第10話 技あり二つで即終了。それでも私の「質量」は、彼女のガードをこじ開けた
志布志穂(しぶしほ)高校の道場に一歩足を踏み入れた瞬間、私は「酸素の薄さ」を感じた。 物理的な話ではない。そこに充満する気迫の密度が、私たちの常識とは桁違いだったのだ。
「オォォスッ!!」
五十名近い部員が一斉に放つ気合。 それが、まるで巨大な質量を持った壁のように押し寄せてくる。 床板が振動し、窓ガラスがビリビリと共鳴している。 汗の匂い、湿布の匂い、そして使い込まれた防具の革の匂い。それらが混じり合い、ここが「戦場」であることを強烈に主張していた。
「……すご」 エリカが息を呑む横で、文ちゃんはすでに顔面蒼白で震えている。 これが、全国4位。 私たちが普段やっている練習が「部活」だとしたら、彼らがやっているのは「軍事訓練」に見えた。
「ぼさっとするな。整列だ」 冴島先輩の一声で、私たちは慌てて列の末端に加わった。
***
「基本稽古、始め!」
志布志穂の主将の号令で、合同練習が幕を開けた。 最初は準備運動、そしてその場突き。ここまではまだついていけた。 しかし、「移動稽古(いどうげいこ)」に入った瞬間、私たちは本当の地獄を見ることになる。
「前屈立ち、順突き! 挙動一(いち)ッ!」
ザッ!!
五十人が一糸乱れぬ動きで床を踏みしめる。 その足音は、バラバラの「タタタッ」という音ではない。全員の着地が完全に同時だからこそ生まれる、巨大な「ドンッ!」という衝撃音だ。
(速い……!)
私は必死に足を運ぶ。 けれど、私が一歩踏み込んで突く間に、彼らはすでに突き終わり、残心(ざんしん)を示し、次の挙動へ備えている。 スピードが違う。キレが違う。 何より、一本一本の突きに込められた「殺気」が違う。
「そこの一年! 腰が高い! 頭が上下してるぞ!」
志布志穂の高田監督の怒号が飛ぶ。 私に向けられた言葉だ。 必死に腰を落とすが、すぐに太ももが悲鳴を上げる。 隣の列を見ると、同じ一年生らしき女子部員が、涼しい顔で私の倍の低さをキープして動いていた。 汗が滝のように流れる。 息が上がる。 組手が始まる前から、私はすでに体力と精神力を削り取られていた。
***
「次は二人一組! 約束組手(やくそくくみて)!」
休憩を挟まず、対人練習へと移行する。 私がペアを組むことになったのは、さっき隣で涼しい顔をしていたあの一年生女子だった。
「よろしくね。私、三島(みしま)カノン」 「あ、よろしく……一ノ瀬凛です」
カノン、と名乗った彼女は、ショートボブから覗く大きな瞳を細めて、人懐っこく笑った。 華奢に見える。身長も私と同じくらいだ。 彼女も高校から空手を始めたらしいが、腰に巻かれた白帯は、使い込まれてすでに薄汚れている。
「じゃあ、私が上段突き行くから、凛ちゃんは『上段受け』してね。いくよー」
彼女は軽く構えた。 そのリラックスした立ち姿に、私が油断したその時だった。
ヒュッ。
風切り音が聞こえたと思った瞬間、私の目の前数センチに、彼女の拳があった。
「え……?」
反応できなかった。 受けるどころか、瞬きすら許されなかった。
「あはは、凛ちゃん固まりすぎ。今のじゃ死んじゃうよ?」 「は、速すぎ……! 見えなかったんだけど!」 「予備動作(モーション)が大きいとバレるからね。肩を動かさずに、膝の抜きだけで入るの」
カノンは事も無げに言う。 そこからの十分間は、蹂躙(じゅうりん)だった。 彼女の突きは、私のガードの隙間を水のようにすり抜けてくる。 逆に私が攻撃しようとしても、彼女は最小限の動き――「サバキ」で私の拳をいなし、死角へと回り込んでしまう。
同じ初心者スタート? 嘘だ。 才能の差か、練習量の差か。 彼女はすでに「空手家」の体に仕上がっていた。
「よし、防具をつけろ! 自由組手を行う!」
ついに、その時が来た。 メンホー(顔面を守る防具)と拳サポーターを装着する。 プラスチックの面越しに見る世界は、視野が狭く、自分の荒い呼吸音が反響して聞こえる。閉塞感と恐怖心が、一気に膨れ上がる。
「一ノ瀬、相手は三島だ」
冴島先輩が私の背中をバンッと叩いた。
「いいか。相手はレギュラー候補だ。技術では勝てない」 「そ、そんな……」 「だが、今の今までお前がやってきた『千本突き』と『スクワット』。その地味な貯金だけは裏切らない。……一発だ。死ぬ気で一発だけ入れろ」
先輩の言葉を反芻しながら、私はコートの中央へ進み出た。 対面にはカノン。 防具をつけていても分かる。彼女の瞳が、獲物を狙う狩人のそれになっていることが。
「勝負始め!」
審判の鋭い声が響いた、その瞬間だった。
ヒュッ。
カノンの前足が、鞭のようにしなった。 予備動作がない。反応しようとした時には、すでに白い閃光が私の視界を覆っていた。
バァァンッ!!
側頭部に凄まじい衝撃。 メンホーの上からでも、脳が揺さぶられ、視界が白く明滅する。 私のガードは下がっていた。完全にノーガードの状態で、上段回し蹴りを直撃されたのだ。
「やめッ!」
審判が割って入る。 私はよろめきながら、何が起きたのか理解しようと必死だった。痛い。首が持っていかれるかと思った。
「赤、上段蹴り、有効。技あり!」
審判の手が、カノンの方へ挙がる。 技あり。 このルールでは、決定的な打撃が入った場合に「技あり」が宣告され、それが二つ重なると「合わせ一本」――つまり、私の負けとなる。
(あと一回……あと一回あれを貰ったら、終わり?)
