第8話 地味で、退屈で、永遠のような千本突き。でも、昨日の私とは「音」が違う
入部から二週間が経った。 私の高校生活は、完全に「空手中心」に書き換わっていた。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、遊びに行くクラスメイトたちを尻目にジャージに着替え、道場へ走る。 筋肉痛はもはや友達だ。朝起きて体のどこかが痛くないと、逆に不安になるレベルにまで達していた。
けれど。
「――移動稽古、順突き! 戻って逆突き! その場基本、前蹴り上げ!」
冴島先輩の怒号が飛ぶ中、私は正直、少しだけ「飽き」を感じていた。
(……またこれかぁ)
来る日も来る日も、基礎、基礎、基礎。 正拳突き、受け、蹴り。ひたすら空気を相手にするだけの単調な動作。 映画や漫画で見るような、派手な組手(スパーリング)は一度もやらせてもらえない。
「一ノ瀬! 脇が空いている! 拳の回転が遅い!」 「は、はいッ!」
竹刀で二の腕をペチリと叩かれる。 分かっている。頭では分かっているけれど、体がついてこないのだ。 私の体はまだ、空手家としては「未熟児」だ。筋肉の鎧もなければ、神経の回路も繋がっていない。
「先輩、そろそろ組手とかやらないんですか?」
休憩中、エリカがスポーツドリンクを飲みながらボヤいた。 彼女は経験者だから、余計にこの基礎地獄が退屈なのだろう。
「早い」
先輩は即答した。
「今のあいつら(私と文ちゃん)を見ろ。土台がグラグラの豆腐建築だ。そんな状態で人を殴れば、自分の手首を折るか、バランスを崩して自滅するのがオチだ」
先輩は私の方をじろりと見た。
「まずは『空手の体』を作れ。話はそれからだ」 「うへぇ……」
エリカが舌を出す。 私は自分の手を見る。テーピングの下には、新しい皮膚ができかけては剥け、を繰り返して少しずつ硬くなってきた拳がある。 でも、まだ足りないらしい。
「休憩終わり! ここから追い込むぞ」
先輩が鬼の顔に戻った。
「その場突き、一〇〇〇本」 「せ、せんぼん……!?」 「途中で腕を下げるな。一本一本、全力で突け。気合を入れろ!」
地獄の時間が始まった。
一、二、三……。 最初の一〇〇本は、まだ意識してフォームを確認できた。 腰を切る。引き手を引く。拳を回す。
三〇〇本。 肩が熱い。鉛が入ったように重くなる。 腕を前に出すだけの単純な動作が、岩を押すような苦行に変わる。
五〇〇本。 感覚がなくなってきた。 汗が目に入るけれど、拭う余裕もない。床には私たちの汗で水たまりができている。 単調だ。退屈だ。 こんなことをして、本当に強くなれるの? 颯人を見返すために、もっとかっこいい技を覚えたいのに。
七〇〇本。 思考が消えた。 「辛い」とか「飽きた」とか、そういう感情すらも汗と一緒に蒸発した。 残ったのは、呼吸と、リズムだけ。
シュッ、パンッ。 シュッ、パンッ。
道着が擦れる音と、拳が空気を弾く音だけが、脳内に響く。
(……あれ?)
八〇〇本を超えたあたりで、ふと異変に気づいた。 体が、軽い。 さっきまで鉛のように重かった腕が、勝手に――まるで自動人形のように、スムーズに射出されている。
無駄な力が抜けているのだ。 疲労で肩の筋肉が動かなくなった分、体は無意識に「楽な動かし方」を探し当てたらしい。 肩甲骨が滑らかにスライドし、背中の筋肉が腕を押し出す。 足の裏から伝わった床の反発力が、淀みなく拳の先端まで流れていく感覚。
――パンッ!!
今までで一番、鋭く高い音が鳴った。
「九九八、九九九、一〇〇〇!!」 「「「セイッ!!!」」」
最後の気合と共に、私たちはその場に崩れ落ちた。 もう一ミリも動けない。 指先一つ動かすのも億劫だ。 心臓が早鐘を打ち、全身から湯気が上がっているのが分かる。
「……はぁ、はぁ、死ぬ……」
大の字に寝転がり、天井を見上げる。 道場の天井のシミの形まで覚えてしまいそうだ。
「……一ノ瀬」
頭上から声が降ってきた。 先輩が、冷たいタオルを私の顔に放り投げる。
「最後の一〇本。いい音だった」
タオル越しでも、先輩の声が少しだけ優しく聞こえた。
「無駄な力みが消えたな。その『脱力』こそが、スピードと重さを生む。今の感覚を忘れるな」
褒められた。 あの鬼先輩に、初めて技術的なことで褒められた。
私はタオルを目に押し当てたまま、小さく頷くことしかできなかった。 起き上がる体力はない。 でも、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。
退屈だと思っていた。意味がないと思っていた。 でも、千回繰り返したからこそ、辿り着けた「一回」があった。
私の体はまだ未熟だ。 エリカみたいに強くないし、先輩みたいにかっこよくもない。 けれど、昨日の私よりは、確実に一歩だけ前に進んでいる。
(……悪くないかも)
全身の筋肉が悲鳴を上げているけれど、それは心地よい疲労感だった。 明日もまた、この地味で退屈な地獄が待っている。 そう思うと、不思議と少しだけ楽しみになっている自分がいた。
「立てるか?」 「……あと五分ください」 「甘えるな、三秒で立て」 「鬼!」
私は悲鳴を上げながら、ガクガク震える足で立ち上がる。 外はもう真っ暗だ。 でも、私の目には、昨日よりも少しだけ世界が明るく見えていた。
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