戻れぬ夏の共犯者

森崇寿乃

第一章 雨音の遮断壁

 1


 六月の雨は、校舎を濡らすというよりは、世界そのものを灰色の膜で覆い隠すようだった。

 放課後のチャイムが鳴り終わってから三十分。激しさを増した雨足が、窓ガラスを暴力的な音で叩いている。


 沢村未咲さわむらみさきは、誰もいないはずの地歴準備室の重い引き戸を、音を立てないように細心の注意を払って閉めた。廊下の冷たい空気とは対照的に、部屋の中は古紙とかび、そして埃の匂いが充満し、肌にまとわりつくような湿度が支配していた。


「……遅い」


 部屋の奥、うず高く積まれた古地図の隙間から、気怠げな声が落ちてきた。

 城村准きむらじゅんは、窓際の教卓に腰掛け、文庫本を開いていた。外の暗さのせいで、彼の顔の半分は影に沈んでいる。だが、本から上げられたその瞳だけが、暗がりの中でビー玉のように硬質で、冷ややかな光を放ち、未咲を射抜いた。


「委員会が長引いて……ごめんなさい」


 未咲は言い訳を口にしながら、自分のブラウスの胸元を無意識に手で押さえた。

 渡り廊下を走ってくる間に、横殴りの雨に打たれたのだ。薄い夏服の生地は雨水を吸って重くなり、肌に吸い付いている。その下のキャミソールのラインや、微かに透ける肌の色が、残酷なほど鮮明に浮かび上がっていた。


 准は本を閉じ、教卓の上に無造作に投げ出した。

 彼が床に降りる。その足音は、雨音にかき消されそうなほど軽い。忍び寄る夜の気配そのものだった。


「鍵は?」

「……かけた」


 未咲の答えを聞くと、准は口の端をわずかに吊り上げた。

 彼はゆっくりと未咲に近づいてくる。一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、未咲の心臓は肋骨を内側から叩くように警鐘を鳴らした。逃げなければならない、という理性の声とは裏腹に、靴底が床に縫い付けられたように動かない。


 准が未咲の目の前で立ち止まった。

 距離は三十センチ。

 彼から漂うのは、制服についた柔軟剤の甘い香りと、彼自身の奥から滲み出るような、乾いた苦味のある匂い。それが未咲の鼻腔をくすぐり、思考を麻痺させる。


「ひどく、濡れてるな」


 准の声は低く、事実だけを確認するものだった。

 彼は手を伸ばし、未咲の額に張り付いた前髪を指先で掬(すく)い上げた。冷たい雨水を含んだ髪と、彼の指先の火傷しそうなほどの体温が、皮膚の上で混ざり合う。


「風邪、引くぞ」

「……大丈夫」


 強がって見せた未咲の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 准の指が、前髪から頬へ、そして顎のラインへと、ゆっくりと滑り落ちていく。まるで陶器の美術品を鑑定するかのような、慎重で、それでいて所有欲を隠さない手つきだった。


 2


「心臓の音、ここまで聞こえてる」


 准の言葉に、未咲は耳まで朱に染まるのを感じた。

 外では雷鳴が轟き、一瞬、部屋の中が青白く照らし出された。その光の中で、准の瞳が、飢えた獣のように細められたのを、未咲は見た。


「……城村くんのせいだよ」


 未咲がようやく絞り出した言葉は、雨音にかき消されそうなほど弱々しかった。

 准はふっと息を漏らすように笑うと、未咲の耳元に顔を寄せた。彼の唇が、耳たぶに触れるか触れないかの距離で止まる。


「もっと、うるさくしてやる」


 低い囁きと共に、准の手が未咲の濡れたブラウスの肩口に触れた。

 ひやりとした生地越しに、彼の掌の熱がじわりと侵入してくる。それは、冷え切った未咲の体を芯から溶かすような、危険な熱量を持っていた。


 廊下の方で、誰かの足音がしたような気がした。

 巡回の教師か、居残りの生徒か。

 未咲の体が強張る。だが、准はその緊張を楽しむように、肩に置いた手に力を込め、未咲を壁際へと追いやった。


 背中が冷たいスチール棚にぶつかる。

 逃げ場のない壁際で、未咲は准の熱い視線と体温に包囲された。

 激しい雨音は、二人を世界から隔離するカーテンのように、いつまでも降り注ぎ続けていた。

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