9.母になる夜

 


 腕の中で、リズが頭を預けてくる。


 柔らかい髪が私の胸元に触れて、ふわりと花のような匂いがした。まぶたは半分落ちかけ、長い睫毛が影をつくっている。


もう限界、という顔だわ。レオナール様が、こんな時間に連れ出すからだわ。



「リズ、もう眠いのかな?」



 ラルが心配そうに覗き込む。小さな手が、そっとリズの腕を指先でつつく。




「もう寝た方が良さそうだな」



 レオナール様も眉を下げるけれど、原因はあなたですからね?




「レオナール様、急でしたので部屋の用意もしておりませんの。ですから、私の部屋に連れていきますね」



 一人で眠らせるなんて、まだ無理。知らない場所だもの。寂しくて泣いてしまうわ。




「それなら、僕、リズに本を読んであげるよ!」


 ラルの声がぱっと明るくなる。




「お母様、先に行ってて。僕、部屋からお気に入りの本持ってくるから!」


 まあ優しい子。さすが私の息子。




「じゃあ、私が運ぼうか。クラリス、こっちおいで?」


 レオナール様がそっと手を差し伸べる。




「いや!」


 差し出された手が空を切り、宙に取り残された。指先がわずかに震えて見えるのは気のせいかしら。


 リズは、ぐっと私にしがみついたまま。顔を埋めた。



「い、嫌? どうして?」


 レオナール様の声が、少し傷ついていた。



「眠くて機嫌が悪いのでしょう、きっと」


 私はさらりと言ってみせる。



「あなた……ルーシーだったかしら? リズの寝支度を手伝ってちょうだい」


「かしこまりました」



 リズ付きの侍女、ルーシーが一礼する。美しい所作。不思議と安心感がある。聞いていた通り優秀な侍女なのね。



「レオナール様は、ついて来てくださらなくて大丈夫ですよ。それでは、おやすみなさいませ」


「え? あ、えっと……おやすみ、ライラ、クラリス」




 まだ三日しか会っていない相手と寝室を共にする。そんな劇的展開、起きるわけがないじゃない。


 


 ルーシーは手際よく着替えを用意してくれた。


 眠そうだったリズは、服を脱がせられ始めた瞬間、なぜか目がぱちくり開いた。子どもって、ほんと不思議。




「お待たせ、リズ!」


 両手に本を抱えたラルが駆け込んでくる。今にもこぼれ落ちそう。ベッドにどさどさと本を積み上げて、得意げに胸を張った。



「これはね、僕のお気に入り。冒険の本なんだ。でも……リズは女の子だから、妖精の本のほうが好きかな?」



 本を差し出しながら、真剣すぎるほど真剣。可愛い。




「リズはどっちがいい?」


「こっち!」



 小さな指が妖精の本をちょんと突いた。




「やっぱり妖精の本だね!」


 ラルの顔がにこりと微笑む。



「うん、僕、これなら上手に読んであげられるよ!」


「ラル? あなたももう寝る時間よ? 読んであげていたら、あなたが眠れないでしょう?」


「あっ……そ、そっか。どうしよう、お母様……」



 困り顔で考えるラル。




「読んであげたいのなら、日中にすればいいわ。今日はお母様に任せて。あなたも寝る準備をしたらここへいらっしゃい。一緒に寝ましょう?」


「僕も一緒? 僕、もう六歳だけど、でも、今日くらいはいいよね? うん、そうする! リズ、まだ寝ちゃだめだよ、もう少し頑張って!」



 嬉しそうに部屋を飛び出していく。

 


「ルーシー、あなたも大丈夫よ。あとは、私に任せて。あなたの部屋は執事に聞いてちょうだい」


「かしこまりました。何かございましたら夜中でもお呼びくださいませ」


「ありがとう。そうするわ」



 リズを気遣う目に、ほっとする。


 


「お母様、来ました!」


 枕をぎゅっと抱えて、ラルが戻ってくる。鼻が弾んでいる。ベッドへぴょんと飛び乗り、リズの近くに座る。


 私がふたりの間に身を滑り込ませると、右にリズ、左にラル。小さな体が左右から寄りかかり、ぬくもりを感じた。



「じゃあ、読みましょうか」


 絵本を開く。


 瞬間、二人の視線がページに吸い寄せられた。妖精たちの淡い光。輝く森。きらきらの粉。ラルが息をのみ、リズはほうっとため息をもらす。


 ページをめくるたび、小さな手が私の袖をつかむ。


 


 けれど中盤に差しかかるころ――


 ぱちぱち瞬いていたリズの目が、ゆっくり、深く、閉じかける。


 首がこくり。


 でも眠りたくなくて、必死に私に寄りかかってくる。ちいさな指で袖をぎゅっと握りしめて。


 しかし、静かな、規則正しい寝息。



「あれ? リズ寝ちゃったよ?」



 ラルもひそひそ声。だけど、そのまぶたも、閉じかけていた。


 読んでいくうちに、ラルの頭が私の肩へすとんともたれかかり、最後のページを閉じると同時に、彼もすうすうと寝息を立て始めた。


 




 弟や妹がほしいとは思ったことがあった。


 でもまさか、こんなふうに息子と娘が突然できるだなんて……。


 怒涛の三日間。


 喜びも戸惑いも、まだ胸の中でうまく整理できない。


 


 二人の寝息を確認して、私はそっとベッドを抜け出した。リズもラルも、幸せそうな表情で眠っている。そっと毛布を整えた。


 


 私のために。

 家族のために。

 この子たちの未来のために。






 ――読まなくてはいけない日記がある。






 もう、知らないふりはできない。私には責任がある。



 私はクローゼットの奥へ歩いていく。床板がわずかに軋むたび、心まで軋むような気がする。箱の蓋に触れた瞬間、指先がぴくりと震えた。


 夜の静けさが、そのまま私の緊張を映し出しているみたい。


 深く息を吸い、覚悟を決めて、蓋を開ける。


 紙の匂いがふわりと立ちのぼった。私は手を伸ばし、震える指で一冊を取り出した。




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