第11話 氷の女帝。美しすぎる暴力は、呼吸すら許さない
私の試合が終わり、道場の空気は異様な熱気に包まれていた。 けれど、その熱を一瞬で凍りつかせるような静寂が、メインコートに降りた。
「主将戦! 始め!」
審判の声が響く。 コートの中央に立つのは、我らが主将・冴島玲奈(さえじま れな)先輩。 対するは、志布志穂高校の主将、工藤(くどう)選手だ。彼女もまた、昨年のインターハイ個人戦でベスト8に入った全国区の強豪である。
(……空気が、違う)
私は氷嚢で頭を冷やしながら、息を呑んで見守っていた。 さっきまでの私とカノンの試合が「泥臭い殴り合い」だとしたら、目の前の二人の空間は「張り詰めた糸」のようだ。 動かない。 お互いに構えたまま、ミリ単位で間合いを測り合っている。
「シッ!」
先に動いたのは工藤選手だった。 速い。カノンよりもさらに洗練された、無駄のない飛び込み。 鋭い「刻み突き(ジャブ)」が、先輩の顔面を捉える――そう見えた瞬間だった。
フッ。
先輩の姿が、霞のように消えた。 いや、違う。 最小限の動き――「体捌(たいさば)き」で、突きの軌道を紙一重で躱(かわ)したのだ。 風圧で先輩の前髪が揺れる。けれど、その瞳は瞬き一つしていない。
「うおっ!?」
突きが空を切った工藤選手が、バランスを崩して泳ぐ。 その刹那。 先輩の右足が、鎌のようにしなった。
ヒュンッ!
音速の軌道を描いたその足は、工藤選手の側頭部へ吸い込まれ――
ピタッ。
皮膚まであと数ミリ。 本当に、紙一枚入るかどうかの距離で、先輩の足は静止していた。 「上段裏回し蹴り」。 フックのような軌道で、相手の死角から後頭部を刈り取る高難易度の技だ。
「……!」
工藤選手が、自分の顔の横にある先輩の足を見て、凍りついたように動けなくなる。 完璧な「寸止め(コントロール)」。 もしこれが実戦なら、彼女の首は刈り取られていた。
「やめ! 赤、上段蹴り、技あり!」
審判の声と共に、先輩はゆっくりと足を下ろし、何事もなかったかのように残心(ざんしん)を示した。 汗一つかいていない。息も乱れていない。 ただ、圧倒的に強く、美しい。
「……レベルが違う」
エリカがポツリと漏らした言葉に、私は無言で頷いた。 強い。 私の「重い突き」なんて、先輩の技術の前では児戯(じぎ)に等しい。 あんな風に戦えるのか。 あんなに涼しい顔で、暴力を芸術に変えられるのか。
「勝負、続行!」
再開後も、展開は一方的だった。 工藤選手が意地を見せて猛攻を仕掛けるが、先輩は全てを見切っていた。 突きを掌で受け流し、蹴りをスウェーで躱す。 そして相手の心が折れかけた瞬間に、鋭い中段突きをカウンターで叩き込む。
ズドンッ!
的確に肝臓(レバー)を捉えた一撃。 工藤選手がたまらず膝をつく。
「合わせ一本! 勝者、赤(冴島)!」
終わってみれば、先輩の道着は一度も汚れることなく、完全勝利で幕を閉じた。 全国強豪校の主将を相手に、赤子の手をひねるような圧勝劇。
先輩が面を取り、さらりとした黒髪をかき上げる。 その横顔は、スポットライトを浴びた女優のように凛々しく、神々しかった。
(……かっこいい)
私は痛む拳を胸の前で握りしめた。 颯人に「かっこいい女の子が好き」と言われた時は、何を目指せばいいのか分からなかった。 でも、今は分かる。 これだ。この強さだ。 誰に媚びることもなく、己の力だけで戦場を支配する「個」としての強さ。
いつか、私もあそこへ行けるだろうか。 いや、行くんだ。 先輩の背中が、遥か高い頂(いただき)への道標に見えた。
***
練習試合が終わり、私たちは夕暮れの校門へと向かっていた。 体中が痛い。特にカノンに蹴られた頭と腕がズキズキする。 でも、心は不思議と晴れやかだった。
「おーい! 凛ちゃーん!」
背後から声がして振り返ると、ジャージ姿のカノンが走ってきた。 彼女の腕にも、私がつけた青あざができている。
「カノン。お疲れ様」 「お疲れ! もう帰っちゃうの?」 「うん。遠いからね」 「そっかぁ。……あ、これ!」
カノンはスマホを取り出し、QRコードの画面を突き出してきた。
「LIME交換しよ! また練習試合あると思うし、今度こっちから遊びに行くかも!」 「え、いいの? 強豪校のエース様が、こんな弱小校に?」 「エースじゃないし! それに……」
カノンは少しだけ真面目な顔をして、私の右拳を指差した。
「私、あんな突き打つ子、初めて見たもん。ライバルとして、チェックしとかないとね」 「……ふふ。光栄だな」
私たちはスマホをかざし合い、「友達追加」の音が鳴るのを確認して笑い合った。
「じゃあね凛ちゃん! 次は負けないから!」 「こっちのセリフ! 次は絶対、一本取るから!」
手を振って見送るカノンの笑顔は、夕陽よりも眩しかった。 殴り合ったはずなのに、こんなに清々しいなんて。 空手って、意外といいものかもしれない。
「一ノ瀬、置いていくぞ」 「あ、待ってください先輩!」
私は小走りで先輩たちの背中を追いかけた。 心地よい疲労感と、新しい目標、そして初めてのライバル。 手に入れたものは大きかった。 ボロボロの体を引きずりながらも、私の足取りは来た時よりもずっと軽かった。
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