第5話 その拳は弾丸のように。肉を穿ち、骨を砕く「回転」の理屈
武道場の空気は、昨日の朝よりもさらに張り詰めていた。 夕方の練習。部員たちが発する気合と熱気が、板張りの床を振動させている。
私は今、人生で初めて「ミット」というものの前に立っていた。
「いいか、まずは思いっきり突いてみろ。フォームは後で修正する」
私の前で分厚いキックミットを構えているのは、新入部員の高城エリカだ。 彼女は経験者らしく、腰を落とした安定した構えで私を待っている。
「い、いくよ……!」
私は握りしめた右拳を見つめる。 昨日のサーキットトレーニングのせいで、上腕三頭筋と広背筋が悲鳴を上げているけれど、アドレナリンが痛みを麻痺させていた。 狙うはミットの中心。 私は右足を蹴り出し、思いっきり腕を突き出した。
「せやぁっ!」
ボフッ。
鈍い音がした。 手応えはある。あるけれど……なんだろう、この「押し込んだだけ」の感覚は。 エリカの体は数センチ揺れただけ。彼女は涼しい顔で首を傾げた。
「……凛、なんか軽いよ」 「えっ、嘘!? これでも握力40キロあるのに!」 「力はあるんだろうけど、表面で止まってる感じ。痛くない」
ショックだった。 人を殴る(ミットだけど)なんて初めての経験で、自分では必殺の一撃のつもりだったのに。「痛くない」と言われるのが、これほどプライドを傷つけるとは。
「交代だ」
それを見ていた冴島先輩が、無表情で割って入った。 先輩はエリカからミットを受け取ると、私に向き直る。
「一ノ瀬。お前の突きは『突き』じゃない。ただの『押し』だ」 「押し……?」 「腕力に頼って、ただ拳を前に出しているだけだ。それでは相手の表面を撫でることはできても、内臓を破壊することはできない」
内臓破壊。 サラリと怖い単語が出てきた。
「いいか、よく見ろ」
先輩は私の目の前で、ゆっくりと右拳を腰の位置(帯の上あたり)に引いた。 いわゆる「引き手」の姿勢だ。
「ここだ。この時、拳の掌(てのひら)はどこを向いている?」 「えっと……上、ですか? 天井の方を向いてます」 「そうだ。拳が『空』を見上げている状態。これがスタートだ」
先輩の白く細い拳が、天井の蛍光灯を映し込むように上を向いている。 そこから、スローモーションのように拳が繰り出された。
最初は、掌が上を向いたまま。 肘が肋骨を擦るように前に出る。 そして、拳が伸び切る直前――インパクトの寸前で、劇的な変化が起きた。
ギュルンッ!
猛烈な勢いで拳が反転したのだ。 上を向いていた掌が、内側に捻じ込まれ、最後には下を向く。 180度の回転。 ただ回しただけではない。まるでドリルが壁を穿つような、鋭い螺旋の軌道。
「なぜ、わざわざ拳を捻(ひね)ると思う?」
先輩が私に問う。
「え……その方が、かっこいいから?」 「馬鹿者」
即答で斬られた。
「一ノ瀬、お前は拳銃を知っているか?」 「へ? ドラマとかで見るアレですか」 「拳銃の弾丸がなぜ、あれほどの破壊力を持ち、遠くまで真っ直ぐ飛ぶか知っているか。それは弾丸自体が猛烈なスピードで『回転』しているからだ」
先輩はミットを脇に抱え、自分の人差し指をドリルのように回してみせた。
「銃身の中に刻まれた溝――ライフリングによって、弾丸には旋回運動が与えられる。回転する物体は軸が安定し、貫通力が飛躍的に増大する。ジャイロ効果だ」 「じゃ、ジャイロ……」 「空手の正拳突きも同じ理屈だ。ただ腕を伸ばすんじゃない。インパクトの瞬間に拳を急激に旋回させることで、運動エネルギーを『回転エネルギー』に変換し、相手の肉をえぐり、骨を砕く」
弾丸。 私の拳を、鉄の塊に変える技術。
「腕を雑巾のように絞れ。尺骨(しゃっこつ)と橈骨(とうこつ)をクロスさせ、筋肉の繊維一本一本を螺旋状にねじり込むんだ」
先輩の言葉に合わせて、私は自分の腕をさすってみる。 肘から手首にかけての二本の骨。これが捻られることで、腕全体が一本の硬い棒になる感覚。
「やってみろ。最初はずっと『空』を見ていろ。当たる瞬間に、裏返す!」
私は再び構えた。 意識を変える。ただ殴るんじゃない。私は私の腕を、銃身にする。
右拳を腰に引く。 掌は上。天井を見上げている。 全身の力を抜く。 (イメージしろ。私の拳は45口径の弾丸)
踏み込みと同時に、発射。 腕が飛び出す。まだ捻らない。まだ我慢。 肘が脇腹を擦過し、ジャージの布が擦れる音が聞こえる。 ミットまであと数センチ。
――今だッ!
