第16話 その優しさは猛毒。あなたが否定しても、この「傷」は私の誇りだ

中間テストが終わり、部活動停止期間が明けた月曜日。  私は朝から、洗面所の鏡と睨めっこをしていた。


「……うーん、まだ消えないか」


 右の頬骨のあたりに、うっすらと青紫色の痕が残っている。  先日の出稽古で、カノンの上段回し蹴りを貰った場所だ。  コンシーラーを重ね塗りして、上からファンデーションを叩き込む。パッと見では分からないレベルには隠せたけれど、角度によっては影になって見えるかもしれない。


「ま、いっか。勲章だし」


 以前の私なら、顔に傷なんてできたら泣いて引きこもっていただろう。  でも今は、鏡に映るその痕を見ると、あの時のカノンの鋭い蹴りの軌道と、自分が放った「重い突き」の手応えが蘇ってくる。  これは、私が戦った証拠だ。


 私は髪をセットし(以前より少し短くした)、カバンを持って家を出た。


 ***


 学校への通学路。  いつもの交差点を曲がろうとした時だった。


「――凛」


 背後から名前を呼ばれ、心臓がドクンと跳ねた。  振り返らなくても分かる。  低くて、少し甘えたような響きのある声。  颯人(はやと)だ。


 無視して歩こうかとも思ったけれど、足が止まってしまった。  振り返ると、自転車に跨った颯人が、少し気まずそうにこちらを見ていた。


「よ、よう。久しぶり」 「……うん。久しぶり」


 テスト期間中は顔を合わせなかったし、その前も電車で逃げるように別れたきりだ。  私たちの間には、見えない壁ができている。


「テスト、どうだった? 凛、数学ヤバいって言ってたけど」 「なんとかなったよ。赤点は回避した」 「そっか。良かったじゃん」


 他愛のない会話。  昔なら、この距離感が嬉しかった。  でも今は、何かが喉につかえているような違和感がある。


「じゃあ、私急ぐから」


 話を切り上げて歩き出そうとした、その時。  颯人が自転車を降りて、私の前に回り込んできた。


「待てよ。……お前さ、顔どうしたんだよ」


 彼の視線が、私の右頬に固定されている。  バレた。  やっぱり、幼馴染の目は誤魔化せないらしい。


「別に。ちょっとぶつけただけ」 「嘘つくな。それ、殴られた痕だろ。それか蹴られたか」


 颯人の顔から笑みが消える。  彼は真剣な眼差しで、私の肩を掴んだ。


「お前、本当に空手やってんのか? だとしても、そんな顔に傷作るまでやる必要あんのかよ」 「……必要とかじゃないよ。部活だから」 「辞めろよ」


 低い声だった。


「見てらんねーんだよ。手もボロボロで、顔にもアザ作って。女の子がそんなことして、痛々しいだけだろ」


 痛々しい。  その言葉が、鋭利なナイフとなって胸に突き刺さった。


 私は、彼に「かっこいい」と言われたくて始めた。  強くなれば、振り向いてくれると思った。  なのに。


「……颯人が言ったんじゃん」


 私は震える声で反論した。


「『かっこいい女の子が好き』って。だから私、変わろうと思って……」 「俺が言ったのは!」


 颯人が声を荒げた。


「俺が言ったのは、もっとこう……スマートなやつだよ! ダンスとか、テニスとかさ! 泥だらけになって殴り合いするようなのが好きなんて、一言も言ってねーよ!」 「……っ!」


「凛はさ、普通にしてれば可愛いんだから。無理してそんな野蛮なことすんなよ。昔みたいに笑ってる方が、絶対いいって」


 ああ。  分かってしまった。  この人は、私のことなんて何一つ見ていない。  「かっこいい女の子が好き」という言葉すら、彼の中では「ファッションとしてのかっこよさ」でしかなかったのだ。


 血を吐くような努力も。  吐瀉物にまみれたスクワットも。  恐怖に立ち向かった勇気も。


 彼にとっては全て、「野蛮」で「痛々しい」もの。


 プツン、と私の中で何かが切れた音がした。


「……離して」


 私は彼の掌を振り払った。


「野蛮で結構。痛々しくて結構だよ」 「おい、凛……」 「颯人の『普通』に私を押し込めないで。私は、私がなりたい自分になるの」


 私は彼を睨みつけた。  冴島先輩に睨まれた時のような殺気は出せないけれど、今の私には、あの時とは違う強さがある。


「この傷はね、私が逃げなかった証拠なの。あんたなんかに『痛々しい』なんて言われる筋合いはない!」


 言い切って、私は走り出した。  背後で颯人が何か叫んでいたけれど、もう耳には入らなかった。


 ***


 放課後の道場。  私はサンドバッグに向かって、無心で拳を叩きつけていた。


 ドスッ! ドスッ! バァンッ!


「一ノ瀬、いい音だが……少し荒いな」


 見かねた冴島先輩が声をかけてきた。  私は動きを止め、肩で息をする。


「すみません……ちょっと、イライラしてて」 「男か?」 「……はい」 「ふん。くだらん」


 先輩は呆れたように鼻を鳴らしたが、すぐに真剣な目で私を見た。


「だが、その怒りはエネルギーだ。行き場のない感情を、拳に乗せろ。ただし、コントロールを失うな。怒りを『殺気』に変えて、一点に収束させるんだ」


 一点に、収束。  私は拳を握り直す。    颯人の言葉が蘇る。  『痛々しいだけ』  『普通にしてれば可愛いのに』


(うるさい、うるさい、うるさい!)


 私の価値を、あんたが決めるな。  私は「可愛いペット」には戻らない。  私は、自分の足で立つ猛獣になるんだ。


「セイッ!!」


 ドゴォォンッ!


 渾身の右逆突きが、サンドバッグを大きく揺らした。  今までで一番深く、重い衝撃。  拳の痛みが、胸のモヤモヤを少しだけ晴らしてくれる気がした。


「……悪くない」


 先輩がニヤリと笑った。


 今日の稽古が終わる頃には、ファンデーションが汗で落ちて、頬のアザが露わになっていた。  でも、もう隠そうとは思わなかった。    これが私だ。  一ノ瀬凛だ。  文句があるなら、私より強くなってから言ってみろ。


 私はタオルで顔を拭き、道場の鏡に映る自分に向かって、小さく笑いかけた。  その顔は、入学式の頃の泣きそうな顔とは比べ物にならないくらい、精悍で、かっこいい顔をしている気がした。


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