第7話 地獄の空気椅子。恋心も揺れるが、私の太ももはもっと揺れている
キーンコーンカーンコーン……。
放課後を告げるチャイムは、普通の高校生にとっては「自由」の合図だ。 けれど、今の私にとっては「処刑場(道場)への呼び出し音」にしか聞こえない。
昨日の電車での出来事――颯人との気まずい再会と、彼の新しい彼女への嫉妬。 モヤモヤとした感情が胸にこびりついたまま、私は道場の更衣室でジャージに着替えた。拳のテーピングは巻き直したばかりで、まだ真っ白だ。
「よし」
頬をパンと叩く。 考えごとなんてしている余裕は、たぶん数分後になくなる。 今日のメニューは、冴島先輩が朝から不敵な笑みで予告していた「下半身強化」だからだ。
***
「空手とは、何だ?」
整列した私たち新入部員三人(私、エリカ、文ちゃん)を見下ろし、冴島先輩が問うた。 道場の床は今日も冷たく、ピンと張り詰めている。
「えっと……突きと蹴りで戦う武道?」 「半分正解で、半分間違いだ」
先輩はバッと足を開き、腰を深く落とした。
「空手とは『立ち方』だ」 「立ち方……ですか?」 「そうだ。いくら強力な大砲も、土台がグラグラでは狙いは定まらないし、反動で壊れる。人間も同じだ。強力な突きを放つには、それを支える強固な土台――つまり下半身が必要になる」
先輩は手に持っていた竹刀(指導用の棒)で、バンッ! と床を叩いた。
「今日は徹底的に足をイジメる。明日の朝、生まれたての子鹿になりたくなければ、死ぬ気で踏ん張れ」
そう宣言すると、先輩は鬼の形相で叫んだ。
「全員、騎馬立ち(きばだち)! 用意!」
騎馬立ち。 それは足を肩幅の二倍に開き、背筋を伸ばしたまま、腰を膝の高さまで落とす姿勢だ。 要するに、空気椅子である。
「落とせ! もっとだ! 太ももが床と平行になるまで!」 「くっ……!」
開始からわずか三十秒。 すでに太ももの前の筋肉――大腿四頭筋が悲鳴を上げ始めていた。 重力が恨めしい。自分の体重がこれほど重いなんて。
「背中丸めるな! 骨盤を立てろ!」
先輩の竹刀が、私の背中をツンと突く。 姿勢を正すと、さらに負荷が足にかかる。 「一ノ瀬、お前の悩みなど知らんがな」
先輩が私の横に来て、耳元で囁いた。
「雑念があるから足が震える。地面を掴め。足の指で床板を鷲掴みにするイメージだ」
地面を、掴む。 言われた通り、足の指五本に力を込める。 すると、不思議と重心が安定し、足の裏全体が床に吸い付くような感覚が生まれた。
「そうだ。その感覚を丹田(へそ下)に繋げろ。……よし、そのまま移動稽古(いどうげいこ)に移る!」
ここからが本当の地獄だった。 ただ耐えるだけならまだマシだ。先輩は「その姿勢の高さを変えずに歩け」と命じたのだ。
「前屈(ぜんくつ)立ち、順突き! 一(いち)ッ!」
ザッ!
私たちは一斉に足を前に踏み出す。 低い姿勢のまま、すり足で移動する。これがキツい。 一歩進むたびに、太ももの筋肉が引きちぎれそうになる。
「頭が上下している! 天井の高さは変わらない! 腰で滑るように進め!」
頭では分かっている。 でも、体が言うことを聞かない。 乳酸が溜まりきった足は、もはや他人の肉塊のようだ。 プルプルと震えが止まらない。
(痛い、熱い、キツい……!)
昨日の颯人の顔が脳裏をよぎる。 『守ってやりたくなる』 あのか弱い彼女の姿。 (今の私の顔、絶対ひどいことになってる)
汗が目に入り、歯を食いしばり、形相を変えて床を踏みしめる私。 可愛げなんて欠片もない。 でも。
ザッ! 踏み込んだ瞬間、床板が足の裏と摩擦を起こし、キュッという音を立てた。 その力が骨盤を通り、背骨を駆け上がり、拳へと伝わる。
「セイッ!!」
突き出した拳が、昨日よりも鋭く風を切った。
「……ほう」
大山先生が、どら焼き片手にニヤリと笑ったのが見えた。
土台が安定したことで、突きの反動を地面へ逃がす回路ができたのだ。 体が、一本の杭になったような感覚。 苦しいけれど、その一瞬の「軸が通った」感覚だけは、鮮烈に脳に焼き付いた。
「ラスト10本! 声出せぇ!!」 「「「オスッ!!!」」」
私の迷いも、未練も、すべて汗と一緒に流れ落ちてしまえばいい。 燃えるような太ももの痛みだけが、今の私が生きている実感だった。
***
「……生きてる?」 「……かろうじて」
練習後。 更衣室のベンチで、私とエリカ、文ちゃんは死体のように並んで座っていた。 立つのが怖い。 足が自分の意志とは関係なく、ガクガクと笑っている。いわゆる「バンビ状態」だ。
「空手ってさ、もっとこう……スタイリッシュなもんだと思ってたよ」 エリカが天井を仰ぎながら嘆く。 「地味だよね。ひたすら地味で痛い」 「でも、凛ちゃんの最後の突き、すごかったです……。なんというか、重そうでした」
文ちゃんの言葉に、私は自分の足を見る。 パンパンに張った太もも。 太くなった、とは言いたくないけど、確実に何かが変わり始めている。
「……ねえ、駅までどうやって行く?」 「這って行く?」
私たちは顔を見合わせ、力なく笑い合った。
帰り道。 駅の階段は、エベレスト登頂くらい過酷な試練だった。 手すりにしがみつきながら、お婆ちゃんのように一段ずつ降りていく女子高生三人組。 端から見れば滑稽だろう。 でも、颯人のことを考える時間は、昨日よりずっと少なくなっていた。
物理的な痛みが、心の痛みを上書きしてくれる。 それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど。 私は地面を踏みしめるこの感覚を、少しだけ信じてみようと思った。
この足でなら、いつか自分の力でどこへでも行ける気がしたから。
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