6.不穏な言葉
「でね、あそこで僕たちのお食事が作られているんだよ。おなかがすいたときに行くと、シェフのトニーがこっそりおやつをくれるんだ。あっ……! これ、内緒だったんだ」
ラルは目をきょろきょろさせながら、得意げに、そして一生懸命に説明してくれる。
口元には得意げな笑みが浮かび、両手はジェスチャーの嵐で止まらない。胸を張って、自分の知っていることを私に全力で伝えたいのだろう。
それにしても、愛人に与えるにしては、随分立派な邸だわ。資金源はどうなっているのかしら。
「お母様、こっちから外に出られるんだ! 早く早く!」
ぐいっと手を引っ張られ、そのまま中庭へと連れていかれる。
扉を抜けた途端、甘い香りが鼻先をくすぐった。そこには陽に照らされたベンチと、冬の花々が咲いていた。
「ここだよ。僕のお気に入り!」
「まあ、とっても素敵な場所ね。教えてくれてありがとう」
並んでベンチに腰を下ろすと、ラルはひときわ嬉しそうに胸をそらす。
肩をすくめて照れくさそうに笑うその顔が、愛らしくて目が離せない。
春はまだ遠いというのに、柔らかな芝生の緑が光を受けて煌めいてる。完璧に手入れされた庭は、まるで絵本の一ページのようだ。
ラルは、とても優しくて、愛嬌のある子ね。
ラルがこんな風に育ったということは、“ララ”は、愛情深い母親だったのかしら。子供の教育にも熱心だったとか?
頭のおかしい女、そう思っていた。
日記を読んで、先入観だけで人を決めつけてはいけないのだと、改めて思い知らされる。
「ねえ、お母様。ここ、素敵な邸でしょう? 使用人も、とても良い人ばかりなんだ」
ラルは目を輝かせ、胸を張る。自慢したい気持ちが全身からあふれ出ている。
案内中も、使用人を見下すどころか、感謝と愛情に満ちた瞳で彼らを見つめる。悪気のかけらもない。こうして育った子は、素直に美しさを愛するのだと納得する。
「でも、もうすぐ引っ越すんでしょう? ウェストレイの邸に」
……そうだった。忘れていたわ。
「そうね。でも、お母様が落ち着くまで、少しだけ待ってもらえるかしら?」
「もちろんだよ! でもいいの? お母様、引っ越すの楽しみにしてたのに」
「いいのよ。あなたのお気に入りの場所、私も気に入ったもの」
ラルはぱあっと顔を明るくして、嬉しそうに笑った。その笑顔が、花よりも眩しく見えた。
「ねえ、お母様。“あの女”のせいでウェストレイの姓を名乗れなかったけど、もうすぐ僕たちもウェストレイだね」
ふと落とされた言葉に、頭の中で小さな警鐘が鳴る。
“あの女”?
「ん? どうしたの、お母様?」
ラルは首をかしげる。そしてすぐに、はっとした顔。
「あっ! そっか、忘れてるんだね。本当はね、僕たち三年前にはお父様の邸で暮らせたんだ。あの女が余計なことをしなければ」
やっぱり。はっきりと言ったわ。
“あの女”、そして “余計なこと”。これは、この言葉を教えた人間がいる。
「あの女はね──」
「ま、まってラル?」
思わず声が上ずる。
「その“あの女”っていうのは、お父様と、以前お住まいだった方のこと、でいいのかしら?」
「うん。お父様をお母様から奪った人だよ。お母様がそう言ってたんだ」
……ああ。前言撤回。
“ララ”、やっぱり頭のおかしい女だった。
奪ってはいないでしょう。世間的に見ればララが奪ったことになる。
なのに、自分の都合のいい甘い言葉を毒として息子に聞かせるなんて。
私は、ラルにゆっくり問いかけた。
「ラル、私の膝の上に来てくれる? 抱っこしたいの」
「え? ぼく、もう六歳だよ。でも……お母様のお願いなら」
もじもじと指先を絡めながら、恐る恐る一歩。また一歩。最後は勇気を振り絞ったみたいに、ぴょこん、と私の膝に腰を下ろす。
軽い。小さな体温が、ふわりと服越しに伝わってくる。
見上げてくる瞳は、きらきらして、まばたきのたびに長い睫毛が揺れる。
「ラル。私たちがお父様の邸に住めなかったことも、姓を名乗れなかったことも、それは、お父様とお母様である私たちの問題なの。その方のせいなんかじゃないわ」
ぴたりと動きを止めるラル。まん丸な瞳が、揺れた。
「そうなの?」
「ええ。きっと前の私は、少し間違って伝えてしまったのね。だからね、ラル。もう“あの女”って呼び方はしないでほしいの。約束できる?」
ラルは、一瞬迷うように、視線が膝の上の自分の指先へ落ちる。きゅっと拳を握りしめ、また私を見上げる。
そうね、繰り返し言われ続けてきたのだろう。急に全く違うことを言われても混乱する。幼いのですもの。
「うん、わかった。約束する。僕、守れる」
小さな声。でも、その中にある決意が胸に響く。いい子だわ。
そっと頭を撫でると、私と同じ色の細く柔らかい髪が指に絡む。
くすぐったいのか、ラルは肩をすくめながら、嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべた。
ほっと息をついたのも束の間。
「ねえ、お母様?」
ラルは戸惑ったような声で尋ねてくる。
「じゃあ、“あの女の娘”のことは、なんて呼んだらいい?」
また、不穏な言葉が出てきた。
“あの女の娘”ですって?
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