1話(前編) 灰色の入学式と、空回りする決意
高校の入学式というのは、どうしてこうも浮かれた空気が漂っているのだろう。 視界の端で揺れる桜のピンク色が、今の私には毒々しいほど鮮やかに見えた。
「わあ、制服似合ってるー!」 「ねえねえ、部活何にする? やっぱダンスとか?」 「あ、あそこの男子、イケメンじゃない?」
四月の陽気な日差しの中、真新しいブレザーに身を包んだ新入生たちの声が、鼓膜をささくれ立たせるような不快なノイズとなって響く。 誰もが「これから始まる青春」を信じて疑っていない。その無邪気さが、妬ましくて、恨めしくて、そして何より――自分が惨めだった。
正門をくぐりながら、私は一人、肺の中の空気をすべて吐き出すような深いため息をついた。 周囲の景色がキラキラと輝いて見えるほど、私の中の灰色が際立っていく。まるで、華やかな絵画の中に一滴だけ落ちた、汚れた墨汁のシミになった気分だ。
(……帰りたい。今すぐ、布団の中に潜り込みたい)
一ヶ月前の失恋を引きずったまま、私の高校生活は幕を開けてしまった。 新しい環境、新しい友達、新しい恋。そんな言葉を聞くたびに、胃のあたりが鉛のように重くなる。 あれから私は、鏡を見るたびに颯人の言葉を反芻している。
『かっこいい女の子が好き』
その呪いのような言葉が、私の自信を根こそぎ奪っていった。脳裏にこびりついて離れない、残酷な笑顔。 ねえ、颯人。かっこいいって何よ。 春休み中、私は必死に考えた。ネットで「かっこいい女性 条件」なんて検索もした。 髪をバッサリ切ればいいの? 流行りのメイクをやめて、男言葉を使えばいいの? それとも、バリバリ勉強して生徒会長にでもなれば、君は私を見てくれたの? いくら考えても、私という器(うつわ)では君の理想になれないという事実だけが突きつけられるようで、思考はいつも自己嫌悪の沼に沈んでいく。
答えが出ないまま、私は流されるようにクラス分けの掲示板へ向かう。 人混みは嫌いだ。思考が停止したまま足を進めていると、前方から男子生徒がふざけ合いながら走ってきた。 あ、ぶつかる。 そう思った瞬間、私の体は思考よりも早く反応していた。
スッ、と半歩。 最小限の動きで重心をずらし、衝突軌道を躱(かわ)す。 相手の鞄が私の鼻先数センチを掠めていったが、私は瞬き一つしなかった。
「うおっ、わり!」 男子生徒は気づかずに走り去っていく。 ……無意識だった。昔から、こういう「勘」というか、体の反応速度だけは良かった気がする。ドッジボールでも最後まで逃げ残るタイプ。 でも、それが何の役に立つというのか。 逃げるのがうまくても、一番欲しい人の心は掴めなかったのに。
私の名前は一ノ瀬 凛。 どこにでもいる、ただの失恋女子高生。いや、失恋を引きずりすぎて腐りかけている女子高生だ。
「あーあ……何か変わりたいなぁ」
新しい教室の席についた後も、私は誰とも会話をせず、ただ窓の外を流れる雲を眺めていた。 ぽつりと漏らした言葉は、誰に届くわけでもなく春の風にかき消される。 ただ、体の中には、行き場のないエネルギーだけがマグマのように渦巻いている。 あの日、握りしめた拳の熱さが、まだ手のひらに残っているような気がした。何かを殴りつけたいような、全力で叫び出したいような、破壊的な衝動。 見返したい。 颯人を。そして、私を選ばなかったことを後悔させたい。 今の私を構成しているのは、希望なんて綺麗なものじゃない。ドロドロとした執着と意地だけだ。 でも、そのための「手段」が、今の私にはまだ見つかっていなかった。
ホームルームが終わり、放課後のチャイムが鳴り響く。 よし、帰ろう。誰よりも早く教室を出て、コンビニで甘いものでも買って帰ろう。そう決意して鞄を持ち上げた、その時だった。
「ねえねえ一ノ瀬さん! これから部活動紹介あるんだって! 見に行こうよ!」
ドン、と机に手をついて視界を塞いできたのは、隣の席になった女子――確か、ミナちゃんと言ったか。 やたらと声がでかい。そして、距離が近い。私が一番苦手な「陽のオーラ」を全身から放っているタイプだ。
「え、あ、私は用事が……」 「えー! 用事なんて後でいいじゃん! せっかくの入学初日だよ? ね、行こ行こ!」
拒否権はなかった。 私の返事も待たず、ミナちゃんが私の腕を強引に掴む。その握力は意外に強く、心の死んでいる私は抵抗する気力すら湧かなかった。 (……勘弁してよ)
ズルズルと引きずられるように、私は気乗りのしないまま体育館へと連行されることになった。 この時の私は、ただ早く家に帰りたくて、不貞腐れていた。 まさかその先に、私の運命を劇的に変える「衝撃」が待っているとも知らずに。
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