第11話 麻酔科医の矜持
本院のカンファレンスルームに、重苦しい沈黙が流れていた。 壇上に立たされているのは、浅野 瞳(あさの ひとみ)だった。
「浅野先生。昨日の緊急オペにおいて、患者の血圧が急激に乱れ、一時心停止に陥った。これは君の薬剤投与ミスではないのかね?」
皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)統括部長が、眼鏡の奥の目を鋭く光らせる。 周囲の教授たちも、冴島 零(さえじま れい)の右腕である瞳を排除しようと、冷ややかな視線を浴びせていた。
「……私はガイドライン通りの投与を行いました。原因は他にあるはずです」
瞳は毅然と答えるが、手元の資料を握る指先は微かに震えていた。 実は、搬送された患者、佐久間 誠(さくま まこと)には、通常の術前検査では判明しない極めて稀な体質が隠されていたのだ。
そこへ、一人の男を伴って零が部屋に踏み込んできた。 連れてきたのは、本院の薬剤部に勤務する若手薬剤師、桐生 航(きりゅう わたる)だった。
「皇部長。犯人探しなら、このデータを見てからにしたら?」
零が叩きつけたのは、患者の術中モニタリングと、投与された薬剤の精密な解析結果だった。
「患者は『
零は瞳の横に立ち、教授たちを見渡した。
「心停止から一分以内に蘇生させた瞳の判断がなければ、今頃この病院は訴訟で潰れていたわよ」
だが、患者の容体は依然として予断を許さない状況だった。 悪性高熱症による
「瞳。この患者を救えるのは、あなたの麻酔管理と、私のメスだけよ」
「……ええ。私のプライドにかけて、二度は止まらせないわ」
二人は周囲の制止を振り切り、再びオペ室へと向かった。 今回の敵は、癌でも外傷でもない。患者自身の肉体が起こした、制御不能な「化学反応」だった。
「瞳、ダントロレンの連続投与を開始して。体温を冷やしながら、血栓除去を行うわ」
零の指示に、瞳は迷いなく応じる。
「了解。体温三十九・五度。冷却マット、全開! 零、急いで。腎臓が持たないわ」
零の手が、心臓に近い大きな静脈を切り開いた。 そこには、異常な高熱によって凝固し始めた血液の塊が、血管を塞ごうと蠢いていた。
「……バイポーラ。この微細な血栓を、一本ずつ取り除くわよ」
零のピンセットが、血管を傷つけないギリギリの加圧で血栓を摘出していく。 一方で、瞳はモニターの僅かな数値の変化を読み取り、秒単位で薬剤の濃度を調整していた。
「外科医が攻めるなら、私は守り抜く」
瞳は心の中で呟きながら、自らの指先を麻酔器のレバーと一体化させた。 外科医がどれほど天才的であっても、患者のバイタルを維持する麻酔科医がいなければ、そのメスはただの凶器に変わる。
「……体温、三十七度まで降下。バイタル、正常値へ復帰」
瞳のその言葉を聞いた瞬間、零は最後の一針を縫い終えた。 オペ室に、安堵の溜息が漏れる。
「……お疲れ様、零。やっぱり、私たちのコンビは最強ね」
「当たり前でしょ。私の背中を預けられるのは、あなたしかいないんだから」
手術後、皇は非を認めざるを得なかった。 瞳への処分は撤回され、二人の絆は、本院の冷徹な壁を打ち破る力となった。
しかし、この勝利さえも、皇が計画している「最終段階」の序章に過ぎなかった。
1.
全身麻酔で使用される特定の吸入麻酔薬や筋弛緩剤によって引き起こされる、稀ですが極めて致死率の高い合併症です。 骨格筋の代謝が異常に亢進し、体温が急激に上昇(一五分に一度のペースで上がることもあります)、全身の臓器が壊れていきます。
2. ダントロレン
悪性高熱症に対する唯一の特効薬です。 異常に収縮した筋肉を弛緩させ、代謝を正常に戻す役割を果たします。これを発症からいかに早く投与できるかが、生死の分かれ目となります。
3.
高熱や筋肉の異常収縮によって筋肉細胞が壊れ、その成分(ミオグロビン)が血液中に流れ出す病気です。 流れ出したミオグロビンが腎臓のフィルター(糸球体)を詰まらせることで、急激な「
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ゼロの執刀医 SAKURA @sakura3350
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