能であるオーリ・オズロでさえ数万人に一人という幸運だが、弟トーリ・オズロの方は尋常な才能じゃなかった。
村を訪れた旅の魔術師に、半年ほど修行を付けてもらっただけで師を追い越した神童。
兄の俺が魔術師の道を諦めて猟師として働き出すほどの大天才。
なにせ、天才の噂を聞きつけてやってきた魔術学校の副学長が、面倒臭がるトーリの腕を引っ張って魔術学校に連れ帰ろうとしたほどだ。
『隣村に出た悪魔? ああ、あれなら倒したぞ。魔術でどうにかできる相手だったし』
『今な、魔獣を使役する新魔術を考えてんだ。魔獣の方が牛や馬よりも馬力があるだろ? 畑を耕すのに使えないかと思って』
『退屈だぞー魔術学校。僕が知ってることしか授業でやらねえし、多分、兄貴でも余裕でやっていけるよ。ま、馬鹿野郎どもと馬鹿やんのは楽しいけどさぁ』
あいつは……トーリは、いつも笑って、いつも減らず口を叩いて、無理難題を軽く飛び越えてきた。きっと、人類史に残るような偉業を何度も達成するだろう才能だった。
………………………………………………俺なんかが奪っていい命じゃなかった……。
「くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ」
頭を抱えて何度もうめいた。いつの間にか大粒の涙をこぼしていた。
もうあいつに会えないことが、あいつに話しかけてもらえないことが、ただただ寂しかった。
――――――――――――――――
ベッドに座り込んだまましばらく泣き続けた俺は、いてもたってもいられないほどにトーリが恋しくなってふらふら立ち上がる。
おぼつかない足取りで探したのは、トーリの荷物だ。
全寮制の魔術学校から帰省したトーリが背負っていた革の背負い袋。俺が手を入れると、すぐさまあいつの手帳が指先に当たってくれた。
なんの変哲もない簡素な手帳だが、ページを開けば見慣れた文字がびっしり並んでいる。
「…………お前は……ここで死ぬ気なんてなかったんだな……」
内容は複雑な魔術式の構築メモだった。
魔術とは、女神ヘラから贈られた『世界や万物に対する命令権限である魔力』を組み上げて引き起こす奇跡のことだ。
魔力さえ正しく組み上げれば、世界の法則をねじ曲げて火の気がないところに炎が巻き起こる。国一番の詐欺師だって物言わぬ操り人形に変えることができる。
「……本当……トーリは凄いよ……」
強力な効果になるほどに複雑かつ膨大になっていく魔力の組み上げ――魔術式――だが、トーリの手帳にあった『その魔術式』は……まるで広大な迷路のような……巨大な城の設計図のような……めまいがしてくる代物だった。
ただ一つの魔術式のことだけで手帳が埋まっていた。
何が書かれているかはわかる。トーリのメモだからだ。
『僕が楽しく教えてやるから兄貴も魔術師になればいい。結構便利だぞ?』
俺は、トーリに魔術を教えてもらった。
小さな頃からずっと俺の教師になっていたせいか、トーリには、魔術のことなら何かにつけて俺の理解力に合わせる癖があった。
そして、この手帳を見る限り――俺を一人村に残して魔術学校に入学したあとも、その癖は残り続けたみたいだった。
――トーリの奴が何をしようとしていたのか知っておきたい――
俺はその一心で手帳をめくり続け、どうしてトーリが村に帰ってきて地竜の牙と心臓を求めたのかを考え続け……やがて眉をひそめてうめいた。
「……神でも、殺す気だったのか……?」
トーリの手帳を埋め尽くした未完成の魔術式、それは未知の攻撃魔術だ。
炎に関連する魔術らしいことはわかった。
ただし、それはただの炎ではない。まるで地上に太陽を召喚するような火力。従来の炎魔術の数十億倍という威力を目指した魔術だったのだ。
わけがわからない。そもそも、こんな魔術を必要とすべき『敵』が思い付かない。
それでも俺は、「トーリ……お前……」魔術式ばかりの手帳の中に魔術式とは関係ないトーリの走り書きを見つけて、湧き上がる感情に奥歯を噛んだ。
――我が友のために――
それが魔術の名前なのか、それとも決意表明なのか、それはわからない。
わかるのは――この馬鹿げた大魔術を必要としているトーリの友達がいる――それだけだ。
強大な何かと戦うために、トーリは必死に準備していたのである。
双子の兄の勘でしかないのに、なぜだかはっきりとした確信があった。
「…………」
俺はベッドから立ち上がって、壁にかけてあった長い猟銃を手に取った。
トーリと森に入った時に持っていた猟銃は、昨日、いつの間にかなくなっていた。多分アルテミスに呪われて狼に変えられた時に落としたんだと思う。
これは――俺に与えられたもう一つの猟銃。
長く伸びた銃身と火薬を増やした専用弾の使用で、長距離からの狙撃性と地竜の胴さえ貫通する威力を誇る逸品だ。
取り回しに苦労するから深い森の中で使うことは滅多にないが、二ヶ月前に突如として村を襲った『教会よりも巨大な飛竜』はこの銃で撃ち落とした。
「……………………わかったよ、トーリ。俺がやる。俺が、お前の代わりになってやる」
――トーリの代わりに、俺がトーリの友達を守る――
ちょっとばかし魔術を使えるだけの猟師に天才魔術師の代わりなんて務まるわけがない。
それでも俺には、この銃がある。天才トーリ・オズロ直伝の魔術の数々がある。どんな怪物が相手だろうが、少しは役に立つだろう。
『……でも……僕がいないと、あいつら危なっかしいからな……』
最期の会話でトーリはそう言っていた。トーリに心残りがあるとすれば、友達のことだった。トーリが願うことならなんでも叶えてやりたかった。
敵に関する情報がないせいで下手に動けないのが難点だが、俺なら魔術学校にも忍び込める。
だって、俺とトーリはまったく同じ顔で、誰にも聞き分けられないほどにそっくりな声で、あいつが魔術学校に入学するまでいつも一緒だったから。
トーリの物真似こそが俺の十八番だ。弟のことなら俺が一番わかっている。
そして、トーリに成りすましてあいつの友達のそばにいれば、いつか敵が来るだろう。
ひどく簡単な話だった。
…………………………静寂の室内。
俺はふと、『魔術学校に戻ったトーリ』を真似してみようと思って小首を傾げた。
「よう、学友諸君。僕がいなくて不安だったかよ?」
あいつなら、開口一番、必ずこう笑う。
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