第2話 不純な動機なら帰れ。ここは出会い系じゃない

武道場へと続く渡り廊下を、私は全速力で駆けていた。  心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒い。けれどそれは運動によるものではなく、先ほど目撃した衝撃的な光景への興奮によるものだった。


 突き。蹴り。そして、あの鋭い眼光。  私の求めていた答えが、あそこにある。


 目の前に、古びた木造の建屋が現れた。「空手道場」と筆で書かれた重厚な看板。  私は迷うことなく、その引き戸に手をかけた。


「たのもー!!」


 時代劇かよ、と自分でも思うような叫び声と共に、勢いよく扉を開け放つ。  ガラガラガッ! と少し建て付けの悪い音が響き、私はズカズカと中へ踏み込んだ。


「あの! さっきの演武見ました! 私を弟子にしてくだ――」


「――止まれ」


 氷の刃のような声が、私の喉元に突きつけられた。  物理的に何かが飛んできたわけではない。けれど、その声に含まれる威圧感だけで、私の足は縫い留められたように動かなくなった。


 広い道場の中央。  午後の日差しが差し込む板張りの床に、あの先輩が一人で立っていた。  冴島 玲奈(さえじま れな)。  さっきステージ上で男子を吹き飛ばした、あの人だ。  彼女はゆっくりとこちらを振り返り、私の足元を冷ややかに見下ろした。


「土足だ」 「え?」 「神聖な道場に、土足で上がるなと言っている」


 はっとして足元を見ると、私は上履きのまま板張りの床を踏みしめていた。  道場内には、凛とした線香の香りと、染みついた汗の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。そこへ、私の無作法なゴム底が侵入していた。


「あ、す、すみません!」


 私は慌てて一度外へ出て、靴を脱ぎ捨てるようにして上がり直す。  先輩は、私が戻ってくるまで微動だにしなかった。ただ静かに、値踏みするように私を見つめている。


「……何の用だ、一年坊主」 「あ、あの! 入部希望です! 先輩みたいになりたくて!」


 私は背筋を伸ばし、精一杯の大声で宣言した。  先輩はわずかに眉をひそめる。


「私みたいに? 具体的には?」 「えっと、その……強くて、かっこよくて……」 「お遊びなら他所へ行け。ここはダンススタジオじゃない」


 取り付く島もない拒絶。  先輩は私に背を向け、雑巾掛けを始めようとする。  待って。ここで引くわけにはいかない。私は拳を握りしめ、腹の底から本音を叫んだ。


「お遊びじゃありません! 私、見返したい奴がいるんです!」


 その言葉に、先輩の手が止まる。


「男か?」 「……はい」 「振られたのか」 「……はい」 「だから強くなって見返したい。自分がいい女になったと後悔させてやりたい。そういうことか?」


 図星だった。あまりにも正確に言い当てられ、私は赤面しながら頷くことしかできない。  すると、先輩はゆっくりとこちらへ向き直った。  その瞳には、さっきまでの静けさが嘘のような、激しい怒りの色が宿っていた。


「……ふざけるな」


 低い声。けれど、体育館のマイクを通した時よりもずっと恐ろしい響き。


「空手は武道だ。己を磨き、道を究めるためのものだ。色恋沙汰の道具に使うだと? そんな不純な動機で、私の道場(ここ)の敷居を跨ぐな」


「か、帰りません!」


 帰れと言われる前に、私は叫んでいた。


「不純で何が悪いんですか! きっかけなんて何でもいいじゃないですか! 私だって本気なんです!」 「本気? 男にモテたいという欲求がか?」 「違います! いや違わないけど……でも、今のままの自分が嫌なんです! 変わりたいんです!」


 私の剣幕に、先輩は無言で歩み寄ってきた。  一歩。また一歩。  距離が縮まるたびに、空気が重くなる。呼吸がしづらくなる。  先輩は私の鼻先数センチまで顔を近づけ、無言で私を睨みつけた。


 ――ッ!?


 体が、動かない。  金縛りだ。  先輩の瞳から放たれる、物理的な圧力を伴った「殺気」。  蛇に睨まれた蛙という言葉があるけれど、今の私はまさにそれだった。野生の本能が、警鐘を鳴らしている。  『逃げろ』『目を逸らせ』『この人に関わってはいけない』と。


 じわり、と嫌な汗が吹き出した。    額からこめかみを伝い、一筋の冷たい雫が頬を滑り落ちる。  それは顎のラインを伝って首筋へ。  心臓が早鐘を打つ胸元へと入り込み、ブラウスの下をゆっくりと這っていく。  気持ち悪い。  冷たいのに、熱い。  汗の雫は胸の谷間を通り抜け、緊張で強張った腹筋の上をツーっと滑り落ちていく。  そして、スカートのウエスト部分を越え、下腹部へと消えていった。


 全身の毛穴という毛穴から、冷や汗が噴き出しているような感覚。  膝が笑っている。ガクガクと震えて、今にも床に崩れ落ちそうだ。


 それでも。  それでも私は、目だけは逸らさなかった。  ここで目を逸らしたら、私は一生「可愛いだけの女の子」だ。  颯人の言った通り、何一つ自分でつかみ取れない、ただの弱い女で終わってしまう。


(そんなの……嫌だッ!)


 私は奥歯を噛み締め、涙目になりながらも、鬼のような先輩の瞳を睨み返した。  時間にして、十秒ほどだっただろうか。  永遠にも思える沈黙の後、ふいに圧力が消えた。


「……ふん」


 先輩が鼻を鳴らし、一歩後ろへ下がる。


「腰は引けてるし、膝は笑ってる。素人丸出しの立ち方だ」


 先輩は呆れたように息を吐き、それから少しだけ、本当に少しだけ口角を上げたように見えた。


「だが、目は死んでない。私の『眼力(目ヂカラ)』を受けて、立っていられた新入生は久しぶりだ」 「え……?」 「根性だけはあるようだな。あるいは――」


 先輩は試すような視線を私に投げかける。


「そんなに、その男のことが好きなのか?」


「――っ!」


 不意打ちの質問に、言葉が詰まる。  好き? あんな残酷な振り方をしたあいつを?  違う。これは意地だ。プライドだ。  でも、その根底にあるのは……。


「……好き、でした。今は、大嫌いで、大好きです」


 矛盾した答え。  けれど、先輩は「そうか」と短く呟いただけだった。


「いいだろう。仮入部を認める」 「ほ、本当ですか!?」 「ああ。ただし」


 先輩の目が、再びサディスティックな光を帯びる。


「私の稽古は地獄だぞ? 明日、ジャージを持ってこい。その不純な根性がいつまで持つか、試してやる」


 そう言って背を向けた先輩の背中は、やっぱり悔しいくらいにかっこよかった。  私は震える膝を両手で叩き、大きく息を吐き出す。  スカートの中まで濡らした冷や汗は、まだ乾きそうになかった。

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