1話(後編) その拳は、私の心臓を貫いた
体育館の空気は、熱気と湿気、そして新入生たちの期待感でむせ返るようだった。
「次はー、バスケットボール部です! 男子も女子もマネージャー募集中!」 「吹奏楽部でーす! 初心者大歓迎!」
ステージの上では、煌びやかなユニフォームを着た先輩たちが、笑顔でパフォーマンスを繰り広げている。 隣のミナちゃんは「すごーい!」「あ、あの先輩カッコいい!」といちいち黄色い声を上げているけれど、私の心は冷え切ったままだった。
(……違う)
体育座りをして膝を抱えながら、私はぼんやりとステージを見上げる。 みんな楽しそうだ。キラキラしている。 でも、その眩しさは私には届かない。颯人(はやと)が言った「かっこいい」は、きっとこういうことじゃない。もっとこう、芯があって、揺るがない何かで……。
「あーあ、お尻痛くなってきた」
集中力が切れ、あくびを噛み殺した、その時だった。
「――次、空手道部」
司会のアナウンスと共に、体育館の照明がわずかに落ちた気がした。 ざわついていた喧騒が、一瞬だけ凪ぐ。 ステージの袖から現れたのは、これまでの部活とは明らかに異質な集団だった。
裸足。 雪のように白い道着。 そして、腰に巻かれた黒帯。
飾り気のないその姿は、華やかなダンス部や軽音部の後では、あまりに地味に見えるはずだった。 けれど、先頭を歩く「彼女」を見た瞬間、私は視線を外せなくなった。
長い黒髪を一本に束ね、背筋を槍のように鋭く伸ばした女子生徒。 身長は私と変わらないくらい小柄だ。なのに、彼女が歩くたびに、周囲の空気がピリリと張り詰めていくような錯覚を覚える。
「……何あれ、ちょっと怖くない?」
誰かが囁いた声すら、今の私には遠い。 ステージ中央に立った彼女は、正面に向かって深く一礼した。
「オス!」
腹の底から響くような、短く、鋭い発声。 続いて、彼女の対面に大柄な男子部員が立つ。身長差は頭一つ分以上。体重差だって倍近くあるかもしれない。 ボクシングのようなグローブはつけていない。素手だ。 あんな大きな男の人と戦うの? 無理に決まってる。誰もがそう思った空気を、彼女は一瞬で切り裂いた。
構え。 彼女が右足を引いた瞬間、私の肌が粟立った。 重心がスッと落ち、足の裏が床板に根を張ったように安定する。脱力しているのに、隙がない。まるで鋼鉄のバネが、圧縮されて弾ける直前のような静寂。
「始めッ!」
合図と共に、男子部員が踏み込んだ。 速い。素人の目から見ても、容赦のない上段突きが彼女の顔面を襲う。 当たれば鼻が折れるような暴力的な軌道。 悲鳴を上げそうになった私の目の前で、信じられないことが起きた。
彼女は、退(さが)らなかった。 前に出たのだ。
相手の突きが伸びきるコンマ数秒前、彼女の体が一瞬で「入身(いりみ)」する。 最小限の動きで顔を逸らし、突きの風圧を頬で受け流しながら、彼女の右拳が男子の懐(ふところ)へと潜り込む。
――シュッ!
鋭い呼気と共に、彼女の全身が連動した。 右足の蹴り出しが腰を回旋させ、その回転エネルギーが背骨を伝わり、肩甲骨を押し出し、最後に拳へと収束する。 解剖図が見えるようだった。 リラックスしていた筋肉が、インパクトの瞬間にだけ岩のように硬化する。
ドォォォン!!
人体を殴った音とは思えない、重く低い衝撃音がマイクを通して体育館中に響き渡った。 男子部員が持っていたミットがくの字に折れ曲がり、その巨体が数メートル後ろへ弾き飛ばされる。
「え……?」
男子が尻餅をつくのと同時に、彼女は素早く元の位置に戻り、構えを解かないまま相手を凝視していた。 残心(ざんしん)。 油断も、慢心もない。ただ、相手が反撃してくるなら即座に仕留めるという、純粋な闘争本能と理性の融合。
道着の袖が、バァンッ! と遅れて爆音を立てた。 衣擦れの音が、まるでムチのように空気を叩いたのだ。
静寂。 数百人の新入生が息を呑み、その光景に圧倒されていた。 美しい。 ただひたすらに、暴力的で、美しい。
私の心臓が、早鐘を打っていた。 ドクン、ドクン、と痛いほどに脈打っている。 これだ。 颯人が言っていたのは、これだったんだ。 媚びるような可愛さじゃない。守られるだけの弱さじゃない。 自分の足で大地を踏みしめ、自分の拳で道を切り開く強さ。
あんな風になりたい。 あんな風に、誰にも負けない強さを手に入れて、颯人の前で立ってみたい。
「……空手」
乾いた唇から、その単語が漏れた。 ミナちゃんが何か言っているけれど、もう聞こえない。 私の目は、ステージの上で涼しい顔をして汗を拭う、あの先輩に釘付けになっていた。 体の中に渦巻いていた、行き場のないマグマのような怒りと悔しさ。 そのすべてを注ぎ込むべき「器」を、私は今、見つけたのだ。
「えっ、ちょ、ちょっと凜ちゃん!?」
部活動紹介が終わった直後、私は席を立っていた。 どこへ行くのかなんて、考えるまでもない。 足が勝手に動いていた。思考よりも先に、本能がそこへ向かえと叫んでいる。
目指すは武道場。 あの先輩がいる場所へ。
廊下を走りながら、私はスカートのポケットの中で、再び拳を握りしめた。 昨日までの、ただ痛いだけの拳じゃない。 これは「決意」の拳だ。
待ってて、颯人。 私が「かっこいい」って言わせてやる。 後悔させてやる。泣いて謝ったって許さないくらい、最高にいい女になってやるんだから!
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