背筋が凍る。 開始わずか五秒。すでに私は崖っぷちに立たされていた。
「勝負、続行!」
再開の合図。 カノンが間合いを詰めてくる。 怖い。またあの蹴りが来るかもしれない。 私は反射的に亀のようにガードを固めてしまう。
バシッ! ドスッ! 中段突き、下段蹴り。カノンの攻撃が雨あられと降り注ぐ。 私はサンドバッグだ。防戦一方。 技術の差は歴然。このまま削られて、隙を見てまた上段を蹴られて終わる。それが「初心者」の末路だ。
(嫌だ……!)
ガードの隙間から、カノンの冷徹な目が見えた。 彼女は私を「敵」として見ていない。「的」として見ている。 悔しさが、恐怖を上書きした。 颯人の顔が浮かぶ。あいつが見たら笑うだろうか。やっぱり凛は弱いなって。
(ふざけるな。私は、一発殴りに来たんだ!)
私は恐怖をねじ伏せ、ガードを開いた。 捨て身の突進。 カノンが反応する。彼女は私の動きを見切り、トドメの一撃――カウンターの上段突きを合わせに来た。
速い。私が突くより先に、彼女の拳が私の顔面を捉える軌道。 でも、知ったことか。 肉を切らせて、骨を断つ!
私は踏み込んだ右足を、床板が割れるほどの勢いで叩きつけた。
ドンッ!
同時に、膝の力を一気に抜く。 「沈身(ちんしん)」。 私の体重50キロ弱が、一瞬にして加速装置となる。
カノンの突きが私のメンホーを掠める。 構うものか。痛みごと飲み込んで、私はさらに深く、彼女の懐(ふところ)へ潜り込んだ。
(回れ! 地球ごと回せ!)
ただの腕力じゃない。 重力と、体重と、背中の筋肉。その全てを、右拳の「回転」に乗せる。 狙うは、彼女の固く閉ざされたガードの上。 その腕ごと、心臓を撃ち抜くつもりで!
「せい、やぁぁぁッ!!」
ドゴォォォォォンッ!!!
それは、高校生の空手の試合では聞かないような異質な音だった。 乾いた破裂音ではない。重機が壁に激突したような、低く、腹に響く轟音。
「う、ぐぅッ!?」
カノンの苦悶の声。 彼女は完璧にガードしていた。両腕でブロックしていたはずだ。 ポイント制の空手において、ガードの上からの攻撃はポイントにならない。だから彼女は正しい判断をした。 だが、私の突きは「競技」の枠をはみ出していた。
物理的な「質量」の暴力。 回転のライフリング効果と、体重移動による運動エネルギーが、彼女の華奢な体をガードごと弾き飛ばしたのだ。
ズザザザッ!
カノンの両足がマットから浮き、彼女は2メートル近く後方へ吹き飛ばされた。 体勢を崩し、無様に尻餅をつく。
シーン……。 騒がしかった道場が、一瞬だけ静まり返った。 誰もが目を丸くしている。 しかし、審判の手は挙がらなかった。 当然だ。ガードの上だ。有効打ではない。
「……ッ!」
カノンが弾かれたように立ち上がる。 その顔には、驚愕と、そして「戦士」としての怒りが宿っていた。 彼女は一瞬で距離を詰めた。 私が渾身の一撃を放ち、残心(ざんしん)も取れずに体勢を崩している隙を見逃さない。
バァンッ!!
正確無比な上段回し蹴りが、再び私の側頭部を捉えた。 意識が飛ぶ。 天井が回る。 私は糸の切れた人形のように、その場へ崩れ落ちた。
「やめッ!」
審判の声が遠く聞こえる。
「赤、上段蹴り、技あり! 合わせて一本!」
勝負あり。 圧倒的な完敗だった。私は一本も旗を上げさせることはできず、ただ二回蹴られて終わった。
けれど。
「……嘘でしょ」
カノンは勝ち名乗りを受けても、呆然と自分の腕を見つめていた。 その両腕は赤く腫れ上がり、小刻みに震えている。
「ガードの上から効かされた……。何今の。トラックに突っ込まれたみたいだった」
その言葉を聞いて、志布志穂の高田監督が、目を見開いて身を乗り出した。
「おい……今のはなんだ?」 「ん? ただの正拳突きだよ」
大山先生が、あんパンの袋を畳みながら涼しい顔で答える。
「ただの突きで、ウチのレギュラー候補を吹き飛ばすなんてありえん! あの重心移動……そしてあのインパクトの瞬間の『締め』。あの子、本当に白帯ですか?」
私は天井を見上げながら、荒い呼吸を繰り返す。 負けた。悔しい。頭がガンガンする。 でも、右拳に残る痺れだけが、私に語りかけていた。 通用した。 たった一発だけど、私の「重さ」は、全国レベルの選手を恐怖させたのだ。
「……凛ちゃん、大丈夫?」
面を取ったカノンが、私を覗き込んでいた。 腫れ上がった腕をさすりながら、彼女はニッと笑った。
「すごかった。あと一歩踏み込まれてたら、私の腕、折れてたかも」 「……次は、折るよ」 「あはは! 怖いなぁ。でも、次はもっとうまく蹴るから」
差し出された手。 私は泥と血にまみれた自分の手で、その手を強く握り返した。 完敗だ。でも、清々しかった。
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