神に愛された大魔術師――の双子の兄、才能は出涸らしで、『人狼化』の呪い持ち
楽山
第1話 魔術師トーリと狩人オーリ(1)
見るな、狩人アクタイオン。谷の泉で裸の女神に出会ったならば。
嘆け、狩人アクタイオン。怒る女神の呪いにて、お前は鹿に変えられた。
走れ、狩人アクタイオン。鹿となったお前はもはや五十の犬の王ではない。
哀れ、狩人アクタイオン。黒き群れに追い付かれ、首噛み、八つ裂き、犬の餌。
これが狩人アクタイオン――遠い遠いガイアの地にて最も不運な男という。
――ガイア遺聞歌集より『アルテミスとアクタイオン』――
◆ ◆ ◆
「ようやく気が付いたかよ、バカ兄貴」
意識を取り戻すと見慣れた顔を地面に押し倒していた。
夏の昼間とは思えないほどに薄暗い森の奥、滔々と流れる小川のそば、砂利の地面。
聞こえるのは川のせせらぎと、「はあ、はあ、はあ――」俺自身の粗い呼吸音だけだった。
二人っきりだ。
俺と同じ顔をした双子の弟と二人っきり。
「女神の呪いなんかに負けやがって。僕がなんとかしてやったんだから、感謝しろよな」
相変わらず口が悪い。
母さんの腹の中から一緒だったのに、どうしてこんなにも性格が違うのかと思う。
こんな不良みたいな口ぶりで、魔術学校で上手くやれているのかと心配になる。
「……でも、よかったよ。兄貴だけでも助けられて」
しかし、俺の大事な弟――トーリ・オズロは、口の悪さに似合わない、死ぬほど優しい顔で俺を見つめていた。
黒髪痩躯の十七歳。
魔術学校にその名と美形を轟かせる、数千年に一人の大天才。
まったく同じ顔でトーリだけが美形ともてはやされるのは、彼がよくしゃべり、よく笑うからだろう。
村一番の美人と言われた母さんもよく笑ってくれる人だった。
俺とトーリはそういう顔なのだ。
『華やか』が似合うというか、おしゃべりと笑顔が苦手な俺が美形と認識されないのもしかたないことなのだ。
「怪我してないか? とんだ災難――」「しゃべるなトーリ!!」
慈愛の女神ヘスティアが宿ったかのような穏やかな微笑みで俺に語り続けるトーリ。俺はそんな弟を慌てて怒鳴りつけた。
だって……俺が組み敷いたトーリ……その首から下が血に染まっていることに気付いたからだ。
首の付け根から左の肩峰にかけて『巨大な何か』に喰われたせいで、左肩がまるごとなくなっていたからだ。
金糸で飾られた黒軍服と真紅のマントを組み合わせたような魔術学校の制服が、出血多量でぐっしょり濡れていた。
大丈夫か? なんて軽々しく聞ける怪我じゃない。
どこからどう見たって致命傷だった。
「しゃべっちゃ駄目だ!!」
とにかく血を止めないと――そう焦った俺は咄嗟にトーリの傷口を押さえようとするが。
「……え?」
肉のほとんどを失ってへし折れた鎖骨まで露出したトーリの左肩に現れたのは、あまりにも巨大な毛むくじゃらの右手。
長い五指の先に鋭い爪を備えた怪物の右手だった。
ギョッとして右手を引いたら、怪物の右手が俺の反射に応じた。
俺の思うとおりに動いたのだ。
「な、なんだこれ!? なんなんだこれはっ!?」
両手を持ち出して手首を回転させる。驚愕にわなわな震える指を曲げてみる。
これも全部動いた。
今朝、トーリの奴に朝食を作ってやった時のように。三日前、地竜を仕留めるために猟銃の引き金を引いたあの時のように。
――――――
トーリの上から飛び退いて、小川へと身を乗り出した俺。水しぶきが顔にかかるのも気にせず、流れる水に映った俺自身に目を凝らす。
「覚えてるか兄貴? 思い出せるか? 僕たちに何が起きたか」
