第12話 焼肉は正義。そして私は、夜風の中で「あの感覚」を反芻する
志布志穂高校を出た頃には、すっかり日が暮れていた。 山奥の空気は冷たいけれど、私たちの体は熱を帯びたままだった。
「いやー、マジで死ぬかと思った……」 駅までの夜道を歩きながら、エリカが大きく伸びをした。 「あそこの練習量、バグってるでしょ。アップだけで私の体力ゲージ半分持ってかれたんだけど」 「わ、私もです……。途中で三途の川が見えました……」 文ちゃんもゲッソリしているけれど、その顔にはどこか達成感が滲んでいる。
「だが、ついてこれたな」 先頭を歩く冴島先輩が、振り返らずに言った。 「他校の練習についていけるだけの基礎体力はついている証拠だ。そこは自信を持て」
「「オスッ!」」
あのアメとムチの使い方が上手すぎる先輩に褒められ、私たちは単純に喜んだ。 そして先輩の視線が、私に向けられる。
「一ノ瀬」 「は、はい!」 「……今日の組手、悪くなかったぞ」
それだけ言うと、先輩はまた前を向いてしまった。 たった一言。でも、私にはそれで十分だった。 あの「氷の女帝」が、私の泥臭いあがきを認めてくれたのだ。
***
「さて、みんなよく頑張ったねぇ」 駅前の繁華街に着いたところで、大山先生が足を止めた。 その手には、すっかり空になったあんパンの袋が握られている。
「今日は強豪相手に誰一人心を折らず、最後まで戦い抜いた。これは祝いが必要だ」 先生の細い目が、ニヤリと開く。
「先生の奢りだ。何が食べたい?」
その瞬間、私たち一年生トリオの目が野獣のように輝いた。 激しい運動の後だ。体は枯渇している。求めるものは一つしかない。
「「「肉!!!」」」 「あはは、即答だねぇ。冴島くんもそれでいいかい?」 「……異存ありません。筋肉の修復には動物性タンパク質が最適解です」
先輩も心なしか目が輝いている気がする。 こうして私たちは、駅前の焼肉店『牛角(仮)』へと吸い込まれていった。
***
ジュゥゥゥゥ……ッ!
網の上でカルビが焼ける音が、極上のBGMとなって個室に響く。 タレの焦げる香ばしい匂いが、空腹の胃袋を容赦なく刺激した。
「いただきまーす!!」
私たちは餓鬼のように肉に食らいついた。 白米の上にカルビを乗せ、タレを染み込ませてから口へ運ぶ。 美味い。涙が出るほど美味い。 疲労した筋肉の一つ一つに、栄養が染み渡っていくようだ。
「一ノ瀬、網の中央は火力が強い。そこはホルモンではなく赤身を置け」 「は、はいっ!」 「小日向、トングの使い方が甘い。肉を傷つけるな。一度のひっくり返しで仕留めるんだ」
冴島先輩は、焼肉においても「師範」だった。 トングを操る手つきは、組手の時と同じくらい鋭く、正確無比。 私たちは先輩が完璧な焼き加減(ミディアムレア)に仕上げた肉を、ただひたすらに配給される雛鳥のように食べ続けた。
「それにしても、凛のあの突き、本当に凄かったよね」 サンチュを頬張りながら、エリカが話題を振った。 「相手ぶっ飛んでたじゃん。何あれ? どうやったの?」 「うーん……正直、自分でもよく分かんないんだよね」 私は烏龍茶を飲みながら首を捻る。
「ただ、必死に『前へ出なきゃ』って思ったら、足の力が抜けて……ガクンって体が落ちたの。そしたら勝手に拳が出てたっていうか」 「それが『沈身(ちんしん)』だよ」
大山先生が、ビール(もちろんノンアルコールではない)を美味そうに煽りながら口を挟んだ。
「人間は、自分の体重を支えるために無意識に力んでいる。その支えを外してやれば、重力に従って物体は落下する。そのエネルギーは、筋力で生み出すパワーよりも遥かに強大で、速い」
先生は枝豆をつまみ上げた。
「一ノ瀬くんは、スクワットで下半身の『バネ』を作っていたからこそ、その落下の衝撃に耐えて、前へ変換できたんだ。基礎練習の賜物だねぇ」
「基礎……」 あの地獄のスクワットが、ここで繋がっていたなんて。 私は自分の太ももをテーブルの下でさすった。 太くなって嫌だと思っていたけれど、今は愛おしく思える。
「ま、まぐれ当たりですけどね」 「今はまぐれでいい。だが、その感覚を忘れるなよ。それがお前の『必殺技』になる」
先生の言葉に、私は深く頷いた。 必殺技。 ゲームや漫画の世界の話だと思っていたけれど、私にも手に入れられるかもしれない。
***
二時間後。 私たちはパンパンに膨れたお腹を抱えて店を出た。
「ごちそうさまでしたー!」 「気をつけて帰るんだよー」
駅の改札で、方向の違うみんなと別れる。 一人になった私は、夜風に当たりながらホームのベンチに座った。 電車が来るまで、あと十分。
私は膝の上に置いた自分の右手を見つめた。 テーピングは焼肉のタレと脂で少し汚れているけれど、その下にある拳の熱はまだ引いていない。
(……沈身、か)
ホームには誰もいない。 私は立ち上がり、窓ガラスに映る自分に向かって、軽く構えてみた。
力を抜く。 膝のカックンを外すイメージ。 ストン。
小さく体が沈む。 でも、さっきのカノンとの試合の時のような、あの爆発的な加速は生まれない。 あれは、恐怖と極限状態が生んだ「奇跡」だったんだ。
(意識して出せなきゃ、意味がない)
颯人を見返すためには、奇跡頼みじゃダメだ。 いつでも、どこでも、誰が相手でも。 あの「重い一撃」を出せるようにならなきゃ。
「……練習、しよ」
私は誰も見ていないのをいいことに、ホームの上で何度も「膝を抜く」動作を繰り返した。 側から見れば、急に屈伸を始めた変な女子高生だ。 でも、恥ずかしさはなかった。
カノンの蹴りの痛み。 先輩の美しすぎる組手。 そして、焼肉の味。
今日の全てが、私を構成する要素になっていく。 電車が滑り込んでくる音が聞こえた。 私は深く息を吐き、夜空を見上げる。 ――待ってて、全国。 ――待ってて、颯人。
私はまだ強くなれる。 お腹いっぱいの胃袋と、心地よい筋肉痛と共に、私は帰路についた。
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