第3話 地獄の朝練。吐瀉物(ゲロ)と筋肉痛が青春の味だなんて聞いてない

翌朝。時計の針はまだ午前6時半を指していた。  私は新品のジャージ(ドン・キホーテで2980円)に身を包み、死刑台に向かう囚人のような足取りで道場の門をくぐった。


「……おはようございます」 「遅い」


 道場には、すでに道着に着替えた冴島先輩が仁王立ちしていた。  朝日の逆光を浴びて神々しくさえ見えるその姿は、私にとっては閻魔大王にしか見えない。


「集合時間は6時半と言ったはずだ」 「え、い、今ちょうど30分に……」 「武道の時間は『10分前行動』が基本だ。お前が靴紐を結んでいる間に、敵は喉元を食い破りに来るぞ」


 理不尽だ。まだ戦国時代なんですかここは。  反論したい気持ちを飲み込み、私は慌てて荷物を置く。


「さて、初日だ。まずは基礎体力を測る」 「は、はい! 何をするんですか? やっぱり突きとか……」 「サーキットだ」


 先輩はストップウォッチを取り出し、冷酷な目で私を見据えた。


「バーピー、スクワットジャンプ、腕立て伏せ。これを各20回。休憩なしで10セット回す」 「じゅ、10セットですか!?」 「口を動かすな。体を動かせ。よーい、始め!」


 ピッ、という電子音が、地獄の開門の合図だった。


 最初は、まだ余裕があった。  私は運動神経には自信がある。中学の体育でも成績は良かったし、体力テストも学年上位だった。  けれど、3セット目を過ぎたあたりで、異変が起きた。


(……足が、重い)


 スクワットジャンプ。  着地のたびに、太ももの筋肉が悲鳴を上げる。乳酸が一気に溜まり、筋肉の繊維が焼き切れるような熱さを帯びてくる。   「遅い! 膝が曲がってないぞ!」 「は、はいッ!」


 続くバーピー。  一度床に胸をつけてから、起き上がってジャンプする。全身運動の極みだ。  立って、伏せて、立って、伏せて。  視界が上下するたびに、三半規管が狂い始める。


 5セット目。  呼吸ができない。  肺が焼けるようだ。吸っても吸っても酸素が入ってこない。気管支が鉄の味で満たされていく。


「ぜぇ、はぁ、ぐっ……!」 「止まるな。リズムを崩すと余計に疲れるぞ」


 先輩の声が遠い。  腕立て伏せの姿勢で、腕がプルプルと痙攣(けいれん)する。自分の体重が、まるで鉛のように重く感じる。  汗が滝のように流れ落ち、床に水たまりを作っていく。


(無理。もう無理。死ぬ)


 脳が「限界」のサインを送り続けている。  でも、先輩は止めてくれない。無表情でタイムを計り続けている。  あのかっこいい演武の裏には、こんな地獄があったのか。


 8セット目の途中だった。


 限界を超えた心拍数が、胃の中身を逆流させた。  急激な吐き気が、喉元までせり上がってくる。


「ぅ、ぷ……ッ!」 「おい」


 私は手で口を抑え、道場の隅にある洗い場へとダッシュした。   「オェェェッ……!」


 胃液の酸っぱい味が広がる。  朝ごはんに食べたヨーグルトが、無残な姿で排水溝へと流れていく。涙と鼻水が止まらない。  情けない。汚い。  初日から、憧れの先輩の前でゲロを吐くなんて。


 背後で、足音がした。  大丈夫? と背中をさすってくれる……なんて甘い期待は、次の言葉で粉々に砕かれた。


「全て吐き出したか?」


 冷たい声だった。


「吐いたら口をゆすげ。そして戻れ。まだあと2セット残っている」


 私は耳を疑い、涙目で振り返る。  先輩は、汚いものを見る目ではなく、ただの「事実」を確認する目で私を見ていた。


「き、鬼……」 「極限状態で内臓が裏返るのは、体が弱い証拠だ。それに、呼吸法がなっていないから酸欠になる」


 先輩はタオルを私に投げつけた。


「いいか一ノ瀬。強くなるということは、美しいことじゃない。泥と汗と吐瀉物にまみれて、それでも這いつくばって前へ進むことだ」 「うぅ……」 「お前の『見返したい』という想いは、ゲロを吐いた程度で消えるほど軽いものか?」


 その言葉が、私の心臓を握りつぶした。  悔しい。  ここで「無理です」と言ったら、私はまた颯人の言葉通りになってしまう。   「……やります」


 私は口元を乱暴に拭い、ふらつく足で立ち上がった。


「絶対に、やりきってやります……!」


 ***


 キーンコーンカーンコーン……。


 一時間目のチャイムが、どこか遠くの世界で鳴っているように聞こえた。  教室の席に座る私は、もはや生物としての機能を停止していた。


「――えー、じゃあここの問題を、一ノ瀬。答えてみろ」


 数学の教師の声に、私はビクッと反応する。  立たなきゃ。  脳は命令しているのに、足が言うことを聞かない。太ももの筋肉が断裂したかのように熱を持ち、少し力を入れるだけでガクガクと小刻みに震えだす。


「は、ひゃい……」


 生まれたての子鹿のような格好で、なんとか立ち上がる。  クラス中からクスクスと笑い声が聞こえる。恥ずかしい。でも、恥ずかしがるエネルギーすら残っていない。


「答えを黒板に書け」 「……はい」


 チョークを持とうとした瞬間、さらなる悲劇が襲った。  腕立て伏せで酷使された上腕三頭筋が、完全なストライキを起こしていたのだ。    カタカタカタカタカタ……ッ!


 手が。  手が、制御不能なバイブレーションを起こしている。  黒板にチョークを押し付けると、カカカカカッ! と点線が描かれていく。


「お、おい一ノ瀬? 大丈夫か? 何かの病気か?」 「ち、ちがいましゅ……ただの、きんにくつう、です……」


 文字が書けない。  『x(エックス)』を書こうとしたのに、震えすぎてミミズがのたうち回ったような前衛芸術が完成してしまった。


(颯人……私、あなたを見返すために……今、社会的に死にそうです……)


 白目を剥きそうになりながら、私は遠のく意識の中で思った。  空手部、恐るべし。  私の全国制覇への道は、まだスタートラインにすら立てていないのかもしれない。

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