力いっぱい絞り出すようなトーリの声。
しかし俺はすぐさま言葉を返してやれなかった。
「……嘘、だ……」
――俺の顔じゃ――人間の顔じゃなかったから――
わずかな陽光に光る水面が見せてくれた真実。それは、俺の顔面が『口から血を滴らせる灰色の狼』に、俺の全身が『二足歩行する灰色の巨狼』に変わっているという悪夢だった。
水に濡らした手で頬をなでても元には戻らなかった。
「ほうけてんじゃねえ。思い出せ兄貴――オーリ。僕たちに何が起きたか」
「……なんで……なんで、俺の身体……」
「甘えんな。ちゃんと考えろオーリ。姿形はそんなんでも、れっきとした人間だろうが」
「…………………………アルテ……ミス……?」
「そうだ。何があったか言ってみろ。少しは落ち着くから」
優しいトーリにうながされ、俺は今にも泣きそうな声を上げる。
「……先週……先週だ。お前がいきなり村に帰ってきて……竜の牙と心臓がしこたまいるって。それで毎日一緒に森を歩き回って……」
「そうだ」
「俺は九頭分あれば十分だろうって……でも、お前があと一頭だけってせがむから」
「そうだ」
「ああ、クソ――お前のわがままなんて聞かなきゃよかった。そうしてれば、変な霧に迷うこともなくて、あの泉に辿り着くこともなかったんだ」
「そうだ」
「………………アルテミス……俺たちは、アルテミス様の、水浴びを見てしまったんだろう?」
「そうだ。僕らが迷い込んだあの泉は、この世ならざる神域だ。さすがは『古き竜の森』、猟の女神アルテミスの狩り場でもあったとはな」
いつの間にか泣き出してしまった俺は、「……これは……アルテミス様の呪いか……?」そう絶望しつつ、小川の表面に現れた狼の化け物をもう一度見つめる。
川に揺らめく灰色狼の目も涙で光っていた。まるで、か弱い人間のように。
「『哀れなアクタイオン』と同じだよ。つっても僕らには猟犬がいなかったからな、兄貴が犬の化け物に変えられた。ったく、ド腐れ女神めが。趣味が悪すぎる」
「……すまん……俺がこんな怪物になったせいで……」
「気にすんな。たいした怪我じゃねえから」
馬鹿な、気にせずにいられるわけがない。後悔せずにいられるわけがない。
俺の口を濡らす血はたった一人の弟の血液だ。俺が胃袋の中に感じている『コレ』は、大切な弟の一部なのだ。
俺が、俺の牙が、弟トーリに致命傷を与えてしまったのだ。
「ごめん。ごめんなぁ」
トーリのもとに戻って、大きく醜い右手でそっと傷口を押さえる。
真っ赤な肉と折れた骨に触れたはずなのにトーリは痛がらなかった。
それどころか、力の入らない右手をなんとか持ち上げて、狼の鼻を軽くなでてくれる。
「兄貴はもう大丈夫だ」
トーリにそう言われ、俺は泣きながら「わかった」とうなずいた。
強がりや気遣いなんかじゃない。
結局のところ、俺は双子の弟のことを一番信じている。
口が悪くて、お調子者で、時々馬鹿みたいな嘘もつくけれど、本気で俺を騙すことはない。物心ついた頃から俺の前に立ち、泣き虫な俺の手を引いてくれた優しい弟……。
しかもトーリは、魔術の女神ヘラに愛され、若年ながらも万の魔術を自在に振るう大魔術師だ。学生の身でありながら、たった一人で大悪魔の覆滅すらも成し遂げている。
――自慢の弟が『もう大丈夫』と言ってくれたならば――
オリュンポスの神々に託宣されるより心強かった。『わかった』以外の言葉が出ようものか。
俺のうなずきに安堵したのか、トーリの声が少し弱くなった。
「わかったら僕を置いて逃げろ。ド腐れ女神が来るぞ」
そして次の瞬間だ。
――――っ!?