私は全身のバネを使って、右腕を一気に内旋させた。 小指から薬指、中指、人差し指へと力が伝播する。 前腕の筋肉が雑巾のように絞られ、骨と骨が軋むほどに強く、速く、捻じ込む!
パンッ!!
道場に、乾いた破裂音が響いた。 さっきの「ボフッ」という鈍い音とは明らかに違う。 鞭で空気を叩いたような、鼓膜を刺激する高音。
「うおっ!?」
ミットを持っていたエリカが、けっこうな勢いで後ずさりした。
「い、痛ったぁ……! 今の何? ミット越しに骨に響いたんだけど!」 「うそ……今の、私が?」
私は自分の拳を見つめる。 人差し指と中指の付け根――拳頭(けんとう)と呼ばれる部分が、ジンジンと熱を持って赤くなっている。 痛い。 皮膚が擦れ、骨同士がぶつかり合った痛み。 でも、それは不快な痛みじゃなかった。 指先から肩、そして背中へと一本の線が通ったような、不思議な爽快感。
「……悪くない」
冴島先輩が、腕組みをしたまま小さく頷いた。
「今の突きは、回転の遠心力が拳に乗っていた。インパクトの瞬間に『ひねり』を加えることで、接触時間が短くなり、衝撃が奥へ浸透する」
先輩は私の赤くなった拳を指差す。
「いいか一ノ瀬。これからはその痛みが友達だ。拳の皮が剥け、カサブタになり、それが硬化して角質化するまで突き続けろ」 「は、はい!」
「そして忘れるな。回転を生むのは腕だけじゃない。腰だ。地面を蹴った力が足首、膝、腰へと伝わり、最後に背中(広背筋)を通って腕の回転に変わる」
先輩は私の背中をバンッと叩いた。
「お前の体はまだバラバラだ。この連動を一瞬で行えるようになるまで、あと一万回は突け」 「い、一万回……」
気が遠くなるような数字。 けれど、私はもう一度、拳を腰に引いた。 掌で天井の光を感じる。
あんなに惨めだった私の手が。 ただ握りしめることしかできなかったこの拳が。 今は、誰かを倒すための「凶器」へと変わりつつある予感。
――パンッ!
二発目。 いい音だ。 私はこの乾いた音が、少し好きになり始めていた。
颯人の隣で笑っていた、あのふわふわした彼女。 彼女はきっと、こんな痛みを知らない。 拳の皮が剥ける感覚も、骨が軋む衝撃も、汗が目に入る染みるような痛みも知らない。
「……勝てる」
根拠なんてない。 ただ、この「痛み」を知っている分だけ、私の方が強いはずだという確信が芽生えていた。
「もっとだ! 腰を切れ! 拳で空気をねじ切れ!」 「オスッ!!」
その日、私は拳の皮がベロリと剥けるまで、ミットを叩き続けた。 滲んだ血が包帯に赤い花を咲かせても、私は止まらなかった。 回転せよ、私の拳。 いつかあの高い壁を、その心臓ごと撃ち抜くために。
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