第6話 テーピングの白さと、優しくない幼馴染。もう、この手は繋げない
「……よし、今日はそこまで」
冴島先輩の声が、薄暗くなりかけた道場に響いた。 その瞬間、私は糸が切れたマリオネットのように、その場へ崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。 汗が目に入り、視界が滲む。けれど、一番熱を帯びているのは、間違いなく両の手の甲だった。 恐る恐る自分の拳を見る。
「うわぁ……」
人差し指と中指の付け根、いわゆる「正拳(せいけん)」の皮がめくれ上がり、赤い肉が見えていた。 白い道着の袖口に、点々と赤いシミがついている。 ジンジンと脈打つような痛みが、心臓の鼓動とリンクしているようだ。
「派手にやったねー。最初はみんなそうなるよ」
横から覗き込んできたのは、同じく汗だくの高城(たかしろ)エリカだ。 彼女の拳も赤くなっているが、皮がめくれている私とは違い、皮膚が分厚く硬化しているように見える。これが経験者の拳か。
「シャワー浴びる前に消毒しておきなよ。保健室、まだ開いてるかな?」 「あ、私、絆創膏持ってます……!」
慌ててカバンを探ろうとする小日向(こひなた)文(あや)ちゃんを制して、私は首を振った。
「ううん、ありがとう。でも、ちょっと保健室行ってくる。この惨状だと、絆創膏じゃ追いつかないかも」
***
放課後の保健室は、独特の薬品の匂いがした。 養護教諭の先生はもう帰ってしまったのか、部屋は無人だった。 私は棚から消毒液とガーゼ、それからテーピングテープを取り出す。
「……っ、いったぁ……!」
消毒液を脱脂綿に含ませ、傷口に押し当てる。 脳天に突き抜けるような激痛。思わず涙目が滲む。 (何やってんだろ、私)
ふと、鏡に映った自分を見る。 髪はボサボサ。顔は汗と皮脂でテカテカ。そして手は血まみれ。 一ヶ月前の私が見たら、卒倒していたかもしれない。 あの頃は、ハンドクリームを欠かさず塗り、爪も綺麗に整えて、いつ颯人と手が触れ合ってもいいようにケアしていたのに。
今の私の手は、とてもじゃないけど男の子が握りたくなるような手じゃない。 ゴツゴツして、傷だらけで、消毒液臭い。
「……でも」
私はガーゼの上から、白いテーピングを何重にも巻きつけた。 手首から手の甲、そして指の付け根へ。 ぐるぐると巻かれていく白いラインを見て、不思議と嫌悪感はなかった。
これは、勲章だ。 今日一日、私が逃げなかった証拠だ。 「よし」
両手の処置を終え、私は白く固められた拳を握りしめる。 少し不自由なその感覚が、今の私には心地よかった。
***
「おっまたせー!」 「お疲れ様です、一ノ瀬さん」
校門の前で待っていたエリカと文ちゃんと合流し、私たちは駅へと向かった。 四月の夜風が、火照った体に心地いい。
「それにしても凛のあの突き、凄かったよ! 音が違ったもん!」 「そ、そうかな? 自分じゃ必死すぎて分かんなかったけど……」 「凄かったです! 私なんて、まだ猫パンチみたいになっちゃって……」
文ちゃんが恥ずかしそうに縮こまる。 三人で並んで歩くこの時間は、部活の厳しさを忘れさせてくれる唯一の癒やしだ。 話題は自然と、空手のことから学校生活のことへ。
「そういえばさ、凛って彼氏とかいんの?」 「ぶふっ!」
エリカの直球すぎる質問に、私は危うく自分の唾で溺れかけた。
「い、いないよ! なんで!?」 「えー、だって凛、顔整ってるし。黙ってればモテそうなのに」 「黙ってれば、って何よ」 「あはは! でもさ、空手やる理由なんて大抵そんなもんでしょ? 強くなりたいか、モテたいか」
エリカが何気なく言った言葉に、胸がチクリとする。 私の理由は、その両方で、そのどちらでもない。 ただ、見返したいだけ。 でも、その「見返したい」相手の顔が浮かぶたびに、胸の奥が重くなるのはなぜだろう。
「……今は、空手が恋人かな」
私が苦笑いで誤魔化すと、二人は「出たー、ストイック!」と笑ってくれた。
駅の改札で、方向の違うエリカたちと別れる。 「じゃあね! 明日も筋肉痛で会おう!」 「お疲れ様でした!」
一人になったホーム。 電車を待つ列に並んでいると、スマホが震えた。ミナちゃんからのLINEだ。『宿題の範囲どこだっけ?』という他愛のない内容。 返信を打とうとしたけれど、テーピングで固められた親指がうまく動かず、誤字ばかりになる。