誰かの視線を感じるなりトーリを抱えて川の中へと飛び退いた俺。
直後、数百本に及ぶ銀の矢が森の暗がりから降り注いで、俺とトーリのいた河原を広く射抜いた。
石を砕き、砂利を穿ち、まるで綿に針でも刺すかのごとくに河原のすべてを貫くのだ。
「アルテミス様――!?」
銀の矢。
人の腕力では不可能な威力。
すぐさま猟の女神アルテミスの業であると気付く。
気付いたからこそ俺は逃げる足を止めなかった。
「お聞きくださいっ!! 俺たちはただ――ただ道に迷っただけで!!」
赤子でも扱うかのごとくに血まみれのトーリを抱き直しつつ――ゴツゴツした川底を――向こう岸の河原を――土の地面を――枯れ葉溜まりを蹴るのだ。
全身全霊の全力逃走。
たったの十歩で最高速度。
自在に動く獣の手足が、俺自身とトーリを風の速度で運んだ。
「生きろよトーリ!! 俺が、必ず連れて帰ってやるからっ!!」
どれだけ深い茂みであっても獣の疾走の障害にはならない。
どれほどの速度でジグザグに走っても俺の両目が景色を見失うことはなく――大樹の幹――苔むした巨石――人の背丈を超える崖――この森にあるすべての障害物が俺の足場となった。
不意に、アルテミスの一矢。
背後から飛んできた銀の矢が、俺の隣の大木をぶち抜いていく。
「ちくしょう! ちくしょうっ!!」
森の中をジグザグに走り回っていなければ、背中から心臓を射抜かれていたはずだ。
猟の女神アルテミスは決して獲物を逃がさない。
オリュンポス十二神の中でも『特別男嫌いであらせられる処女神』のことだ。彼女の裸を見てしまった俺とトーリは、獲物どころか『仇敵』に昇格しているだろう。
その証拠がこのふざけた矢の数。
河原で第一射を喰らって以来、矢の止まる時間がない。森の奥から次々飛んでくる。
だからこそ、だ。
「帰るんだ!! 帰るんだよっ、俺たちは!!」
だからこそ俺は必死に思い出していた。
俺がこの『古き竜の森』に入り始めて五年――この五年間で逃した獲物の数々を。猟銃の引き金を引いた瞬間、どう動かれて仕留め損なったのかを。
年老いた地竜。
金色に光る牡鹿。
一本角を生やした兎。
双頭の大猿。
闇を纏う細身の竜。
俺が勝てなかった強敵たちの動きを模倣する。なりふりなんて構っていられなかった。
――あえて隙をさらしてから横に跳ぶ。
――最も速度が乗った瞬間に行う無理矢理な急停止。
――時には自らずっこけるのも一つの手だ。
――大樹の幹をぶん殴ることで、通常あり得ない軌道変更を成し遂げ。
――茨の茂みに頭から突っ込むことで姿を隠した。
俺の身体ならどんなに傷付いたっていい。代わりにトーリだけは絶対に守り抜く。
「なあ、兄貴」
俺の腕の中から疲れた声が聞こえたから、俺は走りながら「どうした?」と静かに応えた。
「……母さんのシチューが食いたいなぁ……」
「そうだな。俺も食べたいよ」
「……五年も食ってないもんな……もう、どんな味だったかも忘れちまった……」
「だな。親が生きてる間にもっと色々聞いておくんだったよ」
「……昨日食った兄貴のシチュー……あれが世界で二番目だ……芋は、もう少し小さく切ってくれると、ありがたいけどな……」
「じゃあ次は目いっぱい小さくしてやる。地竜の肉も丸一日煮込んでさ」
「……ははは……そりゃあ美味そうだ……」
「その傷じゃしばらく学校は無理だろう? 元気になるまで家でゆっくりしてればいい」
「……そうだな……そう、したいな……」
「また魔術を教えてくれ。俺にだって魔術の基礎はあるんだ。そろそろ大魔術師って呼ばれたい」
「……でも……僕がいないと、あいつら危なっかしいからな……」
「友達には俺が頭を下げるよ。ちゃんと学校まで行って事情を話すから」
「………………兄貴……ありがとな……」
「いきなりなんだよ。家に帰ったら手当てしてやるから、感謝ならそのあとにしてくれ」
言葉を交わせば交わすほどに、弱くなっていくトーリの声。
嗚咽混じりになっていく俺の声。
サヨナラを告げられたわけではない。
サヨナラを告げたわけでもない。
「――ありがとう――僕と一緒に生まれてくれて――」
「…………お、俺の方こそ…………ありが、と……」
ただ『ありがとう』と言い合っただけだ。しかし俺は。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺は咆吼をあげた。
嘆きの咆吼は、巨狼の雄々しさなど帯びず、どこまでも――どこまでも人間の泣き声だった。
耳の奥でトーリの声が聞こえ続ける。
もうしゃべってはくれない弟の声が、いつまでも耳に残っている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
泣きじゃくりながら走り続ければ、ひたすらに走り続ければ、少しずつ、少しずつ両腕にトーリの重さを感じ始めた。ついさっきまで羽根のようだったトーリの重さに足を取られた。
いつの間にか女神アルテミスの矢が飛んでこなくなった。
やがて、ひどく見覚えのある『森の入り口』に出た。
――それは、汚れた素足で青草を踏む音で――
――それは、あちこち破れたズボンで力なく膝をつく音で――
「ありがとう」
俺は、獣の灰毛に包まれることのない裸の上半身で、トーリの亡骸をしっかり抱き締める。
俺が殺してしまったトーリを抱きながら、夕暮れが終わるまでその場で泣き続けた。
明るい森の入り口。綺麗な夕陽が差し込む開けた場所。
「俺と一緒に生まれてくれて……っ」
いつまでも、いつまでもトーリの声が耳に聞こえていた。
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