第二章 紙魚(しみ)の迷路

 1


 放課後の図書室は、時間の流れが止まったような静寂に包まれていた。

 空調の低い唸り音と、ページを捲る乾いた音が、時折その静けさを揺らすだけだ。


 図書委員の当番である未咲は、カウンターでの貸出業務を他の委員に任せ、奥にある閉架書庫へと入った。

 ここは、生徒が自由に出入りできない場所だ。重い鉄の扉を隔てた向こう側には、古い全集や郷土資料が眠る、迷路のような書棚の列が広がっている。


 空気は乾燥し、酸化した紙特有の甘酸っぱい匂いと、微かな埃の匂いが立ち込めていた。

 未咲は脚立に上がり、返却された古い文学全集を高い棚へと戻していく。

 高い場所にある窓からは、西日が長く伸び、舞い上がる塵を金色の粒子として照らし出していた。


「……そこ、分類番号が違う」


 不意に、真下から声がした。

 未咲は驚きのあまり、手に持っていたハードカバーの本を取り落としそうになった。慌てて抱きかかえ、下を見る。

 城村准が、脚立のすぐ横に立ち、見上げていた。

 いつの間に入ってきたのだろう。鉄の扉が開く音など、全くしなかったはずなのに。


「城村くん……ここ、立入禁止だよ。鍵はどうしたの」


 未咲は声を潜めて言った。書庫の中とはいえ、扉一枚隔てた閲覧室には、司書の先生も他の生徒もいる。


「職員室の鍵束、一本だけ形状が単純だったからな」


 准は悪びれる様子もなく、ポケットから銀色の鍵を取り出して見せ、すぐにしまった。

 ピッキングか、あるいは合鍵を作ったのか。その手際の良さが、彼への恐怖と好奇心を同時に掻き立てる。


「どいて。……戻らなきゃ」

「まだ終わってないだろ」


 准は顎で、未咲が抱えている残りの三冊の本をしゃくった。

 彼は脚立の下に陣取り、降りようとする未咲の退路を塞ぐように立っている。


 2


「手伝ってやるよ」


 言葉とは裏腹に、彼の声は悪戯を企む子供のように低く、愉しげだ。

 准が脚立に足をかける。キシリ、と金属がきしむ音が、静寂の中で不吉に響いた。


 狭い脚立の上で、未咲の腰の位置に、准の顔が近づく。

 未咲のスカートの裾が、彼の肩に触れた。


「やめて……誰かに見られたら」

「見えないよ。ここからは」


 准の顔が、未咲の太腿の裏側に近づく。

 スカート越しの淡い温もりが、未咲の肌に伝わった。

 未咲は身体を硬直させ、棚に並んだ古い背表紙を見つめることしかできなかった。


「いい匂いがするな」


 准が呟いた。それは古書の匂いのことではないと、未咲には痛いほど分かった。

 彼の吐息が、太腿の裏側、スカートの生地を通して肌に染み込んでくる。

 准の手が、未咲のふくらはぎに触れた。ハイソックスの上から、筋肉の張りを確かめるように、ゆっくりとなぞり上げていく。


 その時、閲覧室の方から、誰かの足音が近づいてくる気配がした。

 司書の先生だ。足音は鉄の扉の前で止まり、ドアノブがガチャリと回される音がした。


 未咲は恐怖で息を止めた。

 しかし、准は動じない。彼は素早く未咲の背後に回り込み、脚立の上で未咲を抱きすくめるように体勢になりながら、彼女の口元を手で塞いだ。そして、もう片方の手で未咲の手首を掴み、無理やり棚の隙間の暗がりへと引き込んだ。


 鉄の扉が開き、書庫の中に光が差し込んだ。

 先生が中を覗き込んでいる。

 二人の身体は、狭い書棚の間で完全に密着していた。

 准の心臓の音が、背中越しにドクン、ドクンと伝わってくる。それは恐怖による早鐘ではなく、獲物を待ち構えるような、力強く落ち着いたリズムだった。


 先生が出て行き、再び鍵がかけられる音が響くまで、二人は石像のように動かなかった。

 薄暗い書庫の中、無数に並ぶ言葉の墓場のような静寂の中で、二人の荒い息遣いだけが、秘密の儀式のように響き続けていた。

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