(打ちにくいなぁ……)
苦戦していると、電車が滑り込んできた。 帰宅ラッシュの時間帯。車内はそれなりに混んでいる。 私は空いている吊り革を見つけて、そこへ体を滑り込ませた。
その時だった。
「……あれ、凛?」
心臓が、ドクンと跳ねた。 聞き間違えるはずがない。 何千回、何万回と聞いてきた、その声。
恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前の吊り革に、彼がいた。 颯人だ。 通学用のリュックを前に抱え、少し驚いたように目を丸くしている。
「あ……颯人」
最悪だ。 よりによって、こんなボロボロの日に。 同じ沿線なんだから会う確率は高いと分かっていたけれど、入学してから実際に鉢合わせるのはこれが初めてだった。
気まずい沈黙が流れる。 周囲のサラリーマンたちの疲れた空気とは別に、私たちの間だけに真空パックされたような緊張感が漂う。
「……高校、どう? 慣れた?」
颯人が、ぎこちなく口を開いた。 その態度は、中学の頃と変わらない「優しい幼馴染」のものだ。それが余計に私を苛立たせる。 私をあんな風に振っておいて、どうして普通に話しかけられるの?
「うん。まあ、普通」 「そっか。俺さ、ほら、彼女できたってインスタ見た?」
悪気はないのだ。知っている。こいつはそういう奴だ。 私の気持ちなんてこれっぽっちも気づいていなくて、ただの報告として言っているのだ。
「……見たよ。可愛らしい人だね」 「だろ? マジで守ってやりたくなるっていうかさ。あ、凛とはタイプ違うけど」
一言多い。 私は吊り革を握る手に力を込めた。 ズキリ、と傷口が痛む。その痛みが、泣き出しそうな感情を押し留めてくれた。
「ん? ていうか凛、その手どうしたんだ?」
颯人の視線が、私の手に落ちた。 白く分厚いテーピング。ところどころに滲んだ赤い血。 制服の袖口から覗くそれは、女子高生の手としてはあまりにも異様だった。
「え、怪我? 大丈夫かよそれ」
颯人の顔から、ヘラヘラした笑みが消える。 彼は私の手首を掴もうと、手を伸ばしてきた。
「見せてみろよ。病院行ったのか? すげー腫れてるじゃん」
本気で心配している目だ。 優しい。悔しいくらいに、優しい。 昔からそうだ。私が転んで怪我をした時も、こうやって真っ先に駆け寄ってくれた。 その優しさが好きだった。 でも今は、その優しさが一番の猛毒だ。
守られるだけの私じゃ、ダメなんでしょ? かっこいい女が好きなんでしょ? なのに、どうして今さら「守る側」の顔をするのよ。
――触らないで。
私は反射的に、自分の手を引っ込めていた。
「っ……!」
颯人の手が空を切る。 彼は驚いたように私を見た。
「凛?」 「……大丈夫だから」 「いや、でも血が滲んでるし」 「部活でやっただけだから! 心配いらない!」
思ったよりも強い口調になってしまった。 車内の視線が少しだけこちらに向く。 颯人はバツが悪そうに手を下ろした。
「そ、そっか。部活って、何入ったんだよ。そんな怪我するような部活……」 「空手」 「は?」 「空手部に入ったの」
私は颯人の目を真っ直ぐに見て言った。
「私がやりたいこと、見つけたから。だから、構わないで」
プシュー、とドアが開く音がした。 私の降りる駅ではないけれど、もう一秒たりともこの空間にはいられなかった。
「じゃあね」
私は逃げるように電車を降りた。 閉まりかけたドアの向こうで、颯人が呆然とこちらを見ているのが見えた。
ホームに一人、取り残される。 通り過ぎていく電車の風が、熱くなった頬を冷やしていく。 私はテーピングだらけの自分の拳を、胸元に抱き寄せた。 痛い。 皮が剥けた傷よりも、もっと奥のほうが、どうしようもなく痛かった。
「……バカ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。 ただ、一つだけ確かなことは。 もう私は、あの頃の「守ってもらうだけの凛ちゃん」には戻れないということだ。
私は拳を強く握りしめる。 包帯の下で、傷口が熱く脈打った。 この痛みが引く頃には、私はきっと、今よりもっと強くなっているはずだ。 そう信じなければ、明日へ一歩も進めそうになかった。
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