第13話 最強の敵は、志布志穂高校よりも「赤点」だった
月曜日の教室。 私は机に突っ伏して寝る……のではなく、教科書の隙間に隠した「拳ダコ」のチェックに余念がなかった。
「ねーねー凛。またアザ増えてない?」
前の席から身を乗り出してきたのは、クラスメイトのミナだ。 彼女は私の頬(カノンの蹴りが掠めた跡)を見て、痛ましそうに眉をひそめる。
「ファンデで隠してるけど浮いてるよ。大丈夫なの? 空手ってそんなボコボコにされるの?」 「ん? ああ、これ?」
私は絆創膏だらけの指で頬を撫でる。
「これは勲章だから。全国レベルの『蹴り』を肌で感じた証拠っていうか、むしろ学びの傷跡?」 「……うわぁ」
ミナが若干引いている。
「凛、キャラ変わったよね。入学した時は『どうしよう、髪ハネてないかな』とか乙女なこと言ってたのに、今は『拳の皮が剥けた』とか言ってるし」 「え、そう? 進化してるってことじゃない?」 「それを世間では『ゴリラ化』って言うんだよ」
失礼な。私はゴリラじゃない。 ただ、ちょっと重心移動と正拳突きの角度について、四六時中考えているだけだ。
「でもさ、楽しそう」
ミナが頬杖をついて笑う。
「凛、なんか吹っ切れた顔してるもん。前はずっと溜息ついてたけど、今は目がギラギラしてる」 「ギラギラって……」 「そういえば、他校の子とも仲良くなったんでしょ? エリカちゃんから聞いたよ」 「うん、カノンね。すごいんだよ、蹴りが鞭みたいでさ! ガードの上から脳揺らされるんだけど、終わった後はめっちゃいい子で……」
私が熱弁を振るい始めると、チャイムが鳴った。 担任の先生(数学担当・通称「仏の佐々木」)が入ってくる。 ホームルームの時間だ。
「えー、みんな席につけー」
先生は気だるげに出席簿を置くと、黒板に大きな文字で「ある単語」を書いた。 その四文字を見た瞬間、私の思考回路(空手モード)は凍結した。
『中間考査』
「はい、知っての通り来週から中間テストだ。一週間前になるので、今日から部活動は原則停止となる」
……は? 停止? 部活が?
「嘘でしょ……」
私の口から絶望の声が漏れた。 隣の席のエリカを見ると、彼女も白目を剥いて固まっている。 さらに斜め後ろの文ちゃんは、眼鏡をずり落として「あわわ」とパニックになっていた。
「え、先生! 停止って、道場使えないんですか!?」 エリカが食い気味に質問する。 「当たり前だ。学生の本分は勉強だぞー。特に赤点を取った者は、テスト明けに一週間の補習があるから覚悟しとけよー」
赤点。補習。 その言葉の響きは、冴島先輩の上段回し蹴りよりも恐ろしかった。
***
放課後。 私たちは道場の前で立ち尽くしていた。 扉には無情にも『テスト期間につき閉鎖』の貼り紙が。
「……終わった」 エリカがその場にしゃがみ込む。 「せっかく出稽古でモチベーション上がったのに! ここでお預けとか拷問!?」 「で、でも勉強しないと……私、数学が壊滅的で……」 文ちゃんが涙目で教科書を抱きしめている。
私は貼り紙を睨みつけた。 この一週間、練習ができない? せっかく掴みかけた「沈身(ちんしん)」の感覚が、鈍ってしまうかもしれない。 それに、補習なんてことになったら……。
「……おい、一年坊主ども」
背後から、地獄の底から響くような声がした。 振り向くと、そこには参考書を片手に持った冴島先輩が立っていた。 制服姿に眼鏡。 道着姿とはまた違う知的なオーラを纏っているが、その殺気は道場の時と同じだ。
「まさかとは思うが、赤点なぞ取って私の顔に泥を塗るつもりはないだろうな?」 「ひっ……!」
先輩の眼鏡の奥が光る。
「文武両道。空手だけ強くても、頭が悪ければ一流にはなれん。脳みそのシワまで鍛え上げろ」 「せ、先輩は成績良いんですか……?」 「学年トップだ」
即答だった。 ぐうの音も出ない。天は二物を与えすぎだ。
「いいか。もし赤点を一つでも取ったら……テスト明けの稽古、スクワットの回数を倍にする」 「「「倍!?!?」」」
ただでさえ死にそうなスクワットが、倍。 それはつまり、死を意味する。
「死にたくなければペンを握れ。拳を握るのはテストが終わってからだ」
先輩はそれだけ言い残すと、颯爽と図書室の方へ消えていった。 残された私たちは、顔を見合わせた。
「……やるしかない」 私は拳(ペンを握る予定の手)を震わせながら言った。 「赤点回避じゃない。スクワット回避のために!」 「動機が不純! でも命かかってるからね!」
***
その日の夜。 私は机に向かい、数学の教科書を広げていた。 因数分解。二次関数。 並んでいる数字の羅列が、古代の呪文に見える。
(集中しろ……これも空手だと思えば……)
私はシャーペンを構える。 引き手を意識し、背筋を伸ばす。 問題文を睨みつける眼光は、完全に組手のそれだ。
『次の式を展開せよ』
(展開……つまり、相手のガードを開くということ!)
思考が完全に汚染されている。 でも、こうでもしないと脳が勉強モードに切り替わらない。
ピンポーン。 スマホが鳴った。カノンからのLINEだ。
『テスト期間だね~泣 凛ちゃん勉強進んでる? 私は物理で死んでるよ』 『私も数学で死にかけ。でも赤点取ったらスクワット地獄だから、生き残るために戦う』 『あはは! そっちの先輩も鬼なんだね。お互い生きてまた会おう!』
カノンのスタンプ(猫がパンチしている絵)を見て、少しだけ力が抜けた。 向こうも頑張っている。 なら、私も負けていられない。
ふと、窓の外を見る。 隣の家の明かりがついている。颯人の部屋だ。 あいつも今頃、勉強しているんだろうか。 昔はよく、テスト前に二人で勉強会をしたっけ。 分からないところを教えてもらって、「凛はバカだなあ」って笑われて。 でも、お礼にココアを入れてあげると、すごく嬉しそうな顔をして……。
「……っ」
思考を振り払うように、私は頭を振った。 今は、思い出に浸っている場合じゃない。 私はシャーペンを握り直し、数式という名の敵に向かって「突き」を放つように書きなぐり始めた。
この中間テストという名の「死線」を潜り抜けなければ、私の全国制覇への道は閉ざされてしまうのだから。
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