第10話 血の記憶

本院の廊下を、一人の老紳士が静かに歩いていた。 その姿を見た皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)統括部長が、珍しく椅子から立ち上がり、慇懃に頭を下げる。


「これは……元・明花大学医学部長、龍崎 幻十郎(りゅうざき げんじゅうろう)先生。何のご用でしょうか」


「かつての教え子が、ここで『神の手』と呼ばれていると聞いてな。……冴島 零に会わせてくれ」


龍崎のその言葉に、皇の顔に緊張が走った。 龍崎は、十五年前に起きた「ある医療事故」の責任を取って医学界を去った、零の師であり、育ての親でもあった。


その頃、零は真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)と共に、深刻な「外傷性大動脈解離がいしょうせいだいどうみゃくかいり」で運ばれた青年の処置に追われていた。


「患者名、成瀬 亮(なるせ りょう)。二十五歳。交通事故による急性大動脈解離、スタンフォードA型!」


「凛……いえ、零先生! 上行大動脈じょうこうだいどうみゃくが今にも破裂しそうです!」


真壁がエコー画像を見ながら叫ぶが、零の手元は一瞬だけ止まった。 目の前の患者の顔が、十五年前、自分の目の前で救えなかった「ある人物」と重なったからだ。


「……私はもう、あの日の二の舞にはならない」


零は即座に開胸の準備を指示したが、そこへ龍崎がオペ室の自動ドアを抜け、無言で入室してきた。


「零。その震えを止めろ。お前が迷えば、この男はあの男と同じ末路を辿るぞ」


「……先生。なぜここに」


「見届けに来た。お前が、血の記憶を乗り越えたかどうかをな」


龍崎の声は、かつての厳しい指導医そのものだった。 零は深く呼吸を整え、瞳に宿っていた微かな揺らぎを、冷徹なまでの集中力で上書きした。


「瞳、人工心肺を開始。体温を二十度にまで下げて、完全循環停止を行うわよ」


「了解! 零、あなたの集中力……今までで一番高いわ。行くわよ!」


浅野 瞳(あさの ひとみ)が人工心肺のレバーを操作し、少年の全身の血流を機械へと切り替えた。 零のメスが、裂けた大動脈を鮮やかに切り開く。


内膜が剥がれ、血液が本来の通り道ではない場所に流れ込み、血管をボロボロに破壊していた。 それは、十五年前に龍崎と零が、あと一歩のところで救えなかった症例と全く同じだった。


「フェルトパッチを用意。内膜を補強しながら、人工血管を吻合ふんごうするわ」


零の指先は、もはや人間の限界を超えた速度で動いていた。 十五年前、自分の未熟さゆえに繋げなかった一針を、今、彼女は完璧な角度で血管に滑り込ませる。


「……先生。私はもう、あの日の子供じゃない」


零は龍崎に向かって呟き、最後の一針を結紮(けっさつ)した。 遮断されていた血流が再開し、人工血管が少年の体内で力強く脈打ち始める。


「心拍再開。……零、完璧よ。出血も一滴も漏れていない」


瞳の報告を聞き、龍崎は静かに目を閉じた。 彼は、教え子が自分の罪を背負い続け、それを技術という名の力に変えて生きてきたことを悟ったのだ。


「……見事だ、零。お前はもう、私の手さえも必要としない」


龍崎はそう言い残し、誰にも告げずに病院を去っていった。 手術を終えた零は、屋上のベンチで一人、真っ赤に染まった夕日を見つめていた。


「冴島先生……。あの老紳士は、一体?」


真壁の問いに、零は遠い目をして答えた。


「私の執刀医。……私が、この世で唯一、命を預けられると思った人よ」


零の過去に刻まれた「血の記憶」は、一つの手術によって昇華された。 しかし、彼女の存在を揺るがす本院の政治闘争は、さらに激しさを増し、次なる標的は彼女の唯一の理解者である瞳へと向けられることになる。








急性大動脈解離きゅうせいだいどうみゃくかいり(スタンフォードA型)の解説


1. 急性大動脈解離きゅうせいだいどうみゃくかいり

心臓から出る最も太い血管「大動脈だいどうみゃく」の壁が、内側から裂けてしまう非常に危険な病気です。 特に、心臓に近い部分(上行大動脈じょうこうだいどうみゃく)が裂ける「スタンフォードA型」は、発症から一時間ごとに生存率が数パーセントずつ低下すると言われ、即座の手術が必要です。



2. 完全循環停止(かんぜんじゅんかんていし)

大動脈の根元を修理するためには、一時的に全身の血流を完全に止める必要があります。 当然、そのままでは脳が死んでしまうため、体温を二十度近くまで下げて細胞の代謝を極限まで落とし、脳を守る「低体温療法ていたいおんりょうほう」が併用されます。



3. 人工血管置換術(じんこうけっかんちかんじゅつ)

裂けてしまった自前の血管を切り取り、強靭な布製の「人工血管」に置き換える手術です。 血管の壁が薄く、脆くなっているため、針を通す際にさらなる破綻を招きやすく、外科医には最高難易度の縫合技術が求められます。

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