8.娘ができました

「旦那様が、お帰りです」




 ラルと向かい合って食事をしていたところ、侍女のメリッサが緊張を帯びた声で告げてきた。



 いや、まだ“旦那様”ではないのだけれど、そんな細かい突っ込みをしている余裕はない。




「帰ってきた?」




 私が思わず身を乗り出すと、メリッサは深く頷いた。



「はい、帰ってこられました」



 聞き間違いじゃなかったらしい。ちょっと待って、嘘でしょう? 帰ったばかりよね? 帰ったばかりのはずなのに、どうして、もうここに?


 話を聞いていなかったのかしら? 


 まさか、そんなはずはないわ。そうであれば、帰ってすぐ娘を連れてここに向かった、そういうことかしら。




 廊下から、慌ただしい足音がこちらへ近づいてくる。



「ただいま、アイラ、ラル!」



 扉を開けて勢いよく現れたレオナール様。息が弾んでいる。絶対走ってきたわね。



「あれ? お父様。僕の妹は?」



 ラルがきょろきょろと後ろを覗き込む。



「そうですね、娘はどうしたのです」


「ん? もちろん連れてきたよ」



 視線を巡らせても、それらしい影はどこにもない。


 どこに? 小さな女の子が隠れるほど広いホールでもないのに。



「娘はどうしたのです?」



 再び尋ねる。声に、少しだけ苛立ちが混じる。




「ああ、今侍女が連れてくるよ」


「娘は、どうしたの、です!」


「あ、い、今すぐ連れてくるよ、ちょっと待っていて……!」



 なぜ娘を侍女に預けておいて、自分だけ、のこのこ先に来るの。まったく理解できない。





「ふふ、お母様、もう来たね。僕の妹」


 ラルが扉の方をじっと見つめる。期待で胸がふくらんでいるのが、こちらにも伝わってくる。


 口元に嬉しそうな緊張が浮かんでいる。そんな姿を見ると、思わず笑みがこぼれた。



「そうね、嬉しい?」


「はい! あっ、でもまだ、おもちゃを綺麗にしていない。どうしよう」


「ふふ」



 緊張しているのか、妙なところで焦っている。



「今日はもう遅いから遊ぶのは明日ね。明日ちゃんと綺麗にすればいいわ」


「分かった、そうする!」


 張り切って頷くラル。


 扉が再び大きく開いた瞬間、明るい小さな顔が覗いた。


 レオナール様の腕の中にちょこんと収まる小さな影。金色の髪が、光を受けて風に揺れるように見えた。




 まあ! なんて愛らしいのだろう。


 その金色の髪は絹のように柔らかそうで、瞳はレオナール様と同じ澄んだ緑色。小さな手足はほっそりとしていて、幼さが分かる。


 それにしても。


 思ったよりずっと自然に、そして何の躊躇もなくレオナール様の腕に身を預けている。嫌がる素振りは微塵もなく、安心しきっている。


 意外ときちんと父親をしているのかしら。抱きなれているし。



 レオナール様は優しく微笑みながらゆっくりとしゃがむと、そっと床に足をつけさせる。小さな女の子は一歩踏み出し、ふわりと父の手を離して立った。


 その仕草ひとつひとつが、胸をときめかせる。



「さあ、ご挨拶をして」


 女の子はこちらをちらりと見て、目を大きくしてから恥ずかしそうにレオナール様の背後に隠れた。


 けれど隠れ方がいかにも幼くて、隠れているつもりで見えているところが可笑しい。


 思わず、駆け寄りたくなるが、大きな瞳は不安そうで、少し潤んでいる……。




 そうよね。


 よく考えたら周りの大人たちが、私をよく言っているわけがないわ。もしかして、おびえているのかしら。



 女の子は、もじもじと手を閉じたり開いたりしながら、口を開いた。




「クラリスです。さ、さんさいです」


 かわいい。かわいすぎる。


 指は……四本立っている。三歳なのに四本。



 まるで壊れてしまいそうなほど繊細なお人形のようで、ぽってりとした小さな頬は頬擦りしたくなるほどだ。


 



 私は膝をつき、目線を合わせる。ラルも私のまねをして隣にしゃがむ。


 ラルは、じっとクラリスを見る。



「クラリスって言うんだね。愛称は何だろう。ねえ、お母様、リズはどうかな?」



 ラルが、にこにこと嬉しそうに提案してくる。



「いいわね、リズ。かわいいわ」


 思わず同意してしまった。



「クラリス、リズって呼んでもいい?」


 クラリスは、よく分からないといった表情で首を傾げ、それからこくりと頷いて微笑んだ。



「リズ、僕はラファエルって言うんだ。君のお兄様だよ」


 ラルが胸を張る。



「お兄さま?」


「そうだよ、リズのお兄様。仲良くしてね」


「はい」


 リズの視線が私の方へゆっくりと移る。緊張と好奇心の入り混じったその瞳に、私は一瞬言葉を失った。小さな手が少しだけ震えている。きっと、大人たちの空気を敏感に感じ取っているのだろう。




「私は、ええと……お母様?」


「お母さま!」


 ぱあっと花が咲いたように笑うリズ。え? 急にどうしたの?



「そう、そうね。ええと、お母様になる予定? いえ、あなたのお母様よ。そう呼んでくれる?」


「はい、お母さま!」



 リズはおずおずと、でも迷いのない足取りで、レオナール様の後ろから出てきた。


 あら? あらら? そのまま一直線にこちらへ。


 私はそっと両手を広げる。


 次の瞬間、小さな体が勢いよく飛び込んできた。



「ふふ、お母さま」


 ……っ! かわいいわ。息子もかわいいけど娘もかわいいわ。


 抱きしめた腕の中で、リズがくすぐったそうに笑う。執事や侍女たちも顔に安堵を滲ませ、屋敷の中の時間がふっとゆるむ。


 私も思わず目を細めた。ラルが隣からそっと手を伸ばしリズの髪をなでている。



 何やら感動しているレオナール様には、……特に反応はしなくていいわね。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る